日常の崩壊と絶望

 この日、マサユキは一人、自宅でのびのびと過ごしていた。母親は駅前まで買い物に行っている。ユキマサの服を買いに行くと言っていた。母親がいつ帰ってくるかもわからないので、ユキマサは外出せず、家の中で過ごしている。


 ユキマサは母親の外出には絶対について行かない。たとえ母親に誘われたとしても、何かと理由をつけて断っている。息子を恋人扱いする母親なんて、誰にも見られてはならない。赤の他人に見られるならまだしも、ユキマサの顔見知りや母親の同僚に見られてしまったら、何を言われるかわかったものではない。息子の存在を忘れて、息子を恋人だと思い込んで生活している母親の存在を、ユキマサは誰にも知られないように気を付けながらすごしてきた。中学時代、高校時代は人付き合いを極力減らした。成人した現在でも、周囲に母親のことを悟られないように、変に思われないように生活している。母親が元に戻った時に、暮らしにくくならないように、昔みたいな親子に戻れるようにするためだ。


 ユキマサがリラックスして、リビングでうとうとしていると、ガチャッと玄関の鍵が開く音がした。時刻は午前十一時前、母親が出かけたのは九時前。帰ってくるにはまだ早すぎる。いったい何があったのだろうか。強烈に嫌な予感がした。


 玄関が開く音がした。母親が部屋に入ってきたのだろう。でも、一向に母親がリビングに入ってくる気配がない。しばらく待ってみても、足音どころか、物音ひとつしない。


 ユキマサの心臓の鼓動が早くなる。気道が狭くなったような錯覚に陥った。何度か深呼吸をして、自分を落ち着かせると、ユキマサは立ち上がって、おそるおそる玄関に向かった。


 母親は靴を履いたまま玄関に立ち尽くしていた。ユキマサが、母親の視界に入る位置にいるにもかかわらず、反応が全くない。母親の表情は、無、だった。どこか遠くを見つめている虚ろな瞳。まるでマネキンのように微動だにしない。ユキマサは一抹の恐怖を感じた。


 一切の感情がなくなってしまったかのような母親をユキマサは初めて見た。どう対応していいのかわからない。しばし、思考を巡らせるが、何も思いつかない。とりあえず、声をかけてみることにした。母親に自分の声が届くか否かを確かめる。


「ヨリコ、どうしたの?」


 すると、母親はぱちりと一つ瞬きをして、ユキマサをその瞳に映した。じーっとユキマサの顔を見つめる母親。何度か名前を呼んでみたが、見つめるばかりで反応がない。ユキマサが軽く左右に移動してみると、母親の顔が追いかけて来る。しばらく、母親の気が済むまで、ユキマサはその場に立っていることにした。声をかけても無駄だろう。


 どれくらい時間が経過したのだろうか。母親が、靴を履いたまま、ユキマサのほうに近づいてきた。ユキマサの顔をじっとみつめたまま。


「あはははははははははははははははははははははは」


 母親が突然狂ったように笑い始めた。背筋に冷たい汗が伝う。完全に壊れてしまったのだろうか。ユキマサはその場を逃げ出したかったが、何tか踏みとどまり、母親の名前を何度も何度も呼んだ。だが、母親は笑うばかりで、何の反応も示さない。ユキマサの声は母親の耳には入らなかった。


 しばらくすると、母親の笑い声がピタリとやんだ。そして、母親はユキマサの顔を見つめて、悲し気で、今にも泣きそうな顔を浮かべた。


「ねぇ、“マサユキ”、今日、あなた、駅前にいたわよね」


 身に覚えがない。ユキマサは瞬時に否定の言葉を発した。今日一日、ユキマサは一切外に出ていない。ある可能性が思い浮かんだ。確信に近いが、確かめるすべがなかった。「本物のマサユキに会ったの?」なんて、目の前に“マサユキ”がいると思い込んでいる母親に聞けるわけがない。そう考えていたユキマサだが、答え合わせはあっさりと終わった。


