親子の日常がぶっ壊れた日の記憶

 母親と息子としての日常は、中学三年生の暑い夏の日に崩壊した。


 夜中、ユキマサは喉の渇きに目を覚ました。眠い眼をこすりながら体を起こして、隣の布団を見ると、きれいに敷かれた布団があるだけで、母親の気配がない。枕元に置いてあるスマホを確認すると、時刻は深夜二時を回ったところだった。仕事があるのにまだ眠りについていない母がユキマサは心配になった。


 ユキマサは立ち上がって、リビングにつながる扉を開けた。電気のまぶしさに、思わず目を閉じてしまった。何度か瞬きを繰り返して、光に目を慣らす。


 ユキマサの光に慣れた目に、机に突っ伏して寝ている母親の姿が飛び込んできた。机の上には酒の缶らしきものが何本も無造作に置かれている。


 またか、とユキマサは思った。


 ここ二、三年、母親が、酒の缶が並ぶ机に突っ伏して寝ている姿をよく目にするようになた。しかも最近では、その頻度が増えている。ユキマサは母親が心配で、悩みがあるのかと尋ねたことがあるのだが、「大丈夫」という答えしか返ってこなくて、どうすることもできない。母親は時折、寂しそうな表情を見せるから、何かあるはずなのに、相談に乗ることすらできない自分が歯痒かった。


 とりあえず、ユキマサは母親を寝室に連れていくことにした。仕事の疲れがたまってるだろうから布団で寝て、しっかりと疲れを取って欲しいものだ。


 ユキマサは母親のすぐそばにかがんで、

「母さん、起きて。ちゃんと布団で寝よう」

 と言いながら優しく母親の肩を揺すった。


 母親は小さく呻くと、ゆっくりと顔を上げた。電気の光がまぶしいのであろう、顔をしかめている。


「母さん、起きた?」ユキマサは母親の顔を覗き込んだ。


 母親はぼんやりと、ユキマサの方を見る。


「母さん、布団で寝よう。立てる?」ユキマサは優しく問いかけた。

「……だいじょうぶよ。ちゃんとたてるわ」母親は眠そうに答えた。


 母親は机に手をついて、ゆっくりと立ち上がろうとした。ちゃんと立てるか心配だったユキマサは、母親の体に手を回して、倒れないように体を支えた。


 無事に立ち上がった母親は、ユキマサの顔を見ると驚いたように目を見開いた。そして、ユキマサの顔から視線を逸らすと、しばらくしてからもう一度、恐る恐ると言った様子で、ユキマサの方に顔を向けた。


 母親に顔をペタペタと触られて、ユキマサは困惑した。何をしているのかと母親に聞こうとしたが、それは、母親の言葉にさえぎられた。


「“マサユキ”! 帰ってきてくれたのね!」母親は感激した様子でいい、嬉しそうな表情でユキマサに抱き着いた。


 ユキマサは困惑した。母親に耳慣れない名前で呼ばれたことと、なにより、今までに見たことがないほどに嬉しそうにしていたからだ。


 ユキマサが口をはさむ間もなく、母親は話を続けた。


「十年以上も音信不通でずっと心配だったのよ。どこにいたのか聞かなくてもわかるわ。どうせ、他の女のとこにいたんでしょ。浮気性だものね。でも、そんなことどうでもいいわ。私のところに戻ってきてくれたってことは、私のことが忘れらなかったのよね。わたしも“マサユキ”のことが忘れられなくて、ずーっと待ってたのよ。ずーっと、ずーっと、待ってたの。いつまでも待つつもりだったけど、やっぱり寂しかった」母親はギューッと強くユキマサは抱きしめた。


 ユキマサは母親が言っている意味が分からなかった。


「えーっと、母さん、何を言っているの? 俺は“マサユキ”って人じゃなくて、ユキマサだよ」ユキマサは戸惑いながら言った。


 それを聞いた母親は、ユキマサの顔をじっくりと見てから、笑った。


「何言ってるのよ。あなたはどこからどう見ても“マサユキ”でしょ? からかわないで」

「からかってないよ。俺は、ユキマサなの。あなたの息子だよ」ユキマサは母親の目をしっかりと見つめながら訴えた。

「おかしなこと言わないでちょうだい。あなたは“マサユキ”でしょ。私にとって一番大事な人を見間違えるわけないじゃない」

「俺は母さんの息子のユキマサなの!」必死に訴える。

「何言ってるのよ。私に息子なんていないの“マサユキ”は知ってるでしょ? あなたが子どもを欲しがらないのはわかってるわ。熱でもあるのかしら? 大丈夫?」心配そうにユキマサのおでこに手を当てた。


