息子が消えた日の記憶

 母親がユキマサを抱きしめて数分。


 母親の気が済んだのか、抱きしめる力を緩めて、少し距離を取った。


 満面の笑みを浮かべる母親は、悲しげに眉を寄せるユキマサの表情を目に映すと、心配そうに顔を歪めた。それを見て、ユキマサの表情はさらに曇った。


「“マサユキ”、大丈夫? 熱でもあるんじゃない?」


 母親はユキマサの額に手を当てた。


「熱はないみたいね。よかった。疲れてるのかしら、それとも、お腹空いてるのかもしれないわ。いまからご飯作るから、適当に座って待っててね。横になりたければ、寝室で寝るといいわ。ちゃんと起こしてあげるから」


 そう言うと、母親はリビングの中に入っていった。


 一人取り残されたユキマサは立ち尽くした。母親の目には確かにユキマサが映っていたはずなのに、母親の目にはユキマサは見えていなかった。ユキマサを通して“マサユキ”を見ている。


 これはすべて自分が悪いのだろうか。元凶は別れの言葉も言わずに、母親の前から姿を消した“マサユキ”だ。もし彼が母親に別れを告げていたらこうはならなかったのだろうか。もし彼がもっと誠実な人間だったら。もし彼がちゃんと父親になっていたら。もし彼が母親を大切にしていたら。


 ユキマサは頭を振ってそれらの思考を振り払う。


 たとえ元凶が“マサユキ”だったとしても、最後のとどめを刺したのはユキマサであることに変わりはない。母親は“マサユキ”に囚われたままでも、普通に暮らせていた。ユキマサが余計なことを口走らなければ、母親は今でも正気だったかもしれない。いや、絶対にそうだっただろう。


 母親を狂わせてしまったのはユキマサだ。


「“マサユキ”! 大丈夫?」


 肩を揺すられて、ユキマサは思考の世界から抜け出した。いつの間にか目の前には母親がいた。母親は心配そうにユキマサの顔を覗き込んでいる。


「え、……うん」

「本当に大丈夫? 何回も名前を呼んでるのに反応が全くないから心配したんだから。やっぱり、具合悪いのかしら。とりあえず、中に入りましょう」


 ユキマサは母親に腕を引かれるままにリビングに入った。机にはユキマサが準備しておいた夕食が並んでいる。母親に促されるままに机の前に座った。母親はその横に座った。


「大丈夫? さっきからぼ―っとしてるけど」


 ユキマサは相槌を打つしかできなかった。


「ねえ、“マサユキ”。これ、“マサユキ”が作ってくれたの?」

「うん」

 母親の口元が緩んだ。

「嬉しい。あなたが料理できるなんて知らなかったわ。とっても嬉しいわ。私のために作ってくれたの?」

「うん」

「ありがとう。きっと、慣れないことして疲れたのね。明日からは何にもしなくていいのよ。昔みたいに全部私がやるから。安心してちょうだい」

「……わかった。あのさ、今日は疲れたからもう寝るね」

「寝室まで一緒に行こうか?」

「ううん、大丈夫。ありがとう」


 ユキマサはうっすらと口角を上げた。


「わかったわ。おやすみ。明日、もし体調すぐれなかったら、私会社を休むから言ってね、“マサユキ”」


 ユキマサはあいまいに返事をして、立ち上がると、寝室に入って、扉を閉めた。そして、すぐに布団に入り、目を閉じた。だが、すぐには寝付けなかった。母親の言葉が気になって気になって仕方がなかったのだ。


 『会社を休む』と母親は言った。ユキマサが風邪を引いた時には、母嫌の口からそんなこと一回も出たことがなかった。いつも、『ごめんね』と申し訳なさそうに言って会社に行ってしまっていた。それなのに、“マサユキ”が体調悪そうだと思ったらすぐに『会社を休む』と母親はためらいもなく言った。


 ユキマサと“マサユキ”の扱いは雲泥の差だ。会社は簡単に休めないのかもしれないと思い子どものユキマサは寂しさを我慢していたが、今になって、母親にとってユキマサはどうでもいい、会社を休んでまで看病をする必要を感じないちっぽけな存在だからだと分かった。母親が卒業式や授業参観や音楽会や運動会などの行事に一回も来なかったのも、正月休みには母方の祖父母の家に一人で預けられたのも、体調を崩しても一緒にいてくれなかったのも、誕生日プレゼントが無かったのも、クリスマスプレゼントが無かったのも、学校の成績が悪くても怒らなかったのも、全部全部ユキマサが取るに足らない存在だからなのか。


 ユキマサの涙が流れそうになったが、必死にこらえた。自分には泣く資格などない。こんな状況になってしまったのはすべてユキマサの責任だ。“マサユキ”のことを母親に聞いた自分が悪い。しつこく質問し続けた自分が悪い。怒りに任せて言葉をぶつけた自分が悪い。余計なことを言わなければ、親子の日常は壊れなかった。後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。