「そっか、そうよね。やっぱり、あなたじゃないのね」

「わかってくれたのか?」思わずユキマサの口角が上がった。

「ええ、わかったわ。本物の正雪マサユキがもう二度と帰ってこないことがね」


 ユキマサの笑みが一瞬で消え去った。言葉がのどにへばりついて出てこない。


「そんなに驚くことかしら?」

「……うん。驚くよ。いつから偽物だって気づいてたの?」

「最初からに決まってるじゃない」

 さも当然のことのように母親は言った。そして、ユキマサを嘲るように唇を弓の形に歪めた。

「まさか、私が騙されるとでも思ったわけ? 一番大事な人を、あなたと見間違えるわけないでしょ」

「で、でも、だって、母さん、俺が、帰ってくるの遅かったり、彼女と歩いてたりしたら、変な感じになってたじゃん」

 ユキマサの声はかすかにふるえていた。

「あー、あれね。なんていうのかな、あなたが演じる“マサユキ”を頑張って、正雪だって思い込んでいたのよ」

「じゃあ、俺が今までしてきたのは無駄だったってこと?」

「そんなことないわ。あなたが、正雪を演じてくれたから、私は、偽物だけど、正雪を一緒にいる錯覚を出来たの。だから、今まで私のために、ありがとうね。“マサユキ”になってくれたことだけは心の底から感謝してるわ」母親の声は柔らかかった。ユキマサが、ユキマサとして聞いた中で一番、優しい声色だった。

「じゃあ、俺の言葉に一喜一憂してたのは、演技だったの?」

「違うわ。あなたを正雪だって思い込みながら生活してたって言ったでしょ。だから、正雪に言われたように錯覚しちゃって、本気で病んだのよ」

「そんなに正雪が大事なの? ……俺のことなんてどうでもいいの?」


 ユキマサは何とか声を絞り出して、母親に疑問をぶつけた。聞かない方がいいとわかっていても、どうしても聞きたくなってしまった。


「何、当たり前のこと言ってるのよ。私にとって一番大事なのは、正雪に決まってるじゃない。あなたのことなんて、心底どうでもいい。だいたい、あなたさえいなければ、私は正雪とずっと一緒にいられたかもしれないのよ。ほんと、あの時の私を今でも恨むわ。子どもができたことを正雪が喜ぶわけないのにね。まあ、産んじゃったし、さすがに犯罪者にはなりたくないからちゃんと育てたわ。正雪の血が流れてるしね」


 母親の声からは後悔が伝わってきた。本気でユキマサのことをどうでもいいと思ってることが、よくわかった。母親にとって、ユキマサは、要らないモノだった。邪魔なものだった。自分と言う存在が誰にも望まれていないことを理解した。理解しても、ユキマサは何にも感じなかった。心があったはずの場所が、冷たい空気がかすかに流れる空洞になってしまったかのようだ。


「ねえ、俺は、母さんにとって、なんだったの?」冷淡な声。

「そうね、なにかって言われたら、正雪の代用品でしかないわね」


 母親は少し考えてから、何のためらいもなく“正雪の代用品”だと言い切った。ユキマサは悲しいとも、苦しいとも、憎いとも感じなかった。予想通りの答えすぎて「やっぱり」としか思わなかった。


 なぜか、ユキマサの顔にうっすらと笑みが浮かび上がった。


「俺は、母さんの恋人の代用品でしかないんだね。いつからそう思ってたの? さすがに、生まれてすぐじゃないよね。それはさすがに引く」

「あなたの顔が、正雪の顔に似てきたときからかしらね。生まれてすぐの時は、大変で大変で、子育てが嫌になったけど、正雪の血が流れてるんだから、って自分に言い聞かせながら、頑張ったの。本物は近くにいないけど、自分の遺伝子と、正雪の遺伝子が混ざったものが、自分の手の中にはある。それだけで、我慢しようと思った。でもね、あなたが、成長していくにつれて、だんだんとね、正雪の面影を感じるようになったの。最近では、若いころのマサユキにそっくり。きっと、頑張ってあなたを育てた私への神からのプレゼントだと思ったわ。努力は報われるのね」


 母親は顔をほころばせて、優しく優しく、ユキマサの顔をなでた。大事なものを触るような手つきだった。ユキマサの価値は、正雪に似ている顔だけ。全身でそう語っている。少なくともユキマサはそう感じた。


「あなたは、正雪が私の元に帰ってくるまでの代用品。でも、今日、ユキマサを駅で見かけたの。女と歩いていたわ。でも、正雪を見つけられて嬉しかった。だから、この機会を逃さないように、やっと見つけた正雪に話しかけたの。どうせ、遊びの女だと思ったから、連れ戻そうと思って。そしたら、なんて言われたと思う? 『俺、こいつと結婚してるから』って言われたのよ」母親は力なく笑った。「私とは結婚してくれなかったのに。しかも、なんて言われたと思う? 『ユキマサから聞いてなかったのか』って言われたのよ。ねえ、あなた、正雪と会ってたの?」