 母親はユキマサのことを“マサユキ”だと信じて疑わない。それに、息子の存在が母親の頭の中からすっかり消えていることもわかった。ユキマサは、今まで感じたことがないほどの悲しみを感じた。自分なんて簡単に忘れられるほどの、どうでもいい存在だったのか。次第に絶望が体中に広まっていく。


 ユキマサは何とか自分の存在を思い出させたかったが、どれだけユキマサが“マサユキ”ではないと否定しようとも、母親が聞く耳を持たないことは今までの会話から十分に想像がつく。


 どう対処しようかと考えているうちに段々と、今までに見たことがないほどに嬉しそうな母親を悲しませたくないという思いがユキマサの中に湧き上がってきた。今の母親は夢の中にいる状態だから、夢ぐらい見させてあげようと自分に言い聞かせた。酔っぱらって現実と夢の境界がわからなくなっているだけだ。きっと寝て起きれば酔いも醒めて、元の母親に戻っていると信じることにした。


「母さん、そろそろ寝よう」

「“マサユキ”、なんで母さんなんて変な呼び方するの? 別にわたしはあなたのお母さんじゃないのよ。子どももいないのに、そんな呼び方やめてちょうだい。私はあなたの母親じゃなくて、恋人なの」母親は恋人を強調するように言い、そして、上目遣いでユキマサを見た。「ねぇ、いつもみたいにヨリコって呼んで欲しいな。お願い、ちゃんと私を恋人扱いして」


 母親の発する言葉がユキマサの心にグサグサと刺さった。母親にとって子供が不要なものであることが伝わってきたからだ。


 ユキマサは深呼吸をして感情を落ち着ける。体の中に絶望と悲しみと寂しさが渦巻いているが、それらすべてから目を背けた。


 母親の希望を叶えるのには抵抗があったが、拒否したところで状況は何も変わらない。はやくこの地獄の時間を終わらせたいとユキマサは思い、しぶしぶ、母親を布団で寝かせるために、母親の要求をのむことにした。一瞬我慢すればいいだけだと自分に言い聞かせた。


 ユキマサは一度目を閉じて、ゆっくりと目を開け、笑みを浮かべた。


「ヨリコ」


 名前を呼ばれた瞬間、母親の顔が輝いた。満面の笑みだ。


「なに? “マサユキ”」


 母親のいわゆる猫なで声に、顔が引きつりそうになったが、ユキマサはなんとか笑顔を保った。


「もう夜も遅いから、布団で寝よう」

「そうね。明日も仕事があるから早く寝ないと。“マサユキ”、布団まで連れってって欲しいわ」

「……もちろん。一緒に行こう」


 ユキマサは母親と腕を組みながら布団まで移動した。一緒に布団に入りたいという要求を躱して、なんとか母親を布団に寝かせた。少しすると、寝息が聞こえてきた。母親は眠りについたようだ。ユキマサはほっとした。


 眠っている母親を絶対に起こさないように。極力音をたてないようにユキマサは慎重に寝室を出た。


 寝室の扉を閉めて、息を吐きだす。ユキマサは扉に背をつきながら、その場に座り込んだ。先ほどまで体の中で感情が暴れていたはずなのに、今は不思議と心は凪いでいた。でも、なぜか、すぐには体を動かすことができなかった。


 しばらくぼんやりしてから、ユキマサは立ち上がった。机の上の缶を袋の中に入れる。キッチンで水を一杯飲むと、リビングの電気を消して、寝室に入った。音をたてないように静かに布団に入ると、すぐに深い眠りに落ちていった。



