第二話 青崎総研の朝は遅い、あるいは早い

二〇三六年六月二日 九時二十五分二十一秒


「――ん」

 窓から差す薄明かりや漏れ聞こえてくるさざめきが一気に意識に流れ込んできて、青崎涼は目を覚ました。六畳ほどの寝室にはベッドのほか、背の低い本棚と、複数のモニターが並べられたPCデスクが置かれていて、手狭さをありありと感じさせた。その傍らで、涼は脳裏に過る余韻をなんとか止めようとした。

「あー……」

 だが言葉にしようとしても出来ない。懐かしい夢、荒唐無稽で支離滅裂なものではなく、過去の記憶を辿るようなそんな夢を見たような気がしていたが、それを捉えようとする試みが失敗に終わり、その体験が頭の中から消失していくのを涼は感じた。


 しばらく眠い目をこすりながら天井を見て、そして涼はぼやけた頭のまま枕元にあったVisoR《バイザー》を掛けた。瞬間、透過型ディスプレイを通じてホーム画面が視界に投影される。涼はそれをくるくると操作しながら、ニュースサイトのトップページやメールボックスの受信ボックスを眺める。最も別に、その内容を頭に入れたりしているわけではなく、ただのルーティンだった。小学生の頃にはもう同じようなことをスマートフォンで行っていたので、デバイスが軽量高性能なAR端末に変わった今、もう十五年は続けている朝のルーティンということになる。


 そうやって脳の覚醒を待ち、頃合いになったタイミングでようやく体を起こし、涼は部屋の扉を開けた。ぺたぺたという足音を伴いながら廊下を抜け、階段を降りていくと、一階から聞こえるアナウンサーの声がだんだんと大きくはっきりとなっていく。


『……では、大規模な……しており、地元の警察が対応を続けています。現地の自治体は……』

 あくびまじりに一階のドアを開けるとコーヒーの香りが鼻をくすぐった。無性にカフェインが恋しくなって顔を見上げると、使い終えたばかりなのだろう、給湯スペースのバリスタマシンはまだ雫を滴らせていて、そして事務スペースでは一人の女性がマグカップを手に座っていた。

「……俺の分の豆ある?」

「ない。これで最後」

 ぴしゃりと言い放たれ、涼は肩をがっくりと落としながらやかんに水を入れ始めた。

「っていうか、何度も言ってるけど。ノックもせずにそんな寝起きの格好でオフィス入ってくるの、やめてくんない?」

 その言葉を聞き流しながら、涼はカップにインスタントコーヒーの粉を入れる。

「クライアントが来てたら、不審者が侵入してきたかと思われる」

「そういう予定が入ってないのを確かめてから来てるっての。それにな」

 最近のインスタントも意外と悪くないなと一口啜りながら、悪態の主を見やる。

「客商売でそんな攻めた格好してるやつに言われても、全く説得力が無い」


 無精髭にだぼついたスウェットの涼の格好が受け身な意味で人目に憚るとしたら、涼の同僚――織戸アカネの格好はその真逆、能動的な意味で目につくものだった。それは一言で表すと「怖い黒ギャル」だった。ブリーチされた金髪のショートヘアは、サイドが大胆に刈り上げられている。あらわになった耳には幾つかのピアスが光り、肌は小麦色に焼かれ、そしてただでさえ整った顔のパーツをさらに際立たせるような濃いメイク。そんな彼女が黒いパンツスーツを着こなしているとなると、いよいよ見た目が与える手強さは頂点に達する。


 だが彼女の手強さは見た目以上に、その内面にあることを涼は痛いほどよく知っていた。

「SFコンサルを謳っておきながら、令和初期のOLのテンプレみたいな格好をして客前に現れるほうがよっぽど誠意に欠けるでしょ。自分を偽らずアピールすることを良しとする直近の価値観の更にその先を見せてやる。趣味と実益を兼ねたこの合理性を理解できないから、あんたは新しいクライアントを取ってこれないんじゃないの」