「うん。結構前に会った。偶然」

 母親は鋭くユキマサを睨みつけた。

「なんで? なんで、そのことを教えてくれなかったの? もっと早く会えたのに!」

 母親は耳に刺さるような悲痛な叫び声を出した。そして、ユキマサの肩を痛いほどに掴んだ。思わずユキマサは顔をしかめた。

「しょうがないでしょ。母さんに伝えるわけにはいかなかったの、俺のために。もし、正雪のことを伝えてたら、俺はどうなってた? 俺のことなんてどうでもよくなって捨ててたでしょ。それに、もう正雪は結婚してた。そんなの知ったら、母さんがどうなるかわからなかった。だから、俺が生きるために、伝えなかった」ユキマサは淡々と母親に伝えた。

「そんなくだらない理由で、私に正雪のこと伝えなかったんだ」

 ユキマサは爪が食い込むほどに、強くこぶしを握り締めた。

「くだらない? 母さんにとってはくだらないのかもね。でも、俺にとってはくだらなくない」語気が強まった。「俺は、母さんのことが大好きだったから、本当に大好きで、元の母さんに戻って欲しかったから、だから、今までずっと、母さんが壊れないように、頑張って正雪の真似してたんだよ。いつか母さんが、昔の母さんに戻ってくれるんじゃないかって、そう思って、信じて、ずっとやってたんだよ……」


 ユキマサの両目から、静かに涙が流れる。目をぎゅっとつむって、唇をかみしめても、涙があふれてしまう。手で涙をぬぐってもぬぐっても、おさまらない。


 すると、母親が、ユキマサの腕を優しく掴んだ。ユキマサは涙にぬれた顔を母親に向けた。


「ユキマサ、目をこすらないの」

「母さん」


 母親は心配そうにユキマサの顔を見つめている。ユキマサはその瞳に自分が映っていることがうれしくて、つい、顔がほころんだ。心配そうな顔がうれしかった。


「大事な正雪に似た整った顔をこすらないでちょうだい。めがはれちゃうでしょ」

 ユキマサの涙が嘘のようにピタリと止まった。

「わかったから、手、放して」


 母親はすんなりと手を離した。ユキマサは服で涙を軽くふき取った。今までもこれからも母親がユキマサを気にかけることはない。それをしっかりと理解した。何をしてももう昔のような暮らしは出来ない。ユキマサの中に存在していた淡い期待が、消えかけながらも確かにあったそれが、今、完全に跡形もなく消え去った。


「母さん、これからどうするの?」ユキマサはポケットに手を突っ込みながら問いかけた。

「もちろん、ユキマサと正雪を殺して私も死ぬわ。もう生きる理由もなくなったからね」寂しそうに微笑んだ。

「心中に俺まで巻き込まないでよ。俺、死ぬ理由なくないかな?」

「あなたにはないかもしれないけど、私にはあるの。なんか、正雪に似た顔で正雪の血が流れた人間が、私がいない世界で生きてるって思うと、殺意がわいてくるのよ。だから、一緒に死んでちょうだい」

「嫌だけど」

「あなたに拒否権ないわ。あのね、私、正雪のこと教えてくれなかったこと結構、ちゃんと、しっかりと恨んでるのよ」

「正雪は別に、あの人のこと好きだから結婚したわけじゃないよ。ただの契約。お互いにメリットがあったから結婚しただけだよ」

「だから何。そんな理由があったところで、結婚したっていう事実は変わらないのよ。しかも、どうせ、結婚した理由って金でしょ。いい服着てたもの。どうあがいたって私の元には帰ってこないじゃない。私はただの貧乏人。もう生きててもどうしようもないのよ」

「そっか。そうなんだね。わかった。もう死ぬのは決定事項なんだね」

「ええ、そうよ。止めても無駄よ。安心して、あなたから殺してあげるから」

「大丈夫。止めないよ」


 ユキマサはポケットから液体の入った容器を取り出すと、母親の顔にシュッと吹きかけた。その途端、母親はユキマサの方に倒れた。睡眠薬の効果は絶大だ。ユキマサは母親を床の上に優しく寝かせた。


「どうせ、俺の話なんて聞かないもんね」


 ユキマサの声は誰にも切れることなく、寂しく部屋に響いた。ユキマサは屈んで、念のためもう一度、睡眠薬を母親の顔に吹きかけた。よく眠っている。


 ユキマサは立ち上がると、寝室に向かった。そして、自分の鞄を漁る。眼鏡ケースを取りだし、眼鏡を取り出した。そして、どちらも思いっきり、床に投げつけた。そして、眼鏡を思いっきり蹴り飛ばした。鞄の中身は床にぶちまけた。


 無表情のままユキマサは自分の通帳と、タンスに入った母親の通帳だけを持つと、鞄に入れた。そして、感情の無い光の無い目で母親を一瞥すると、外に出た。『なんでも屋』に行くためだ。


 睡眠薬の効き目がどれだけ続くのかわからなかったので、早足で『なんでも屋』に向かった。もうムゲンに依頼することにためらいはなかった。








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