第4話 お祖父ちゃんと大阪もん

 そうしているうちに、ドリンクが用意された。草色の丸いラベルが貼られた箕面みのおビールのピスルナーの開栓済みの瓶と、とぼけた表情のお猿さんのイラストが描かれたグラスがお祖母ちゃんの前に置かれる。


 お猿さんの下には『Minoh Beer』の文字がある。箕面ビールのオリジナルグラスなのだろう。


 リリコの前には淡い琥珀こはく色が注がれたタンブラーと、ピンクのインクで文字が書かれた細い瓶が置かれた。入りきらなかったのだろう琥珀色の中身が少し残されている。


能勢のせジンジャーエールで割りました。生姜しょうがの味わいが結構しっかりしてるんで、お酒の割材わりざいにちょうどええんですわ。爽やかで喉越しもええと思いますよ。そもそも能勢ジンジャーエールはバーのために開発されたんですわ」


「へぇ〜、ありがとうございます。いただきます。お祖母ちゃん、ビールそそぐな」


 リリコは瓶を持つと、グラスに静かに注ぐ。慣れていないので泡が綺麗に立たず、巧く注ぐことができなかった。


 所長さんたちと飲みに行っても、ビールは生ビールを注文するので、瓶ビールを注ぐ機会は滅多に無いのだ。


「ごめんお祖母ちゃん。上手にでけへんかった」


「大丈夫やで。リリちゃんが注いでくれたんやから、美味しゅういただけるよ。ほな乾杯しよか」


「何に?」


「せやなぁ。リリちゃんがいつでも元気でいてくれますようにって」


「そんなん、お祖母ちゃんこそ元気でおって欲しいわ」


「ふふ。ほな乾杯」


「乾杯」


 軽くグラスを重ね、ふたりは揃ってグラスを傾けた。


 リリコの、焼酎の能勢ジンジャーエール割りは、きりっとしたジンジャーの香りが鼻をくすぐる。口に含むと控えめな甘さが爽やかで、するりと喉を通って行ってしまう。上質な味わいがすぅっと口に馴染んだ。


「美味しい!」


 タンブラーから口を離したリリコは、開口一番そう言って口角を上げた。


「いつも飲んでるジンジャーエールはもっと甘いのに、これはすっきりして飲みやすいわぁ。生姜の風味もすごいええわ。こんなん初めて飲んだ」


「この箕面ビールもとても美味しいねぇ。あんまり苦うなくて、すっきりといただけてねぇ」


 お祖母ちゃんも満足げに頬をほころばす。お祖母ちゃんは家ではほとんど飲まないので、きっと久しぶりのお酒だ。


 お祖父ちゃんが生きていた時には、少しばかり晩酌ばんしゃくのお付き合いもしていたみたいだが、他界してからはそんな機会も無くなった。


「お祖母ちゃん、箕面ビールひとくちもらってもええ?」


「ええよ」


 お祖母ちゃんがグラスをリリコの前に置いてくれたので、持ち上げて小さく口を付けてみる。しかし途端に「ん」と眉をしかめてしまった。


「やっぱり私にはまだビールは早いわ」


「ふふ。多分そのうち飲める様になる思うで」


「そうやとええなぁ。所長さんと平野ひらのさんがいつも美味しそうに飲んではって、「やっぱり仕事の後のビールは最高や」言うてはってな。このジンジャーのやつもめっちゃ美味しいんやけど、ビール憧れるなぁ」


「大人のお酒て言うんやろうかねぇ。でも無理はせんほうがええと思うで。お酒は美味しく楽しく飲むのが一番や。お祖父ちゃんもねぇ、家でにこにこして飲んどったわ」


「お祖父ちゃんお酒好きやったもんな。せやからここにもたまに来とったんやろか。お酒の種類もいろいろありそうやもんなぁ」


 リリコはカウンタ下の棚に置いたバッグから、お祖父ちゃんが遺したショップカードを出す。これ以上傷まない様に、財布のポケットに入れていた。


「このカードだけ大事にしとった感じやったしなぁ」


 その時ドリンクを用意してくれた店員さんが前を通り掛かったので、リリコは「あ、あの、すいません」と咄嗟とっさに声を掛けた。ショップカードを手に、まるで何かに後押しされた様な勢いだった。


「はい。何にしましょ」


「あの、このショップカードなんですけど」


 リリコは思い切って店員さんにショップカードを差し出す。それを受け取った店員さんは「こら懐かしいなぁ」と目を細めた。


「これは多分、大将がここをひとりでやっとった時に作ったもんですわ。ちょおお待ちくださいね」


 店員さんはカウンタの端、レジのあたりに行って何やら取るとすぐに戻って来る。


「今のカードはこれですわ。文字の大きさとか変わってますやろ」


 そう渡されたショップカードは、確かに店名が少し小さくなったりして、お祖父ちゃんが遺したものよりシャープに見える。


「そのショップカード、祖父の遺品から出て来たんです。他のショップカードとは分けて置いてあって、なんで祖父がいつも通ってたお店なんや無いかと思って」


「遺品……」


 店員さんの片眉がぴくりと上がる。


「あの、お客さん、お爺さんのお名前は」


「祖父は加島かしまと言います。加島徳三とくぞうです。亡くなった時は65歳でした」


「加島……徳さんか」


 店員さんは驚いた表情になる。目を見開いてぽかんと口を開けた。しかし徐々にその目は悲しげに伏せられる。


「そうか。徳さんは亡くなってはったんか。急に来おへん様になったさかいに、どうしはったんやろう思っとったんや……」


「やっぱり祖父はここに来ていたんですね?」


「はい。月に2、3度、長年ご贔屓にしてもろうてました。せやけど2年ほど前やったかいな、急にぱったり来はれへん様になって、どないしはったんやろう思っとったんです。それはほんまにお気の毒でした」


