第3話 いちょう食堂との出会い

 翌日、仕事を終えたリリコは家に帰り着くと、仕事用のトートバッグを小さなショルダーバッグに持ち替えて、財布やスマートフォンなど必要なものだけを入れる。


「お祖母ちゃん、お待たせ」


 普段はノーメイクでゆったりとしたワンピースなどを好んで着ているお祖母ちゃんだが、今日は少しばかり身体に沿った、すっきりとしたすみれ色の花柄のトップスと、ベージュのフレアスカートに身を包み、軽くだがお化粧もほどこしていた。


「お祖母ちゃん、お洒落しゃれやん」


 リリコが言うと、お祖母ちゃんは「そう? ふふ、たまにはねぇ」と照れた様に笑う。


「ほな行こか」


 目的の「いちょう食堂」はこの長居ながいにある。ここで暮らして長いリリコもお祖母ちゃんもかなり土地勘はあるつもりだが、初めてのお店なので地図を見た方が確実だ。リリコはスマートフォンで地図を表示させる。


 まずは大阪メトロ長居駅まで出て、分かるところまではそのまま歩き、地図を確認する。


「お祖母ちゃん、こっちやわ」


 リリコはお祖母ちゃんの負担にならない様にゆっくりと歩く。お祖母ちゃんはまだ元気だが少しでも大事にして欲しい。


 まだ空は明るく、昼間の暑さが残っている。歩いていると首筋につうと細い汗が流れた。


 地図を辿りながら進んで行くと、住宅に挟まれてあちらこちらにいくつかの店舗が見える。その通りに目的の「いちょう食堂」があった。


「お祖母ちゃん、ここやわ」


 古い2階建ての店舗だった。元は白かっただろう外壁はすっかりとすすけて、へり出している換気扇の吐き出し口が黒くなっている。


 上品なものが好きだったお祖父ちゃんだったので、ここが本当にお祖父ちゃんが来ていたお店なのかと疑ってしまう。だがドアの上には堂々と「大阪もん いちょう食堂」と看板が出ていた。薄汚れた外装からは少し浮いた、木製の立派な看板だった。


 これはあまり外食をしたことが無いリリコにはなんとも敷居が高い。リリコの横でお祖母ちゃんも不安げな顔を浮かべていた。


「リリちゃん、ほんまにここがお祖父ちゃんが来てたお店なんやろか」


 その気持ちはもの凄く分かる。だが自分がお祖母ちゃんを守らなければ! と言うスイッチが入ったのだと思う。リリコは「聞いてみよ」とドアに手を掛けた。


 押すと、重いガラスのドアがぎぃと音を立てる。そろりと中に入ると「いらっしゃい!」「らっしゃい!」と威勢いせいの良い声が響いた。


 とっさに声の方、カウンタの中を見ると、いたのは若い男性と壮年そうねんの男性。どちらも細身ですらりとしていて、紺色の作務衣さむえをまとい、頭を作務衣と同じ紺色の布でまとめている。


 少しばかり照明が落とされ、冷房の効いた店内は、外装とは打って変わってきちんと掃除されていた。飴色になった木製の壁は年季を感じるが綺麗に光っている。


 入ってすぐにレジがあり、それに連なる様にカウンタ席が並ぶ。ひょいと奥を見てみると、4人掛けのテーブル席がひとつあった。


「何名さん?」


 シュッと端正なお顔をした若い男性店員さんの溌剌はつらつとした声。少し気圧されてしまったリリコは目をぱちくりさせながら「ふ、ふたりです」と応える。


「はいよ。こちらへどうぞ」


 勧められたのはカウンタの真ん中あたりに空いていたうちの2席。リリコとお祖母ちゃんは賑わうお客さまの後ろをそろそろと通って席に辿り着く。通路の幅は充分に取られていた。


 背もたれの付いた木製の椅子に恐る恐る掛けると、すぐに冷たいおしぼりが提供される。


「どうぞ」


 若い方の店員さんだ。受け取って手を拭くと気持ちが良くてほっとする。つい首筋を拭きたくなってしまうが、お行儀が良く無いので、リリコはバッグからタオル地のハンカチを出して汗をぬぐった。