 翌朝、普段通りの時間に起きたユキマサは、いつものように母親の弁当を用意し、二人分の朝食を準備した。朝食を机に並べ終わると、母親を起こした。いつも通りに。


「おはよう、かあさん」

「……おはよう、ユキマサ。いつもありがとね」


 母親は眠そうにしながらも、しっかりとユキマサを認識した。ユキマサは自分の存在が母親の中から消えていなかったことに安堵した。


 母親は顔を洗ったり、着替えたり、普段通りの行動をしていて、特に変わった様子はない。いつも通りで安心したと同時に、ユキマサは少しもやもやした。


 二人で朝食を食べる。母親はユキマサを向かい合っていても、気まずい様子は一切ない。やっぱりいつも通りの母親だ。


 母親には昨晩の記憶がないのだろう。だから、母親はユキマサに普段通りの態度で接することができる。気まずくなりようがないのだ。


 昨晩のことが頭から離れないユキマサの中で、平然としている母親に対する怒りがふつふつと沸き上がった。消えない悲しみと絶望感の原因は母親だというのに、そのユキマサを苦しめる原因を作った母親は何も覚えていない。


 ユキマサは確かに元の母親に戻って欲しいと思っていたはずなのに、なぜか普段通りの母親を見ていると次第にイライラしてくる。ユキマサはそれを表に出さないように耐えながら、母親に接した。


 昨晩のことを母親に問いただしてはダメだとユキマサは自分に言い聞かせようとするが、あまりにも母親がケロッとしてるので、ついにこらえられなくなった。


 朝食を食べ終わったところで、ユキマサの感情が爆発した。


 今までの生活が粉々に砕け散ってしまうとも知らず、ユキマサは母親に対して疑問をぶつけた。


「ねえ母さん」ユキマサは母親の目をしっかりと見た。

「なに? どうしたの、そんなに怖い顔して」

「“マサユキ”って誰?」


 “マサユキ”という名前を聞いた途端、母親は大きく目を見開いた。よっぽどユキマサの口から“マサユキ”という言葉が出てきたことに驚いたのだろう。


「なんで、知ってるのよ」母親は動揺が隠せていない震えた声で何とか言葉を絞り出した。

「昨日、母さんが酔っぱらって言ってたよ」ユキマサは母親の目を見据えながら、淡々と答えた。

「……へー、そうなんだ。そんなこと記憶にないけど、ユキマサが言うならきっとそうなのね。でも、ユキマサは知る必要がない事よ。酔っぱらいの言葉なんて気にしないで。さて、もう仕事行こうかしら。ごちそうさま。今日もおいしかったわ」


 母親は誤魔化すように早口でしゃべると、顔をユキマサから背けて、慌てた様子で立ち上がろうとした。都合の悪い話を一刻も早く終わらせたい。一刻も早くこの居心地の悪い場所を離れたいのがまるわかりだ。


 逃げようとしている母親の態度にユキマサの神経は逆なでされた。『気にしないで』って、無理に決まっているだろう。母親に存在を忘れ去られた記憶は衝撃が強すぎて、忘れたくても忘れられない。


 ユキマサの感情を抑えていた最後の砦が壊れ、感情が勢いよくあふれ出した。


「逃げんな」


 静かだが、確かな怒りを感じられる声でユキマサは母親を引き留めた。母親はびくりと肩を震わせて、恐る恐ると言った様子でユキマサの方を見た。初めて見る息子の怒りにひどく動揺しているようだ。


 けれども、そんな母親の様子なんて気にも留めずに、ユキマサは淡々と言葉をぶつけた。


「ほんと、記憶がないっていいよね。楽で。ねえ、昨日、母さんが俺になんて言ったかわかる? どんな態度をとったかわかる? わからないよね。俺が教えてあげるよ。どうせ思い出さないだろうけどさ。母さんはね、俺のことを“マサユキ”って人と間違えたんだよ。しかも、ユキマサっていう息子の存在を忘れてたんだよ。ねえ、俺がどんな気持ちだったかわかる?」


 母親の顔色がより一層悪くなった。だが、ユキマサの口は止まらない。止めることは出来なかった。


「わからないよね。悲しかったよ。だって、今まで母さんのことを第一に考えて行動してきたのに、ずっと母さんのこと思っていろいろ我慢してたのに」ユキマサは渇いた笑いを漏らした。「ねえ、俺が母さんのためにしてきたことは無駄だったのかな。教えてよ。ねえ」