 痛いところを突かれ涼は思わず咽た。「株式会社青崎総合研究所」のファウンダー兼CEOという肩書にはおおよそ不釣り合いな情けなさだった。


 秋葉原という交通の要衝に立地するにも関わらず、事務所兼二人の住居であるこの建物に訪れる人はそうそう多くない。所属コンサルタントが涼とアカネただ二人だけの極小規模の法人であることも大きな理由だったが、彼らが提供するSFプロトタイピングという手法の需要が一巡してしまったことも影響していた。


 一般的な課題解決型のコンサルティングが、現状の課題を分析して、そこからどのように改善をしていくかというForecast型であるのに対し、SFプロトタイピングは、未来の結果を想像して定め、そこからそれに至るための道筋を考えるBackcast型の対応を提供する。「未来の結果を想像」と一言でいうが、それを通常の演繹的な議論で考えていてはForecast型とやることが変わらない。付加価値を与えるためには、そうした二点を結ぶ線の延長線を伸ばすようなな議論から外れ、想像を上手に飛躍させる力が求められる。その飛躍こそが「SF的思考」に求められるものであり、SFプロトタイピングとして提供されるサービス価値となる。


 平たく言えば、SF作家の知見や考え方を生かしてイノベーションを起こしたりリスク管理をやろうということだ。人々の豊かな想像力は実際に直近でも幾つかの革新を生み出すことに繋がっている。今二人が使っているVisoR――涼のはフレームがある旧型で、最新型はアカネが付けているようなコンタクトレンズ型のものだ――であったり、それらへの二十四時間三百六十五日の通信・電源供給を可能としたドローンネットワークもそうだ。メタバースや自律制御機械といったものの誕生・発展は、単なる技術的な革新の積み重ねによってのみではなく、それへの資源投資を人に誘う想像力も大きく寄与しているということは、誰も疑いはしまい。


 他方で、かつては新奇でニッチ、故に需要過多で供給不足な業界だったわけだが、一度注目が集まればあっという間にレッドオーシャンと化し、そんな鮮血のようなプールに最後発かつ零細の状態で飛び込んだ青崎総合研究所は、当然のように火の車の経営状況だ。さらに多くの本職SF作家が副業として参入する中で、一人の作家と一人の素人の計二人で始めた会社であるので、厳しい状況となるのは当然といえば当然であった。二人が事務所の二階に住む理由もそこにある。


「世界にはこんなにも課題が溢れているんだから、口開けて待ってても仕事が来て止まらないのが道理だろうに。そう思わないか?」


 応接スペースの脇に置かれた六〇型の日本製液晶テレビ――居抜きのオマケで付いてきた年代物だが、たまに来る中年の取引先が見ると懐かしいと大層喜ぶので、捨てずにニュース番組を垂れ流し続けている――では、廊下から聞こえてきた話題の続きをアナウンサーが読み上げていた。


『都内では昨日も、複数の街で大規模なデモ活動が実施されました。デモ団体は駅や主要道を封鎖するように行進し、警察と衝突して一般車両の通行などに支障が表れるなど、辺りは一時騒然としました』


 映像を見ながら涼は視界にニュースサイトを表示した。学校に行きたがらない学生が急速に増えている、であるとか、陰謀論めいたネット上の投稿を見分けるツールが配布された、であるとか、世の中にはなにか平時と異なる空気が立ち込めている。

「世界が終わるかも、なんて世迷い言を信じるような連中に、Backcast型の解決策を提案した所で、先のことなんてそもそも考えられてないんだから意味ないっての」

 アカネは視界の先に浮かべた資料から目を離さず、投げやりにそう言った。アカネが抱えている案件の数が自分のそれよりも目に見えて多いのを見て、涼は後ろめたさを感じた。

「じゃあSFコンサルから普通のコンサルに鞍替えしろってのかよ」

 そうは言うが、それが困難極めることを涼自身自覚していた。一般的なコンサルは、法人ないしは特定の個人が有する独自性ある高度な知見を提供することに価値の源泉がある。アカネならともかく、自らの知見ににそうした価値があるとは一切思っていなかった。

「そうなったらあたしは作家に戻るか、起業するけど」

 涼は頭を抱えた。ネット上でかつての幼馴染である織戸アカネがSF小説の新人賞を取ったことを知って即アポイントを取り説得、仲間に引き入れて在学中に向こう見ずに起業をした。そこまではビギナーズラックが通用していたように思うが、長くは続かなかった。今や見様見真似で作家でもなんでもない涼がコンサル業務に手を付けて、日銭を稼ぐ日々となっている。