「お飲み物はどうしましょ。あとでお伺いしましょか?」


「あ、はい、あの」


 リリコは慌てて、目の前に立て掛けてあったメニューを取る。職場の皆さんにこういうお店に連れて行ってもらうことがあるので、まだまだ不慣れだがそれなりに知ってはいるつもりだ。


 いつも所長さんたちがやってくれている様に、今はリリコがお祖母ちゃんにしてあげなければ。


 厚い表紙に和綴じされた冊子状のメニューをぱらぱら開いて、一番最後のページにドリンクメニューを探し出す。生ビールや日本酒、酎ハイに焼酎など、リリコも見覚えがある一般的なお酒が並んでいた。


「お祖母ちゃん、これ飲み物のメニューやわ」


「あらあら、どれにしようかねぇ。お祖母ちゃんビールと日本酒ぐらいしか分からへんわぁ」


 すると待っていてくれた店員さんが「お客さん、普段はお酒飲まはります?」と聞いて来る。


「いいえぇ、ほとんど飲まへんのですよぉ」


 お祖母ちゃんが首を振ると、店員さんは「それやったら」と笑顔になった。


「無理してお酒飲まんでもええ思いますよ。美味しくお食事してもらえたらそれが嬉しいんで。でもそうですねぇ、ビールはどうです?」


「ええ。そんなに量は飲めないですけども、ビールの味は好きですよ」


「じゃあ生ビールの小さいジョッキにしときます? 大阪の地ビールもありますよ。箕面みのおのとか」


「箕面の地ビール?」


「その土地土地で作られているオリジナルのビールです。特徴もあるんですけど、ピルスナーやったらあんまり癖も無いんで、すっきり飲める思いますよ」


「じゃあ私はそれをいただこうかしら。あら、でもテレビか何かで見たことがあるかも知れへんわ。薄っすらとだけど記憶があるわぁ」


「大阪は他にも地ビールがあるんですよ。ドリンクメニューの最初のページに、大阪もんのドリンクがまとまってますんで、良かったら見てみてください」


「まぁまぁ、それは楽しみやわぁ」


 お祖母ちゃんは嬉しそうに顔を綻ばせてメニューをめくった。するとさっき話に出た箕面ビールの他に、堺収穫麦酒さかいしゅうかくビールや大阪國乃長くにのちょうビールなるものまである。


「お嬢さんはどうします?」


「私はどうしよう……、あまりお酒飲み慣れてへんくて。ビールもまだ苦いって感じるお子ちゃまなんです。いつもは同僚におすすめしてもらって、酎ハイとか梅酒のソーダ割りとかにするんですけど」


 リリコが大阪もんのドリンクメニューを見て困っていると、店員さんが「それやったら」と言う。


「大阪には地サイダーもあるんですよ。焼酎を割って飲みやすいの作りましょか」


「そんなことしてもらえるんですか?」


「はい。ジンジャーエールと柚子サイダー、どっちがええですか? 大阪サイダーやラムネもありますよ」


「ジンジャーエールがええです」


 リリコは即答した。


「ほなお待ちくださいね」


 くすりと笑った店員さんが作業を始めると、お祖母ちゃんが「リリちゃん」とそっと耳打ちする。


「最初はちょっと緊張したんやけど、気さくな店員さんやねぇ。お祖母ちゃんほっとしたわぁ」


 あらためて店内を見渡してみると、過度に大騒ぎする様な野暮やぼなお客さんはおらず、なごやかな雰囲気が漂っている。


「せやな。私も最初ちょっとびくってしてもうたけど、大丈夫そうやね。お祖父ちゃんが持ってたカードのことも聞けるやろか」


「お祖母ちゃんが聞こうか?」


「そうやなぁ。タイミング見て聞きやすい方が聞こか」


「そうやね」


 お祖母ちゃんはこっくりと小さく頷いた。

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