「悪かったわ」母親は震える声でユキマサに謝罪した。

「で、“マサユキ”って誰? 俺に教えてくれる?」先ほどよりも優しい口調で問いかけた。


 母親は目をそらして、口を開こうとしない。


「そっか。俺には言えないんだね。母さんが自分の口で言えないんだから仕方ない。俺が当ててあげる。“マサユキ”は、母さんの恋人だった人で、俺の、父親、でしょ?」


 目をそらしたまま母親は躊躇いがちに口を開いて、肯定した。


「やっぱり。“マサユキ”は俺の父親だったんだね。いま、どこにいるの?」

「……わからないの。もう十年以上連絡が取れないの」

「別れたってこと?」

「違う!別れてない。きっと、いえ、絶対に帰ってくるわ。私は信じてる。絶対に“マサユキ”は私のところに帰ってくるの」


 母親の様子が一変した。おどおどしていたはずなのに、急にまくしたてるように話し始めた。弱々しさは消え、どこか自分に言い聞かせるように強く言葉を発していた。


 ユキマサの中で、これ以上“マサユキ”について聞くのはやめた方が良いのではないかと理性がブレーキをかける。しかし、抑えきれない感情がアクセルを踏み込んでしまった。母親が囚われている存在について知りたい。


「具体的にいつから帰って来てないの?」

「私の妊娠がわかってからよ」

「その時から連絡が取れなくなった?」

「ええ、妊娠したのって伝えたら、急に連絡が取れなくなっちゃったの。不思議よね。“マサユキ”が私の連絡先を消すはずないもの。いったいどこに携帯を落としたのかしら? いつ戻ってきてもいいように、ずっと同じところに住んでるのだけれど、まだ帰ってこないの。きっと、お金がなくて帰ってこれないんだわ。あの人いつも金欠なの。お金が無くなるたびに私のところに来るの。“マサユキ”いつ戻ってきてもいいように、私が頑張って稼いで、貯めておかないとね」

「……それ、本気で言ってる?」ユキマサは何か奇妙なものを見るような目で母親を見た。

「何が?」


 母親は質問の意図がわからないといった様子で、不思議そうな表情でユキマサを見つめる。ユキマサの背筋が冷たくなった。母親の“マサユキ”に対する執着が異常なほど強いことを感じた。


「それ、全部母さんの妄想でしょ? もう“マサユキ”って人は母さんのことは何とも思ってないと思うよ。だって、連絡が取れなくなってから十五年くらいたってるよね」

「そんなことあるわけないじゃない。だって、彼は私のことを好きだって、愛してるって言ってくれたもの。最後に会った時だって、『また来る』って言って、この家を出て行ったのよ。つまり、この家に帰ってくる意思があるってことよ。ユキマサ、変なこと言わないで」母親はユキマサを責めるような目で見て、ユキマサを責めるような口調で話した。


 母親の態度にカチンときたユキマサは即座に言い返した。


「え? なんで俺が責められなきゃいけないの。意味が分からない。十五年も連絡が取れない、姿を現さないなんて、どう考えても、母さんは捨てられたってことでしょ。絶対に“マサユキ”は帰ってこないって言いきれるよ。そんな妄想はやめて、現実を見た方が良いよ」

「なんでそんなこと言うの! 私が“マサユキ”に捨てられたなんてあるはずがないじゃない。あの人の周りにいた人間の中で、一番お金を持っていて、一番美しかったのは、この私だもの。そんな私が捨てられるなんてありえない」


 本気で言っている様子の母親にユキマサはため息をついた。


「いい加減目を覚ましたらどうなの。確かに顔が良くてお金があれば捨てられないかもしれないけど、母さんみたいに重い女は捨てられて当然だよ。早く現実を受け入れて、そんなくだらない妄想から抜け出したらどうなの?」

「うるさい! なんでそんなひどいこと言うのよ。私のことが嫌いになったの? せっかくここまで育ててあげたのに、この仕打ちはないわ。恩をあだで返されるってこのことね」

「別に母さんのことが嫌いになったから言ったわけじゃない。ただ、“マサユキ”に執着し続ける母さんが気持ち悪くて言っただけだよ。現実を見て見ぬふりして、妄想の世界に浸ってる人間ほど気持ちが悪いものはないって実感したよ」ユキマサは吐き捨てるように言った。