こんな小さな会社を維持させるのにもこれだけ気を揉むのだから、確かに世界がいっそ終わってしまえば、なんて考えてしまう人々の気持ちも、分からなくもない気がした。


 そう。今世界は、もう何度目になるか分からない世界滅亡論ブームの真っ只中にある。

 切掛は約一ヶ月前。アメリカの民間企業とNASAの合同研究チームが行ったある発表だった。それは、この宇宙が「真の真空」状態にあるということが実験から確認できた、という内容だった。学術的には非常に大きな発見であったが、前もっての発表会の予告にも関わらず、その様子をライブ配信する動画の同時視聴者数は三千人程度と、なんとも微妙な注目度であった。

 だがその状況は、三時間後に投稿されたあるニュース記事を境に一変した。



『朝読新聞 二〇三六年五月四日

宇宙の状態「偽の真空」と判明 米研究チーム発表


 米マサチューセッツ工科大学(MIT)と米ScooL(スクール)社の共同研究チームは、この宇宙が「偽の真空」状態にあることを確認したと発表した。理論上の予測と実際の観測結果の一致により確かめられた。


 宇宙物理学における「真空」は、空間が持つエネルギーが取りうる中で最も低い状態を指す。宇宙空間は一般にこの真空に近い状態であるとされていたが、厳密な意味での「真の真空」状態であるかどうかは確かめられていなかった。理論上は現在の状態よりもさらにエネルギーが低くなる可能性は否定できず、その場合この宇宙は「真の真空」よりも空間のエネルギーが大きいところで一時的に安定している、「偽の真空」の状態にあることになる。


 今回共同研究チームは宇宙の誕生から現在に至るまでの進化の過程を専用のコンピューター上でシミュレーションした。並行して、現時点で最高の精度を誇る宇宙望遠鏡「ホーキング宇宙望遠鏡」による深宇宙の観測を実施。そして複数の計算条件のうち、偽の真空の状態にある宇宙のモデルと実際の宇宙の観測結果とが正確に一致すること、真の真空であることを仮定した場合のモデルとは一致しないことを確認した。


 偽の真空と真の真空の関係は、二つの凹みがあるローラーコースターのコースで例えられる。偽の真空は高い方の凹みにコースターがある状態で、一旦は両端にある坂で遮られ、その場所で落ち着いている。しかし何らかの力を加えて動かせば、その山を超え、真の真空であるより低い方の凹みに移動することが可能だ。両者の高さの差分の位置エネルギーは、例えにおいてコースターに準えられている宇宙空間そのものに取り込まれる。原理は単純だが、一方で核兵器や粒子加速器といった人類の科学技術や、太陽の核融合反応や超新星爆発、巨大ブラックホールといった天文現象で発せられるエネルギーですら不足するほど、必要となるエネルギーは高いとされている。


真空が持つエネルギー リスク乗り越え活用へ



 問題は、理論上は低い凹みへの移動方法がもう一つあることだ。量子論におけるトンネル効果と呼ばれる現象は、コースターがレールを突然に貫通して通り抜けてしまう可能性があることを認めている。すべての物質の根源である量子の位置が、絶対的な座標ではなく分布の可能性でしか示せないことに由来するが、これは宇宙が唐突に偽の真空から真の真空に転じてしまう可能性をも意味している。この転移は空間の相転移と呼ばれる。現象自体は量子レベルで起きるため非常に小さなスタートを切るが、その際に2つの窪みの高さの差分の位置エネルギーに相当するような空間のエネルギーが放出され、その莫大なエネルギーによって周囲の空間も連鎖反応的に相転移を起こし続けていってしまう恐れもある。この「真空の崩壊」と呼ばれる現象が起きると、物質の性質や物理的な法則すべてが真の真空の前提に立ったものへと変化してしまい、既存の宇宙は実質的に破壊されてしまうことになる。

 一方で研究チームは会見にて、この偽の真空と真の真空の間のエネルギー差(ポテンシャルの差)を利用することで、これまでに人類が想像し得なかったようなエネルギーを取り出すことも可能となるだろうと説明した。


