1章 お祖父ちゃんが遺した縁

第1話 お祖母ちゃんの夢

 大阪市東住吉ひがしすみよし区の長居ながい駅周辺。リリコと母方のお祖母ちゃんが住まう下町である。


 広大な長居公園があって花や緑が多く、だが駅近くの昔ながらの商店街にはスーパーや店舗が立ち並ぶ、便利で住みやすいな街だ。


 その日は土曜日。リリコの職場は休みだ。少しばかり天気が悪く、今にも雨が落ちて来そうな灰色の空が広がっていた。夏も盛りなのでじめじめと暑苦しい。ここ近年で日本の夏はすっかりと熱帯地域の様になってしまった。


 天気予報で午後からさらに崩れそうなことが分かっているので、午前のうちにリリコはお祖母ちゃんと並んで買い物に出る。バッグの中にはエコバッグとともに、折り畳み傘も忍ばせていた。


 リリコにも友人はいるが、休日はあまり約束など入れず、お祖母ちゃんの手伝いをしたり買い物のお供をすることが多い。


 お祖母ちゃんはまだ元気だとは言え、もうそれなりの歳だ。あまり無理をして欲しくは無かった。


 買い物を終えて、お昼ごはんはお祖母ちゃんお手製の冷やしきつねうどんをいただく。大きくて甘いお揚げさんとおねぎを乗せ、冷たいおつゆを張ったものだ。


「美味しかった〜。やっぱりお祖母ちゃんのごはんは美味しいわぁ」


「ありがとうねぇ。リリちゃんがいつも美味しいて言うてくれるから、作り甲斐があるわぁ」


 リリコが身も心も満たされて嘆息たんそくすると、お祖母ちゃんはゆったりと微笑んだ。


 洗い物はリリコがし、クーラーが効いた居間で温かい緑茶を飲みつつ寛いでいた時。


「ねぇ、リリちゃん、お祖母ちゃんねぇ、やってみたいことがあるんよ」


「ん? なに?」


 何気ないお祖母ちゃんのせりふに、構えること無く応えるリリコだったのだが。


「このお家を取り壊してねぇ、ハイツ? っていうのんをね、やってみたいんよ」


「ハイツ?」


 リリコはさすがに驚く。ということはお祖母ちゃんは不動産経営者になるということか。そんな夢でもあったのだろうか。いやそれより。


「ハイツはともかくお祖母ちゃん、この家壊してしまうん? お祖父ちゃんとの思い出もあるやろ」


 この家にはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの結婚生活の全てが詰まっている。もちろんリリコの成長の思い出も。居間の柱にはリリコの背くらべの線が何本も残されているのだ。


「またよう伸びたねぇ」


 そんなことを言いながら、お祖母ちゃんがマジックで印を付けてくれ、お祖父ちゃんは微笑ましげに見てくれていた。祖父母との大切な思い出のひとつである。


 小さなころには裏庭を使い、夏にはビニールプールではしゃぎ、冬には薄っすらと積もった雪で小さな雪だるまを作ったものだった。


「それはねぇ、お祖母ちゃんも考えたんよ。でもねぇ、これからお祖母ちゃんももっと足腰とか悪うなる思うねんね。この家はもう古いし、建てた時代が時代やからバリアフリーやなんてええもんも無いしねぇ。どんどん不便になって行く思うんよ。せやからまだ元気なうちに立て替えて、楽に生活できたらと思ったんよねぇ」


 確かにこの家には段差も多い。お年寄りが暮らすには向かない家だとリリコも思う。


 だから立て替えは現実的だと思うが、心が引っ掛かりを感じてしまう。祖母の意思なのだから拒絶とまでは言わないが、やはりこの家がまるっと無くなってしまうのは寂しい。


 あらためて見渡してみると、それまで気にならなかった壁紙の剥がれや天井の小さなしみが目に付いてしまう。経年劣化である。だがそれも祖父母とリリコが暮らして来た思い出のひとつだ。


 それにかつてはお母さんだってここで暮らしていたのだ。リリコはほとんど覚えておらず、知る姿は遺された写真での笑顔だが、リリコの柱とは違う柱に付けられている印はきっとお母さんの成長の証だ。


 しかしそんなことは、この家を建てるところから関わって来たお祖母ちゃんがいちばん良く分かっているだろう。リリコよりお祖母ちゃんの方が思い入れが強いに違い無い。その上で建て替えを希望しているのだ。


 その時、ふと居間に飾られているひとつの小さな絵画が目に入る。それはお祖父ちゃんが逝去する数年前、絵画展で気に入って買い求めたものだ。駅近くにある小さな画廊がろうでのことだった。


 絵手紙を趣味にしていたお祖父ちゃんは画廊に興味があった様で、散歩途中にちょくちょく立ち寄っていた。無名作家の展示がほとんどだったが、お祖父ちゃんはその個性の数々に癒されていた様だ。


 その絵画はそんな時に見初めたものだ。そう高額なものでは無い。だが目を見張る様な綺麗なターコイズブルーで描かれた海のイラストはお祖父ちゃんのお気に入りとなり、その画廊での最初で最後のお買い上げになった。


 絵画は油絵で、お祖父ちゃんは飾る環境の良し悪しなどを画廊のスタッフさんに熱心に聞き、居間の陽の光が当たらない壁に釘を打って、そっと掛けたのだった。


 お祖父ちゃんは良くその絵画を眺めては「ふふ、綺麗な青やなぁ」と微笑んでいた。


 そうだ。全てが無くなるわけでは無い。そうしたお祖父ちゃんのお気に入りも、日々使っていた眼鏡も、したためた絵手紙も残るでは無いか。リリコたちがきちんと保管して大切にすれば、永遠とは言えないが、きっと長く残る。


 リリコがそうして考え込んでいるからか、柔和にゅうわだったお祖母ちゃんの顔がだんだんと不安げなものになる。リリコは「うん」と小さく呟くと「お祖母ちゃん」と明るい声を上げた。


「お祖母ちゃんがええんやったら、私も賛成するわ。お祖母ちゃんが暮らしやすい家のほうがええもんな」


 するとお祖母ちゃんは安心した様に頬を綻ばせた。


「リリちゃんがそう言うてくれて良かったわぁ。設計とか工事とか、リリちゃんの会社でお願いできひんかなぁ」


「所長さんに聞いてみるわ。それにしてもお祖母ちゃん、なんでハイツなん?」


「お祖母ちゃん、賑やかなんが好きやからねぇ。店子たなこさんと仲良くできたら嬉しいわぁ」


「お金も結構掛かってまうと思う。ローンとかになるんかなぁ」


 リリコの立場で組めるのかどうか。いくらになるのかおおよその予想しかできないが、リリコの手取りと就業年数で審査が通るだろうか。


「それもねぇ」


 リリコの疑問に、お祖母ちゃんはふわりと微笑んだ。


「お祖父ちゃん会社のお偉いさんやったから貯金たくさんできたし、退職金たんまりやったし、保険金も全部出たし、お祖母ちゃんの世代は年金もしっかりもらえるしねぇ。せやから大丈夫なんよ」


 そんなことをはっきりと言えてしまうあたり、普段穏やかなお祖母ちゃんも大阪のおばちゃんなんだなぁと思うリリコだった。

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