第12話 いちょう食堂の志
数日後、お盆休みがやって来た。リリコはたすき掛けにしたショルダーバッグにデジタルカメラを忍ばせて
暑さがましなはずの午前中だと言うのに、公園に近付いて行けば
今年の立秋は7日だった。暦の上では秋だが、まだまだ真夏の
リリコのささやかな趣味は、植物の写真を撮ることなのである。長居公園の中には長居植物園があり、小さなころからお祖父ちゃんとお祖母ちゃんと一緒に何度も行った。思い出の場所でもあるそこでは、四季折々の花々が惜しみなく開いている。
家から歩いて行けるので、休日にお祖母ちゃんのお手伝いをしながらでも合間に行けるのだ。
気分転換も兼ねて出掛けているうちに、高校生になってから買ってもらったスマートフォンで花々の写真を撮り始める様になった。
今やスマートフォンでもかなり画質の良い写真が撮れる。それこそ印刷にも耐えられる様なものでも。
だがリリコはカメラという形のものに憧れる様になった。そこで社会人になって初めて迎えたボーナス時期、いただいた寸志に貯金を足して、コンパクトデジタルカメラを買ったのだ。
小型なので持ち運びに便利で、雨の日でも使いやすい様にと防水のものを選んだ。ズームにすればレンズがせり出すところがカメラらしくて凄いと、リリコは心を
買ったその日はあまりにも嬉しくて、レンズを出したり引いたりを何度も繰り返して、充電池を消耗してしまったものだった。
今日もリリコはお花の写真を撮ろうと、長居植物園に行くために長居公園を歩く。
Jリーグなどプロサッカーの試合が行われているヨドコウ桜スタジアムや、世界規模のスポーツ大会やビッグアーティストのライブも行われる、ヤンマースタジアムがある長居公園には長距離のマラソンコースがあって、今日もトレーニングウェアのランナーがマラソンに勤しんでいる。だが暑いからか人出は少ない。
散歩やピクニックを楽しんでいる人もまばらである。リリコも目的が無ければクーラーの効いた室内にいたいと思う。
8月も中旬に差し掛かった今、長居植物園ではひまわりが満開だ。長居植物園では毎年夏になるとひまわり畑ができあがる。鮮やかな黄色い
そして今はひまわりウィークなるイベントが行われていて、フォトスポットなどが登場する。
カメラの腕などまだまだなリリコでも、画面いっぱいの綺麗なひまわりが納められると思う。
そんなリリコであるが、実はそうお花に詳しくは無い。ただただ綺麗なお花たちに癒され、写真に収めて満足するのである。
そうして写したデータはパソコンやスマートフォンに移し、そこからSNSにアップしたりしている。リリコも一応は若い女の子らしく、アカウントを持っているのだ。
そうして向かっていると、背後から「リリコちゃん?」と声を掛けられる。振り向いてみるとひとりの若い男性が立っていた。
カーキのプラクティスシャツにベージュのハーフパンツに足元はラフなサンダル。黒い髪は短くすっきりと刈られている。
リリコは一瞬誰だと目を細めたが、すぐに判った。
「あ、若大将さん。おはようございます」
「おはようございます。こんな暑い中散歩ですか?」
普段「いちょう食堂」で見る格好とは違ったので、見た瞬間は誰だかわからなかったのだ。
「植物園に行こうと思って。若大将さんはお散歩ですか?」
「そうですねん。暑いしどうしようかと思ったんですけど、まぁ盆で店も休みやし、気分転換でもしようと思って。植物園ですか。それもええですねぇ」
「いちょう食堂」は家族経営なこともあって、お盆のうちに数日休みを取られる。
今年の場合は11日から14日の4連休である。12日は平日だが、休みにしてしまう民間企業も多いだろう。
「はい。私お花の写真を撮るんが好きで。植物園にはちょくちょく行ってるんですよ」