 母親の表情には強烈な怒りが現れていた。ユキマサがいままで見た中で一番、怒っている。


 ユキマサはさすがに言い過ぎたと、怒りがスーッと消えていき、後悔と焦りに置き換わっていく。だが、吐き出した言葉は口の中に戻せない。口が止まるのが一足遅かった。


「やっぱり、私のことが嫌いなのね。ユキマサ」

「今のは言い過ぎた。ごめん。母さんのこと嫌いじゃないよ。ちゃんと好きだよ」

「なら、もちろん私と一緒に“マサユキ”の帰りを待ってくれるわよね」母親は試すようにユキマサを見つめる。

「……それは、出来ない」

「どうして? 私のことが好きなんでしょ」

「好きだから、大事だからだよ。これ以上帰ってこない人を待つなんてできない。母さんのことが心配なんだ。今すぐには無理だろうけど、徐々に現実を見よう。“マサユキ”への未練を捨てて、忘れて、俺と一緒に暮らそうよ。俺がずっとそばにいてあげるからさ。だから、お願い。お願いだから、今の生活を大事にして」ユキマサは懇願するような視線を母親に向ける。

「意味が分からない。“マサユキ”を忘れられるわけないじゃない。帰ってきたとき、忘れられてたらかわいそうでしょ。それに、ユキマサじゃ“マサユキ”の代わりになるわけないじゃない。息子なんて恋人の代わりにはなれないわ」冷めた視線でユキマサを見る。

「別に代わりになんてなろうと思ってないよ。あのさ、“マサユキ”は最低のクズだよ。妊娠がわかった瞬間に逃げるなんて、クズ以外の何物でもない。母さんが人生を捧げるような人間じゃないよ」

「“マサユキ”のことを悪く言わないで!」母親はユキマサを睨みながら叫んだ。「あの人は優しいのよ。優しくて優しくて、イイ人なのよ。暴力は振るわないで、お金をねだるだけだもの。ちゃんと私が欲しい言葉もくれるのよ」


 ユキマサの言葉が全然母親に届かない。“マサユキ”のことはよく知らないが、母親の話を聞く限りは救いようが無いクズ野郎だ。でも、母親はいい人だと思い込んでいる。いや、思い込もうとしてるのだろう。現実を受け入れようとしない姿は見るに堪えないほど痛々しい。


「母さん、良い人っていうのは、暴力を振るわないのはもちろんだけど、お金をせびらないよ。どうせ、“マサユキ”は今頃、どっかの女と結婚でもして、幸せに暮らしてるんじゃない?」


 ユキマサはついつい余計なことを言ってしまった。聞く耳をもやない母に対する苛立ちが抑えきれないほどに膨らんでいた。


 母親の表情が消えた。怒りも悲しみもない、真顔。


 沈黙が続く。実際にはどのくらいの時間だったかはわからないが、ユキマサには非常に長い時間に感じられた。


 沈黙を破ったのは母親だった。ユキマサのことをしっかりと目に移しながら、「ねえ、あなた誰?」といぶかしげに言った。目は虚ろに見える。

「……なに、言ってるの? 息子のユキマサだよ」戸惑いながらユキマサは答えた。

「ちがう。あなたはユキマサじゃない」

「何言ってるの。俺は、ユキマサ。正真正銘の息子だよ」

「嘘つかないで! 私の息子はね、優しくて、いつも私を優先してくれて、私のために行動してくれるの。あなたみたいに、私が嫌がることを言うなんてありえないの。だから、あなたはユキマサじゃない。そうよ、あなたはユキマサのふりをした別人よ」母親は光を失ったような虚ろな目つきでわけがわからないことをべらべらと喋った。


 ユキマサは呆然とした。目の前の状況が受け入れがたいものすぎて、脳が理解を拒否している。『現実を見よう』などと、いったいどの口が言ったのだろうか。自分も現実を直視するのを避けようとしているではないか。


 ユキマサが使い物にならない間も、状況は悪化していく。


「ねえ、あなた誰? 私の息子のユキマサはもっと可愛げがあって、従順で、ちょっと馬鹿で、伊達眼鏡をあげたら喜ぶような子よ。あなたみたいなひどい人間じゃない。あのこなら、私が一緒に“マサユキ”を待とうって頼んだら、拒否することなく、快諾してくれるはずなの。私の頼みをあの子は断らないのよ。だから、早く出てってくれないかしら。あなたみたいなどこの馬の骨とも知れない不審者がいたら、ユキマサも、何より、“マサユキ”が安心して帰ってこれないじゃない」