 でも、後悔しても何も変わらない。ユキマサは冷静に母親について考えてみようとした。


 息子のユキマサという存在は今、母親にとっては不要な存在。それに、恋人の“マサユキ”と一緒にいると思い込んでいる母親は、今まで見た中で一番幸せそうだ。


 今の母親に息子のユキマサは要らない。


 本当に必要なのは恋人の“マサユキ”だ。


 つまり、ユキマサを消しても問題はない。


 そうか。ユキマサが“マサユキ”になってしまえばいいんだ。


 今の母親の様子から、母親のゆがんだ認識を元に戻すことは不可能だろう。母がおかしくなったのはユキマサのせいなのだから、母親の妄想に付き合うことは贖罪になるはずだ。


 ユキマサは母親の前では“マサユキ”を演じることに決めた。一番大事な人に自分を見てもらえないのは悲しくて寂しくて苦しいが、それでいい。だってこれはユキマサへの罰であるのだから。母親を壊したユキマサが普通に生活するなんてありえない。ユキマサも壊れるべきだろう。母親を苦しめた分、ユキマサも苦しむべきだ。


 ユキマサがユキマサに戻るときは、母親が正気に戻るときだと決めた。


 ユキマサは眠りについた。いつか、母親が元に戻って、元の生活に戻ることを夢見ながら。




 翌朝、ユキマサが目を覚ますと、隣の布団にはもう母親はいなかった。リビングのほうから音が聞こえる。母親が朝食を作っているのだろう。


 ユキマサは起きてリビングに行こうとしたが、立ち上がりかけて、ピタリと止まった。


 “マサユキ”を演じると決めたはいいが、“マサユキ”のことを知らない。会ったことがないから、喋り方も、声も、表情も、何もかも知らない。いったいどうすればいいのだろうか。


 とりあえず昨日、母親が言っていたことを思い出す。


『浮気性』『妊娠したのって伝えたら、急に連絡が取れなくなっちゃった』『お金が無くなるたびに私のところに来る』『お金をねだる』『私が欲しい言葉もくれる』


 要するに、“マサユキ”は“女遊びの激しいクズ”ということか。


 そうとわかれば、学習すればいい。ユキマサはネットでクズと女たらしについて調べてみた。数人のキャラクター喋り方や性格を見て、なんとなくの方向性を決めた。


 スマホで時計を確認する。今日も学校があるからそろそろ起きなければいけない。


 立ち上がって中学校の制服のブレザーに着替えたが、“マサユキ”がこれを着ていたら絶対におかしい、とふと思った。母親が出かけてからでも、着替えるのは間に合う。そう考えて元着ていた服に着替えなおした。


 ユキマサは深く深呼吸をしてから、リビングの扉を開けた。一歩踏み出す。


 いつもの自分よりも声は少し低め。いつもより気だるげにしゃべるように意識する。


「おはよう」

「おはよう。体調大丈夫? 私会社休んだ方が良いかな?」

「大丈夫だ。ちゃんと会社に行った方が良い」

「でも、いつもと雰囲気違うし」

「……そうか?」

「うん。なんか、いつもよりもテンションが低い、というか、だるそうっていうか。喋り方も少し違うわ」


 ユキマサは動揺が表に出ないようになんとか取り繕う。やはり、会ったこともない人間を演じるのは難しい。どうするべきかと悩むが、無言の時間が続くのはよくない。ここはもう、いっそのこと、母親に直接尋ねればいいのではないか。ユキマサは母親に“マサユキ”についてさりげなく聞いてみることにした。


「……どこが違う?」

「えっとね。口調はちょっと変だけど、ほとんどいつも通りだったわ。でも、いつもはもっと優しい感じで話すかな。あとは、声が違う。低すぎるわ。喉でも傷めたのかしら。大丈夫?」母親は心配そうにユキマサを見る。


 ユキマサは母親に言われたことを即座に修正した。声色はもとのユキマサにもどして、もっと優しい感じで話すことを意識する。


「そんなに心配しなくても大丈夫だ。だから、気にしないで、会社に行きな」

「あなたがそう言うのなら、そうするわ。そろそろご飯食べましょ。もう準備できてるの」

「わかった」


 朝食が机に二人分置いてある。母親と向かい合って座った。「いただきます」と言って朝食を食べ始めたが、味を感じられない。ユキマサは自分が思っている以上に緊張しているようだ。


「ねえ、今日のご飯どうかな」

「美味しいよ。毎日、ヨリコの料理を食べたいくらいだ」

「よかった。じゃあ、これからは毎日私が食事を作るから、一緒に食べましょうね」母親は嬉しそうにしている。

「ああ、そうだな」


 ユキマサはなんとか口角を少し上げた。母親が特に何も言わないから、変な表情にはなってないんだろうと安心した。


 その後も、探り探りの会話をしながらの、朝食が続いた。食べ終わる頃には、結構な疲労がたまっていた。だが、まだ一日は始まったばかりだ。


 特に何事もなく、母親を会社に送り出すと、ユキマサは大きく息を吐きだした。とりあえず一安心だ。だが悠長にしている時間はない。学校に行かなければ。


 ユキマサは急いで着替えると、家を出て学校に向かった。学校に着くと、すぐに机に突っ伏して寝てしまった。


 一時間目の授業が始まる前に友達に起こされて、教科書を出すためにカバンを漁る。ふと手に硬いものが当たる。眼鏡ケースだ。ユキマサの顔が少し緩んだが、周囲の目を気にして、顔を引き締めた。ユキマサにとってこの眼鏡はお守りのような特別なものである。唯一母親からもらったプレゼントで、母親が生活必需品以外で、唯一ユキマサのために買ってくれたものだからだ。


