3章 ぜぇんぶうまく行くからね

第1話 お祖母ちゃんの異変

 その年のバレンタインデーは月曜日だ。今日はその前日、13日の日曜日。良い天気で、まだ続く冬のお陰で気温は低いが、暖かな日差しが気持ち良かった。


 リリコにとって今年のバレンタインデーは少し特別だった。今までも学生時代には義理チョコイベントに加わったり、就職したら所長さんたちに日頃のお礼も兼ねて渡して来たのだが、今年は大将さんと若大将さんにも贈りたい。


 お祖母ちゃんのお手伝いを続けて来たお陰で、お台所仕事にも慣れて来た。今年は思い切って手作りにしてみようと、リリコは朝からキッチンに立つ。


 ネットでいろいろレシピを調べて、お菓子作り初心者でも失敗しづらいらしい、ナッツを使ったトリュフを作ることにした。


 刻んだ製菓用のブラックチョコレートに温めた生クリームを加え、スパチュラでゆっくり混ぜながらチョコレートを溶かす。生クリームの量は控えめのレシピを選んだ。その方が固まりやすくて失敗が少ないとのこと。


 そこにナッツをざらざらと入れて混ぜ込む。無塩ローストのミックスナッツを袋ごと叩いて荒く砕き、乾煎からいりしたものだ。アーモンドとカシューナッツ、くるみの3種類が入っている。風味付けのラム酒も入れる。


 しっかりと粗熱が取れたら、小さめの一口大に丸めてタッパーに置いて行き、ふたをして冷蔵庫でしっかりと冷やし固める。


 その間に、リリコはお祖母ちゃんがいるリビングに飛んで行った。お祖母ちゃんは炬燵こたつで暖を取っている。


「お祖母ちゃん、大丈夫?」


「全然大丈夫やで。甘いええ匂いがするねぇ」


 朝起きた時、お祖母ちゃんの顔色が悪い気がしたのだ。いつもより白い様な。リリコは心配でたまらない。


 それをお祖母ちゃんに言うと、お祖母ちゃんは「大丈夫やでぇ」笑うので少しは安心はする。だがお祖母ちゃんのことだから、リリコに心配掛けまいと黙っている可能性だってあるのだ。


 だからリリコはできる限りお祖母ちゃんに休んでもらおうと、まずは朝ごはんの片付けをした。作るのはリリコが起きた時にはすでに終わっていた。他の家事も全部リリコがするつもりだ。