 母親はまるで不審者を見るような目でユキマサを見る。敵意すら感じられる。


 ユキマサはどうすればいいのか分からなかった。口をはさもうと思っても、何を言えばいいのか分からず、結局、状況が悪化していくのを呆然と眺めるしかできなかった。


 ユキマサはすがるような視線を向ける。


「……かあさん」ユキマサは声を何とか絞り出した。

「早く出てってちょうだい。知らない人がいると、落ち着かないわ。それに、“マサユキ”に浮気を疑われても嫌だし、とっとと出てって」


 母親はユキマサに冷たい視線を向ける。顔は不愉快そうに歪んでいる。


 どうしようもない。とユキマサは悟った。何かを言うのは諦めた。母親は『知らない人』になんか耳を貸さないだろう。母親の殺傷能力がある言葉を背に受けながら、ユキマサは玄関に置いてあるカバンを持って、家を出た。


 とぼとぼと学校までの道のりを歩く。次第に冷えてきた頭で考える。今回のことはすべてユキマサが悪いのだ。怒りに任せて言葉を吐き出したユキマサが全面的に悪い。取り返しのつかないことをしてしまったと後悔した。


 この日は一日中、母親のことで頭がいっぱいで、授業に集中できなかった。話しかけられても気付かなかったり、授業が終わったのに気付かなかったりと、最初は笑っていた友達も、次第に心配してきた。


 家への帰り道。ユキマサの足どりは非常に重い。帰りたくないが、帰らないわけにはいかない。母親の反応を考えると気が重い。


 だが、逃げるわけにはいかない。まずはしっかりと謝らなければならない。母親が聞く耳を持ってくれるかはわからないが、聞いてくれるまで謝るしかない。


 ユキマサは覚悟を決めた。母親をもう一度話す覚悟を。正直、今でも“マサユキ”に囚われないで欲しいと思っているが、それを言ったら朝の二の舞になるのはわかり切っているので、いったん諦めることにした。


 玄関の前に着いた。ユキマサは深呼吸をする。恐る恐るドアノブに手を掛けた。ゆっくりと扉を開けた。


「ただいま」


 返事はない。靴もない。つまり、母親はしっかりと会社に出勤したようだ。


 ユキマサは少し安堵した。会社に行けたということは、精神状態が少し回復したということだろう。そうであって欲しいと、ユキマサは願った。


 あの状態の母親がそんなすぐに回復するのだろうかという疑問が浮かんできたが、即座に打ち消した。


 いつものように母親を待つ。宿題をして、風呂に入り、夕食を作る。できるだけ普段通りの行動を心掛けた。


 ちょうど夕食を並べ終えたところで、玄関のほうからガチャッと鍵の開く音がした。続いて扉が開く音がした。


「ただいま」


 いつも通りの母親の声が聞こえた。やはり、もう精神状態は回復して、元の母親に戻ったのだろう。よかった。心が少し軽くなって、今なら謝罪の言葉もすんなり出て来そうだった。


 きっと母親は許してくれるというなんとも楽観的な考えが頭に浮かんだユキマサは、母親をいつも通りの笑顔で出迎えに玄関に向かった。母親は玄関の扉の方に顔を向けて靴を脱いでいた。


「おかえり、……あのさ、朝のこと、なんだけど……」


 謝罪の言葉を言おうとしたが、靴を脱ぎ終わって振り向いた母親の表情を見た瞬間に、続きの言葉が出てこなくなった。サッと血の気が引いて、嫌な寒さを感じた。息が吸いづらい。


 母親が愛おしいものを見るような表情でユキマサを見ていた。その目には、まるで恋人を見ているかのようなドロッとした甘さが含まれている。


 ユキマサは嫌な予感がした。母親が嬉しそうな笑みを浮かべて、口を開こうとしている。いやだ、聞きたくない。耳を手で塞ごうにも、体が動かない。誰か耳をふさいで。いやだ、見たくない。目を閉じることができない。誰か耳をふさいで。体に絶望が注がれていく。


「ただいま、“マサユキ”。夢じゃなかったのね」


 母親はユキマサにガバリと抱き着き、思いっきり抱きしめた。もう逃げないように、もう逃がさないように。どれだけ“マサユキ”に執着しているのかが痛いほどに伝わってくる。


 母親は息子ではなく恋人を選んだ。

 自分が母親のことを壊した。


 全身が絶望に満たされ、心の中に深い罪悪感が生まれた。だからユキマサは母親を拒絶することができなかった。かといって受け入れることもできなかった。


 ユキマサはただ母親にされるがままになっていた。












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