 「量子レベルの真空崩壊で発生するエネルギーが実際に連鎖反応を起こしうるかどうかは、まだ確認できていない」と研究チームリーダーのL・ハミルトン氏は述べる。「今後のさらなる研究で、もしその程度のエネルギーであればコースターは坂道を登りきれないということが分かれば、真空崩壊のリスクを制御しながら空間のエネルギーをコントロールして取り出すようなことも出来るようになるかもしれない」と、次なる研究や将来の実用性についての展望を述べた。


西村聡 東京大教授(宇宙物理学)の話

 真空崩壊の内容を聞くと非常にセンセーショナルな現象に聞こえるが、百三十七億年以上宇宙のどこでも起きてこなかった現象が、今すぐに地球の近くで起こることは考えにくく、確率論的には人類が存続している間には発生しないだろう。また、もし仮にそれが発生したとしても、現象は光の速さで発生し、光の速さ未満でしか生きることのできない我々がそれを事前に検知することは物理的に不可能であるので、これについて日常生活で特段の心配を払うようなことは無用と断言できる。』



 それは、配信された発表会の中継内容と全く逆のことを記した記事であった。人名も時間も会場もすべて実際と同じだが、肝心の内容がてんで異なっている。この記事は一瞬だけ閲覧可能になっていたようで、人々が朝読社のサイトに殺到した頃にはもう正しい記事に差し替えられていた。


 だが当然のようにその記事はネット上にデータとして残ることとなり、それがSNS上でシェアされると、様々な言説が飛び交い始め、そしてまもなく世論は最も極端な結論にたどり着いた。つまりこの記事の内容こそが真実であり、宇宙は実際には偽の真空にある。NASAやScooL社は真空崩壊の恐怖から社会不安が高まってしまうのを避けるために、敢えて虚偽の情報を発表したのだ、と。


「お前はどう思うよ、あの記事」

 涼の問いに、アカネは鼻で笑った。

「そもそも、一分で消された、とかいうけど、例の記事データを本当に朝読新聞がアップしたなんて根拠は実はひとつも示されてないでしょ。画面キャプチャされてたわけでもないし、キャッシュも残ってない。朝読だって投稿したことを否定してる」


 アカネはその見目に反し、執筆する小説も提供する成果物も、実際的で合理的だった。どれくらいかというと、新人賞受賞後にその作品に科学考証の面で致命的な瑕疵を見つけ、自ら出版と販売の停止を申し出たほどである。


 丁度涼が彼女に声を掛けたのがその騒動の真っ只中であった。涼がその場で口八丁を並べ立てその瑕疵の誤魔化し方をでっち上げたところ、アカネはそれに目を見開いて驚き、翌日にはその小説の出版話は再び進むこととなった。彼女が青崎総研――その時点ではその名すら決まっていなかったが――入りを決めてくれたのも、その出来事があったからだと涼は考えている。その僅かな貸しが二人を――本来なら永遠に分かたれていたはずの二人を、今も尚つなぎ止めている。


「裏で陰謀が渦巻いているんだとしたら、そりゃ投稿したことは否定するだろ。それに中身のソースコードだとかメタデータの情報は、実際の記事のそれと同一だったらしいぞ」

「だとしても、じゃあ何でわざわざそんな馬鹿正直な『真実』を書いた記事を準備する必要があるわけ? なんの理由もないでしょ。内部文書なんだとしたら記事の体裁を取る必要も無いわけで」

「……おお、一理ある」

「オールドメディアの記事を普段から忌み嫌ってる連中に限って、この記事を真実だって信じて疑わないんだから、いよいよ人間のバイアスってのが恐ろしい。それがあたしの感想」

「それを信じて暴れてる、崩壊論者たちについては?」

「八月三十一日にもなって夏休みの宿題が終わらないから、台風でも来ないかなって祈ってる小学生みたいなもんでしょ。不満のはけ口がたまたまこの噂だったってことじゃないの」


 そう言ってアカネはテレビを消して、イヤホンを耳に付けた。オンラインでのクライアントとの打ち合わせの予定が入っているのだ。涼は肩をすくめてマグカップをキッチンに置くと、再び廊下に出て洗面所へ向かった。昼に珍しく外出の予定があるので、それまでには身だしなみを整えなければならなかった。

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