幕間 師匠の真意

「今頃はクロイの入学式が始まっている頃か。早速騒ぎを起こしていなければいいが……」


 窓の外を眺めながら、女性がつぶやく。クロイをクビにし、学校へ送り出してはや数日。クロイの師匠であり、母親代わりでもあった彼女は、静かに思いを馳せていた。

 しかし、そんな静かな時間は唐突に終わりを迎える。


「ししし師匠っ、聞きましたよ! どういうことですかっ!? あの子をクビにしただなんて!」


 吹き飛ばすような勢いで扉が開け放たれ、悲鳴のような大きな声が部屋を揺らす。師匠と呼ばれた女性は軽く溜息をついた。


「いつも言っているだろ、ネルン。扉を開ける前にはノックをしろ。それと、この部屋で大きな声を出すな」


 ネルンと呼ばれた若い女性は赤面し、慌てて頭を下げた。


「も、申し訳ありません師匠。いや、そんなことよりあの子が……!」


 師匠はもう一度深いため息を吐いた。長期任務から帰って早々この調子とは。ネルンが離れている間にクロイを送り出したのは、間違いだったかもしれない。

 普段のネルンは、冷静に任務をこなす優秀な諜報員エージェントだ。だと言うのに、クロイに関することだけはがらにもなく取り乱す。傍から見ればわかりやす過ぎる変化だが、果たしてネルン本人はどこまで自覚しているのやら。


「クロイのことなら、ネルンが心配する必要はない。きっと学校で楽しくやっているさ。手元から離れるんだ、お姉ちゃんはさぞ心配だろうが……」

「なっ、お姉ちゃんなんて、そんなんじゃありません! ただ姉弟子ってだけで、っていうかあんな奴の心配なんか……じゃなくて!」


 誤魔化すように机を叩き、ネルンはキッと顔を上げた。


「どうしてクロイをクビにしたんですか!? あんなに優秀な子は他にいないのに!」

「そんなことは私だってわかっている。あいつの能力はもう、全盛期の私すら超えている」


 思わぬ師匠の言葉に、ネルンはわずかに息をのんだ。伝説とすら言われた師匠に、ここまで言わせるとは。

 しかし、そう思っているならなおのこと、今回の処遇は納得できない。


「……だったら!」

「でもな、あいつはダメだ。能力の問題じゃない。クロイは致命的に、スパイに向いてないんだ。ネルンだって、本当はわかっているんだろ?」


 言葉を失うネルンに、師匠は淡々と語りかける。


「スパイは非情に徹しなければならない。時には目の前の悲劇を見過ごし、仲間を盾にして情報を持ち帰る。その覚悟を持たなければならない。私は常々、お前たちにそう教えてきた。……でもな、あの子には無理なんだよ」


 ネルンは目を伏せ、唇を噛み締める。師匠の言う通りだ。私にはそれが出来る。任務のためなら、全てを犠牲にする覚悟がある。でも、クロイには無理だ。目の前の悲劇を放っておくなんてそんなこと、優し過ぎるあの子に出来るわけがない。


「で、でも! クロイはいつも任務は達成してて……」

「だいたい大暴れして、力技で有耶無耶にして無理矢理だけどね!? あれやると、後始末が死ぬほど大変なんだから! ネルンだって、いつも事後処理手伝っててわかってるでしょ!?」

「うっ、ま、まぁ……」


 師匠の剣幕に、ネルンはそっと目を逸らした。クロイの能力が一番優れていたのは間違いないが、クロイは一番のトラブルメイカーでもあった。


「……まあ、こっちの苦労はどうでもいいんだ。だけどスパイを続ける限り、非情な選択を迫られる場面はこの先もずっとある。そしてこの先も、今までのように全て救えるとは限らない」

「……そう、ですね」


 今までは偶然うまくいっただけだ。いくらクロイが強くとも、ひとりの力には限界がある。


「だから、これで良いんだ。あの子はスパイなんて関係なく、平和な世界で生きていくべきなんだよ」

「……はい、そうですね師匠。思えばあの子には、ずっと辛い思いをさせていたのかもしれません」


 ネルンは頷き、何気なく言葉を続けた。


「でも、良かったです。これからは、クロイは魔法学校で平和に過ごせるんですね」

「……アー、ウンウン。ソウダトイイネー」

「……え? なんですかその反応?」


 全力で目を逸らしている師匠に、ネルンは掴みかかる勢いで迫った。


「ちょっと、なに隠してるんですか師匠!? なにかあるんですか!? あるんですね!?」

「あー、いや、なにも起きなければ良いと思ってるよ。でももしかしたら……何か起きる可能性も、あったりなかったりー……」

「師匠! ちゃんと答えてください!」


 ネルンの追求に、遂に師匠は根を上げた。


「……シルビア王女だよ。彼女が今年の新入生の中にいるんだ」

「シルビア・イースアルバ王女ですか? 王位継承者順位1位の……って、特大の厄ネタじゃないですか。もしや、暗殺計画があったり?」


 王位継承権争いに暗闘は付き物だ。とりわけ、現在のイースアルバ王家の勢力争いは混迷を極めている。シルビアの暗殺計画が持ち上がっていても、なんらおかしくはなかった。


「まだ確証はない。さすがに学校の中までは手は出さないと思う……けどまー、可能性はある。だからそのー、保険というか念のためというか、あの学校に潜り込むには適任が他にいないというか……」


 ムニャムニャと言葉を濁す師匠に、ネルンは鋭く詰め寄る。


「ちょっと師匠、話が違うじゃないですか! クロイは平和な世界で生きていくべき、とか言ってませんでした!?」

「……まあ、なんかあってもクロイなら大丈夫だろう! 多分!」

「ししょー!?」


 ネルンの絶叫が、虚しく部屋の中に響き渡った。

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