 そんなリリコを見ながら、やはりお祖母ちゃんは「ほんまに大丈夫やねんで」と言うが、やはり心配はぬぐえない。


「ほんまに無理せんといてや。お昼ご飯は食べられそう?」


「大丈夫やで。お昼はお祖母ちゃんが作るからねぇ」


「ううん、私が作る。お祖母ちゃんはゆっくりしとって」


「ほんまに大丈夫やのになぁ」


「だって顔色良く無いん気になるんやもん」


「そんなに悪いかしらねぇ」


 お祖母ちゃんは心外そうな顔で手で頬をさする。確かに顔色さえ除けば、いつもの元気なお祖母ちゃんなのだが、万が一があるのは嫌だ。


「ほなお昼作るな。食べたいもんとかある?」


「お昼は木の葉このは丼作ろう思ってかまぼこ買うておいたんよ。リリちゃん作れる?」


 木の葉丼とは主に関西で食べられる丼である。かまぼこや三つ葉などを卵でとじて作られる。具材を木の葉に見立てたことが名前の由来とされている様だ。


「うん。いつもお祖母ちゃんが作るん見てるから大丈夫。でもおうどんとかの方がええんちゃう?」


「そやねぇ。それやったら夏のおそうめんまだあるから、にゅうめんにしよか。おつゆはめんつゆ使うたらええから」


 お祖父ちゃんの生前の知り合いの何人かが、今でもお中元やお歳暮を贈ってくれるのだ。


 お中元の中には木箱に入った高級なおそうめんがいくつかあった。量も多いので、保存袋に入れて冷蔵庫で保存し、1年ほど掛けてゆっくりといただいている。


「うん。ほなそうするわ。作って来るな。待っててな」


 リリコはそう言い残し、甘い匂いが残るキッチンに戻った。




 お祖母ちゃんはリリコが作った、かまぼことかき卵のにゅうめんを美味しそうに食べてくれた。油っ気は入れずあっさりと食べられる様に仕立てた。


 食欲はある様なので、リリコはまたほっとする。片付けももちろんリリコがして、チョコレートの仕上げに入る。


 しっかりと固まったチョコレートをスプーンですくい、純ココアを敷いたバットの上に置いて、ころころと転がす様にして全体にまぶす。小さなアルミカップにひとつひとつ入れたら、ナッツトリュフチョコレートの完成である。


 ダイニングテーブルの上にずらりと並べられたトリュフはなかなか壮観である。リリコは記念にとスマートフォンで写真を撮った。


 あとで個人のSNSに上げてみようか。普段はお花ばかりを上げているが、たまには良いかも知れない。


 巧くできているだろうか。リリコはひとつ味見をする。砂糖不使用の純ココアの渋みがまず来るが、噛んでみると甘さ控えめにしたチョコレートがとろりと溶けて舌に乗り、ナッツの甘さと香ばしさが口に広がる。


 うん、これは成功と言っても良いのでは無いだろうか。我ながら美味しくできた。


 それを買っておいた箱にそっと入れて行く。トリュフやカップチョコが四個入る細長い箱だ。入れたらカバーを乗せて蓋をして、シールで止めたらペーパーバッグに入れる。


 お祖母ちゃんには明日出そう。リリコお気に入りの淡い桜色のお皿に乗せて、きっちりラップをして冷蔵庫に入れておく。


 所長さんと平野ひらのさん、ハナさんには明日事務所に持って行くとして。


 大将さんと若大将さんにはこれから渡しに行きたいが、家の方にいるだろうか。


 リビングに行くと、お祖母ちゃんは炬燵でテレビを見ていた。再放送のサスペンスドラマである。お祖母ちゃんの好きなジャンルで、追い掛けているシリーズもあるほどだ。


「お祖母ちゃん、ちょっと大将さんたちのとこに行って来るわ。チョコレート渡したくて」


「あらぁ、できたんやねぇ。良かったねぇ」


「お祖母ちゃんには明日出すな。またコーヒー淹れて一緒に食べよ」


 お祖父ちゃんが生きていた時には、ふたりに宛てて百貨店の催事などで美味しいチョコレートの詰め合わせを買って、皆でコーヒーを淹れて食べた。それがこの家のバレンタインなのだ。


「うん。楽しみやわぁ」


「じゃあ行って来るね」


 リリコはチョコレートの箱を入れたペーパーバッグをふたつ持って家を出た。階段をひとつ降り、大将さんと若大将さんの家のインターフォンを押す。すると出てくれたのはラフな私服姿の若大将さんだった。