 店員さんが沈痛な面持ちで頭を下げる。それにお祖母ちゃんは「まぁまぁ、これはご丁寧に」と笑みを浮かべた。


「私は加島の家内で久実子くみこと言います。主人はねぇ、月に何度か飲みに行って来る言うて出掛けて行くのに、お店のこととか何も教えてくれんでねぇ」


「せやったんですか。俺が言うのもなんですけど、男にはひとりで息抜きしたい時もありますんでね、勝手なもんですけど」


「まぁ、ほんまに勝手やねぇ」


 店員さんの苦笑交じりの言葉に、お祖母ちゃんはおかしそうに笑う。


「まったくねぇ、家事はともかく育児まで女に丸投げして、飲みに行ってしまうんやもんねぇ」


「まったく面目ない。女性こそ休み無しで家事育児をされて、ひとりの時間が欲しいでしょうに」


「まぁねぇ、娘の時にはそんな夫やったけど、この子、孫やねんけどねぇ、この子が来た時にはやっぱり孫可愛さがあったんかねぇ、一緒に育ててくれてねぇ」


 お祖母ちゃんはそう言いながらリリコの背中を優しく撫でる。リリコは「へへ」と小さく笑った。


「お孫さんでしたか」


「そう。私の娘の娘。娘夫婦が亡くなってしもうて、うちで育てたんよ。賑やかになって楽しい毎日やったけど、やっぱりひとりで飲みに行く時間も欲しかったんやねぇ。このお店のこと、私らに言うてくれても良かったのにねぇ」


「徳さんは、ここを秘密基地にしてはったんかも知れんですねぇ。男は秘密基地も好きなんですわ。もしかしたらご家族に秘密を持ってるっちゅうのも、楽しかったんかも知れませんね」


「あらぁ、そうかも知れへんねぇ。もうほんまに、男の人っていつまで経っても子どもみたいやねんからねぇ」


 お祖母ちゃんはおおらかに笑う。しれっと辛辣しんらつなことを言うのも大阪のおばちゃんらしいと言えよう。店員さんは弱った様に「いやぁ」と頭を掻いた。


「あ、挨拶が遅れましたわ。俺はここの大将の息子で関目悠太せきめゆうたと言います。お客さんは若大将て呼んでくれはりますわ。良かったらお気軽に呼んだってください。それと、おーい、大将、大将ー!」


 若大将さんがもうひとりの店員さんを呼ぶと、その人は「おう」と応えながらこちらにやって来る。良く見ると、顔が若大将さんと良く似ていた。


「大将、こちら加島の徳さんの奥さんとお孫さんや」


 すると大将さんは目を丸くして「おお!」と声を上げる。


「そりゃあようお越しや。店主の関目と言います。ここ数年徳さん来はれへんもんやから、どないしはったんかと思っとったんやけど」


「徳さん、亡くならはったそうやわ」


 大将さんはまた大きく目を見張る。


「なんやて。まだ若かったのにそんなことになっとるとは思わなんだで。そりゃあご愁傷さまでしたわ」


 そう切なげに言って頭を下げる。お祖母ちゃんは「いいえぇ」と穏やかに笑顔で返した。


「もう2年前にもなるしねぇ。今は落ち着いとるんよ」


「そんなら良かったですわ。お悔やみ言うにはあれやけど、なんか1品ごちそうさせてもらいますわ。お好きなもん注文したってください」


「あらあら、そんなお気を使わらへんでもええんですよ」


 お祖母ちゃんはやんわりと辞退するが、若大将さんも「そらええわ」と同意する。


「肉でも魚でも野菜でも、好きなもん頼んでください」


 するとお祖母ちゃんは眉尻をじんわりと下げた。


「あらあら、困ったわぁ。そんなつもりや無かったのに」


「ええやんお祖母ちゃん。今日はありがたくごちそうになろうや」


「でもねぇ、なんや申し訳無いわぁ」


 そう渋るお祖母ちゃん。リリコに遠慮が無いわけでは無い。だが。


「せっかくのご厚意や。今日は1品、お祖父ちゃんが特に好きやったのんごちそうになろうや。もちろん他にもお腹いっぱい食べよう。で、また来ようや。今度は私らが行きつけにさしてもらったらええねん」


「そうしてくれはったら俺らも嬉しいですわ。徳さんはがっちょの天ぷらが好きで、よう食べてくれてはりましたわ」


「がっちょ?」


 若大将から出た聞いたことのない食材の名前に、リリコは首をかしげる。


「がっちょは大阪湾でれる小魚ですねん。天ぷらとか唐揚げにしたら骨ごと食べられるんですわ。大阪は漁港が泉州せんしゅうに固まっとるから、そっちで流通することが多いんです」


「じゃあそれをください」


「はいよ。あとはまた言うてくださいね。大阪もんはどれも美味しいでっせ」


「大阪もん」


「はい。ショップカードにもある通り、ここは『大阪もん』の店なんですわ」


 大将さんと若大将さんがその場から離れると、リリコはあらためてメニューを開く。すると、なにわ黒牛くろうしに大阪ウメビーフ、犬鳴豚いぬなきぶた河内鴨かわちがもといった様々なお肉類から、泉州あなごや泉だこなどの魚介類、八尾やおえだまめに泉州たまねぎと水茄子、彩誉あやほまれにんじんなどの野菜まで、様々な大阪もんが並んでいた。


 リリコもお祖母ちゃんも表情を輝かせてメニューを眺めてしまった。

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