第16話 まずはここまで。そしてこれから
「いちょう食堂」一旦休業前の最終日、お店にはたくさんの常連さんが詰め掛けた。予備の椅子を全部出しても足りず、立ち飲みのお客さんまで出る始末。お年寄りや女性に優先して座ってもらい、あとは交代して立ったり座ったりしていた。
リリコとお祖母ちゃんはカウンタの奥の席がすっかりと指定席の様になっていて、今日も行くことを言っておいたので、大将さんが席をキープしてくれていた。
大将さんがリリコとお祖母ちゃんを「移転先の大家さんとお孫さんですねん」と紹介するものだから、常連さんが入れ替わり立ち替わり挨拶に来られる。その度にお祖母ちゃんは「これからもよろしゅうねぇ」と笑顔を返し、リリコもぺこりとお辞儀した。
お馴染みの八尾えだまめに大阪しろなと厚揚げの煮浸し、なにわ星の豚の生姜焼きなどを堪能しつつ、飲み物はすっかりとリリコの定番になった
お祖母ちゃんは最近
「中も外も綺麗になったお店で再スタートしますんで、待っとってくださいね!」
大将さんも若大将さんもそんなことを言いながら、せっせと手を動かす。いつもより多いお客さんを
だが勝手知ったる常連さんが、時折食器などを洗ってくれたりする。食器洗い乾燥機など便利なものは無いのである。ちなみに新店舗には設置する予定になっている。
皆さんがこのお店を大好きなのが分かる。数ヶ月後には移転して再開することは皆さん知っているし、店内に張り紙もしてある。だがやはり数ヶ月来れないことで、この「いちょう食堂」のご飯と空間をしばらく味わえないのが残念なのだ。
だから今日は大いに食べて飲んで、大将さんと若大将さんともお話をして。来れない間我慢できる様にと。
リリコたちは新居や新店舗のことで大将さんたちに会うこともあるが、やはり「いちょう食堂」の美味しいお酒とご飯はしばらくお預けである。だからリリコはメニューを睨み付けて食べるものを厳選する。
「リリコちゃん追加どうする? 豚は生姜焼き食うたから、いつもの角煮はやめとくか?」
若大将さんがそんな声を掛けてくれ、リリコは反射的に「やっぱり
「あはは。わかった。ほなちょっと待ってな」
若大将さんはおかしそうに笑う。
「お祖母ちゃん、追加他に何する?」
「せやねぇ。しばらく食べられへんから、ちぬ(黒鯛)のあら煮は食べておきたいねぇ」
お祖母ちゃんはリリコが指し出したメニューに目を落とした。
そしてもう年の瀬、あと数日で年が明けようと言うころの土曜日午前中。夏が終わり秋も過ぎ、すっかりと寒くなった。朝ベッドから出るのが辛い日々だ。
幸い今日は良い天気で、暖かな太陽が顔を出している。だが気温はすっかりと低い。防寒具をがちがちにまとったリリコとお祖母ちゃん、
無事完成したリリコとお祖母ちゃんのお家、そしていちょう食堂の店舗におふたりのお家だ。
店舗部分の外壁は濃いブラウンにしたが、住居部分の外壁は柔らかなクリーム色に染め、窓枠などは木材を取り入れ、可愛い雰囲気にこだわった。
話し合った結果、1階が「いちょう食堂」、2階が大将さんと若大将さんの住居、3階がリリコとお祖母ちゃんの住居になった。丈夫な階段もあるが、小さなエレベータを導入している。
このお家の工期は異例のスピードだった。一般的な一戸建てを建てるのには、設計から
それも全て野江設計事務所の完全バックアップと、事務所と繋がりのある建築会社の卓越した能力の
「立派なお家になったねぇ」
お祖母ちゃんが感嘆の声で言い、リリコは「うん」と応える。
本当に素敵な家になった。注文住宅なのだからと早いうちから細かく希望を伝え、所長さんがそれを素敵な形にしてくれた。動線や内装もシンプルながらも生活がしやすい様にと、所長さんと何度も打ち合わせをした。