「リリコちゃん。どうしたん?」


「あの、これ、若大将さんと大将さんに」


 リリコはペーパーバッグを差し出す。ほんの少し勇気が要った。本命でも無いのに、なぜかいつもの義理チョコより少しばかり緊張してしまった。手作りだからだろうか。


「俺と親父に?」


「あの、明日バレンタインデーやから、チョコレート作ったんです」


 すると若大将さんは「え?」と目を丸くする。


「リリコちゃんの手作り? ほんまに?」


「は、はい。あ、あのちゃんと味見はしましたから! 大丈夫です」


 リリコが少し焦って言うと、若大将さんはきょとんとし、次には「わはは」とおかしそうに笑った。


「そんなん心配してへんがな。嬉しいわ。親父ー、リリコちゃんがチョコ持って来てくれたでー」


 若大将さんが奥に声を掛けると、「ほんまか!」と言う声とともに大将さんがどたどたとやって来る。


「しかも手作りやて」


 若大将さんが言うと、大将さんは「おお!」と表情を輝かせた。


「そら嬉しいわ! ありがとうなぁリリコちゃん」


「い、いえ」


 こんなに喜んでもらえるとは。作った甲斐かいがあると言うものだ。リリコは嬉しくなって「えへへ」と照れた笑みを浮かべた。


「仕事の後にブランデーと一緒によばれようや」


 大将さんがうきうきした様子で言うと、若大将さんは「それええな」と口角を上げる。


「楽しみやわ。ほんまにありがとうな、リリコちゃん」


「いいえ。お口に合うたら嬉しいです」


 手を振る大将さんと若大将さんに見送られ、リリコは階段を上がって家に戻る。一目散にお祖母ちゃんがいるはずのリビングに向かった。


「お祖母ちゃん、ただいま」


 返事が無い。見るとお祖母ちゃんは炬燵で横になっていた。寝ているのだろうかと一瞬思った。だが動く肩の上下が大きい。リリコは嫌な予感がしてお祖母ちゃんの肩に触れた。


「お祖母ちゃん?」


 するとお祖母ちゃんは苦しげに目を閉じたまま、口を細く開いた。


「大丈夫や……、ちょっと目眩めまいが……、するだけ……」


 掠れたか細い声だった。リリコは途端に戦慄せんりつし「お祖母ちゃん!」と声を荒げる。


 目眩なんて珍しくも無い。リリコだってたまに軽い目眩を起こすし、立ちくらみだって目眩のひとつらしい。だが起き上がれないなんてよっぽどだ。


 どうしよう。どうしたら良い。お祖母ちゃん。嫌だ! 怖い!


 すっかり動転してしまい、どうするべきなのか分からない。その時リリコはさっき会ったばかりの大将さんと若大将さんを思い浮かべた。


「お祖母ちゃん、ちょっと待っててな!」


 リリコは叫ぶ様に言い置くと、サンダルを突っ掛け、家の鍵を掛けることも忘れて階段を降りる。サンダルなので走りにくく、何度か脱げそうになって、それがますますリリコをらした。


 さっきはちゃんと押せたインターフォンの存在を忘れ、リリコはどんどんどんとドアを叩く。早く出て来て! 助けて!


 ドアはすぐに開けられた、と思う。リリコには長い時間に感じた。


「リリコちゃん、どうしたんや」


 リリコの形相ぎょうそうを見た若大将さんの顔が強張こわばる。後ろには驚いた顔をした大将さんもいた。


「……お祖母ちゃんがっ……!」


 リリコはどうにか声を絞り出す。すると若大将さんがはっと緊張を走らせた。


「親父、俺行って来るわ」


「おう。あんじょうしたりや」


「リリコちゃん、ちょっとだけ待ってて」


 若大将さんは走ってリビングに入り、戻って来た時にはジャンパーを着てボディバッグを肩に掛けていた。


 リリコが先に立って階段を駆け上がる。若大将さんが付いて来てくれて、ドアを開けたリリコはサンダルを放り出してリビングに向かう。若大将さんも「お邪魔します」と言いながら後に続いた。


「お祖母ちゃん!」


 お祖母ちゃんはまだ横たわったまま、その場から微塵みじんも動いていない。辛そうに荒く浅い息を繰り返していた。


「お祖母ちゃん!」


 リリコの腕がまたお祖母ちゃんの肩に伸びた。


「リリコちゃん、動かさん方がええ。久実子くみこさん、どうしんどいか聞けたか?」


「目眩が、するって……」


「分かった。救急車呼ぶわ。家の電話借りるで」


 ああ、そうか。こういう時は救急車を呼ぶんだった。そんな当たり前のことがすっかりと抜けてしまっていた。相当狼狽うろたえているのだろう。


 若大将さんが119番を掛ける声を聞きながら、リリコはだらりと投げ出されたお祖母ちゃんの手を必死に握っていた。

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