「それはええ趣味ですねぇ。今やったらひまわりとか綺麗なんでしょうねぇ」
「はい。まさにそれを狙って行くんです」
リリコが笑顔で言うと、若大将さんは「ええですねぇ」と笑みを返してくれる。
「あ、ちょっと待っとってくださいね」
若大将さんは言い残すと、
「リリコちゃん、爽健美茶と麦茶、どっちが好きですやろか」
「え? 爽健美茶、ですかね?」
リリコが戸惑いながら応えると、若大将さんは「ほな、はいこれ」とペットボトルの1本、爽健美茶を差し出した。
「え?」
驚いたリリコが声を漏らすと、若大将さんはにっと笑う。
「まだまだ暑いですからね、水分補給しっかりして、大事にしてください」
「あ、ありがとうございます」
リリコが恐縮して爽健美茶を受け取ると、若大将さんはもう一本のペットボトル、麦茶を開けてごっごっごっと喉に流し込む。
「ぷはぁっ、うまっ」
そう言って爽やかな笑顔を浮かべる。リリコも
「あ〜、美味しいです。若大将さん、ありがとうございます。ごちそうさまです」
若大将さんはまたにっと笑う。
「あ、若大将さん、気になっとったんですけど」
「はい?」
「この前うちの所長さんが、若大将さんたちが大阪もんのお店をされてる志が、みたいな話をされていて。それって聞いてもええですか?」
「ああ、そう言えば親父が聞かれとったな。いや、そんな大したもんや無いんですけどね」
「いちょう食堂」を立ち上げたのは若い頃の大将さん。板前として修行していた時に、大阪にもいろいろな農作物や畜産物、水揚げがあることを知った。
修業先のお店は大阪もんにこだわっていたわけでは無いが、野菜にしても魚介類にしても、新鮮なものを求めて大阪もんを使うことがあったらしい。
そんな話を同年代の友人にしたところ、ほとんどが大阪の野菜やブランド肉、魚介類や伝統野菜のことを知らなかったらしい。
「親父は、せっかく大阪に住んどるんやったら、まずは地場の美味しいもんを知って欲しいって思ったらしいんです。ぎょうさん美味しいもんがあるのにもったいない言うてね。せやからそんな大層なもんがあるわけや無いんですわ」
若大将さんは事も無げに言うが、リリコは感心した。そうだ、たくさんの人が様々なものを求めて日本各地や海外に旅行に行き、その土地の美味しい食事を楽しむ。それはとても素敵なことだ。だが地元にだって味わうべき自慢の美味がたくさんあるのだ。
「ううん、凄いと思います。だって私もお祖母ちゃんも、「いちょう食堂」さんがあれへんかったら、知らんかった美味しいものがぎょうさんありました。せやからほんまに嬉しいんです。お好み焼きとかたこ焼きとか串かつとか、確かに大阪の名物ですけど、素材レベルで名物がたくさんあるんやなって」
リリコはつい力が入ってしまって前のめりで言うと、若大将さんは一瞬ぽかんとし、次には「はは」と照れた様に笑った。
「ありがとうさんです。そう言うてもらえたら嬉しいですわ」
「ええお話をありがとうございました」
「とんでもあれへんです。ほな。また店で会えたら嬉しいですわ」
「はい。またお邪魔させしてもらいますね」
若大将さんはひらりと手を振り、リリコを見送ってくれる。リリコはぺこりと頭を下げて踵を返した。まだ中身が残っている爽健美茶のペットボトルを見つめ、ふっと頬を緩める。
こうした気遣いができるのは、お客さま商売をしているからもあるのだろうが、若大将さんがきっと優しい人だからだ。リリコはそのさり気なさに心が暖かくなりしつつ、嬉しくなる。
残りはまた大切に飲もうとそっとバッグに入れ、植物園へと歩いて行く。
帰ったらお祖母ちゃんに、今聞いた話を教えてあげなければ。
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