大将さんと若大将さんの住居はこちらに任せてくれたので、それも早く進んだ要因だ。リリコたちと同じふたり暮らしだから、リリコたちの住居と同じ間取りにしたのだ。
「いちょう食堂」の部分は前のお店の雰囲気をできるだけ引き継げる様にと、様子を掴んでいた所長さんも心を砕いてくれた。
建築中、リリコもお祖母ちゃんも隙を見て時折見に来ていた。見るたびに完成に近付いて行く新居を見て心が躍ったものだ。
前の家に対する感傷がまるで遥か昔の様だった。現金なものである。若いだけに心の切り替えも早かったのかも知れない。
お祖母ちゃんはぱんぱんと手を打ち、目を閉じた。
「この土地の神さま、無事この家を建てさせてくれてありがとうございました。これからもよろしゅうお願いします」
リリコたちも柏手を打ち、神さまにお礼をする。
「ありがとうございました」
建設中、大工さんの誰も大きな怪我をすること無く終えることができた。そしてこんな素敵な家を建てることができた。
一同は顔を上げると、誰からとも無く「ふぅ」と息を吐く。大きな一仕事を終えた、そんな気分だった。
リリコはデジタルカメラを出すと、新居の写真を撮り始める。正面からも横からも何枚も。
「リリちゃんはほんまに写真が好きやねぇ」
「まっさらなうちにたくさん撮っとかんとね」
そうして角度や距離なども変えながら、リリコは何度もシャッターを下ろした。被写体が良いものだから、どう撮っても良い写真になってしまう。
「リリコちゃん、良かったら
若大将さんがそう言ってくれる。
「それやったら大将さんと若大将さんもご一緒に。「いちょう食堂」もあるんですから。ハナさん、シャッターお願いしてええですか?」
「ええわよ」
「
リリコとお祖母ちゃん、ドアを挟んで大将さんと若大将さんが並ぶ。リリコはお祖母ちゃんが内側になる様に外側に回る。あちらでは「ほらほら」と大将さんが若大将さんを内側に押した。
「はーい、撮るわよ〜」
デジタルカメラを構える横で、平野さんが「ハナさん!」とがなる。
「若大将は入れんでええですからね! むしろリリコちゃんとお婆ちゃんだけで!」
「何言うてんの」
ハナさんが呆れた様に言い、所長さんも「まったくもう」と眉をしかめる。リリコもつい苦笑してしまう。
ドアの上には、前の店舗から持って来た木製の看板が掲げられている。これはおふたりが大切にしているものなのだそうだ。外に掛けてあったので少し汚れてしまっていたそれを、綺麗に磨いて掛け直した。
「はい、今度こそ撮るわよ〜」
リリコは笑顔を作り、ハナさんがシャッターを切ってくれるのを待つ。少しして。
「はい。撮れたわよ〜」
「ありがとうございます!」
リリコはハナさんに駆け寄ってデジタルカメラを受け取った。
「ちゃんと撮れてると思うけど」
「ハナさんですから大丈夫です」
ハナさんは建築途中の視察などで、写真を撮ってもらうことも多いので、その腕は信用できるのだ。
撮ってもらった数枚を見ると、にっこり笑顔のリリコ、穏やかな笑顔のお祖母ちゃん、豪快な笑顔の大将さん、そして笑顔を作ることが苦手なのか、少しばかり引きつった笑顔の若大将さん。リリコはおかしくなって「ふふ」と笑みをこぼした。
「さすがハナさん。綺麗に撮れてます」
「そう? 良かったわぁ」
これから昼食を挟んで引越しだ。所長さんたちにも手伝ってもらって、新居に荷物を運び入れる。「いちょう食堂」の備品はレンタル倉庫に預けてあるので、それも引き取って来よう。忙しくなりそうだ。
こうしてリリコとお祖母ちゃん、大将さんと若大将さんの新しい生活が始まった。
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