 チャイムが鳴った。もうすぐ一時間目の授業が始まる。


 ユキマサは眼鏡ケースから手を離すと、急いで教科書を準備した。


 いつもなら午後の授業しか寝ないのに、この日は全部の授業で半分以上寝てしまった。母親が近くにいないという安心感と朝の疲労で、ついつい気が緩んでしまったのかもしれない。


 この日から、ユキマサが一番落ち着ける場所が学校になった。


 すべての授業が終わり、下校の時刻になった。


 家に帰らなければならないと思うと、気持ちが沈んだ。家に帰る足取りが重い。家に帰るのが嫌だと思うのは初めてだ。重い足を動かして何とか家に帰った。


「ただいま」


 返事がない。まだ母親は帰ってきていない。わかっていたが、一応確認しなくては安心できなかった。リラックスしたままユキマサは家に入った。そして、服を普段着のゆったりとしたスウェットに着替えた。


 今までは、家に帰ると掃除や料理をするのだが、今日からはやってはいけない。やるべきことと言えば宿題くらいなのだが、それも、さほど時間がかからずに終わってしまった。宿題が少ないことを今までは喜んでいたが、今日は喜べなかった。


 することがないユキマサはシャワーを浴びた。一緒に入ろうと言われたら最悪だし、シャワーを浴びるくらいはしていいだろう。


 髪を乾かし終わると、暇なユキマサは寝っ転がってスマホをいじった。特に見たいものがあるわけでも、読みたいものがあるわけでもない。だが、スマホをいじる以外にすることがないので、動画を流し見ていた。最近人気だという歌って踊る踊り手や、登録者数が100万人を超えるバーチャル配信者の切り抜きや、若者に人気だという男女のモデルの撮影風景など、学校で耳にしたことがある人の動画をなんとなく見ていた。


 ぼんやりと動画を眺めていると、玄関の扉が開く音がした。母親が帰ってきたようだ。ユキマサはスマホを机の上に置くと、体を起こす。


「ただいま」


 ユキマサは立ち上がって、母親を玄関に出迎えに行った。気持ちをユキマサから“マサユキ”に切り替える。


「おかえり」


 母親はユキマサを視界に入れると、母親は突然笑い出した。ユキマサはなぜ母親が笑ったのか分からずに困惑した。


「どうした? なんかおかしいか?」

「いや、その恰好」母親は笑いながら言った。

「これ? スウェットだけど」

「そんなの着る人だっけ? 違和感がすごい」

「……ああ、いや、普段は着ない。でも、これしかなかったからな」

「そっか。ごめんなさい。あなたが着るような服置いてなかったわよね。今から買ってこようか?」

「いや、もう遅いからいい。それより、お腹空いてるだろ? 晩飯にしよう」

「そうよね。あなたもお腹空いてるわよね。服は明日買ってくるわね。今日は服、それで我慢してね」

「わかった」


 母親が夕食を作り始めるまで、ユキマサはスマホをぼんやりと見ながら待っていた。母親はきっと違和感を感じているだろうが、指摘してこないということは、大丈夫なのかもしれない。


 数十分後。


「ご飯できたわよ」

「ああ、ありがと」


 ユキマサはスマホから顔を上げた。スマホはポケットにしまった。


 目の前に料理が並んでいく。全て並べ終わると、母親はユキマサの目の前に座った。気のせいかもしれないが、先ほどよりも表情が暗い気がする。ここは声をかけるべきだろうか。ユキマサが悩んでいると、先に母親が口を開いた。


「ねえ、さっき、してたの?」母親の表情からは微かな不安がうかがえる。

「なんか最近流行ってるっていう動画見てた。暇だったからな」

「そっか。他の女と連絡してたわけじゃないのね」

「もちろん」

「じゃあ、いま、私以外に連絡とってる女はいない?」

「いない。ヨリコだけだよ」

「本当に?」

「本当だ」

「でも、前は、たくさんいたじゃん」

「確かに、そうだったな。でも今はいない。たくさんの女と連絡とるのが面倒になったんだ」

「私は面倒じゃないの?」

「そうだな。一番、一緒にいたいと思ったのがヨリコだったから、お前だけを選んだんだ」

「私だけを選んでくれたなんて嬉しいわ」


 母親は嬉しそうな笑みを浮かべた。それを見てユキマサはほっとした。


 ユキマサは母親の視界に自分のスマホを入れないようにしようと決めた。きっと、母親はユキマサがスマホをいじっているのを見たら、またこんな風になるかもしれない。


 その後も、母親の反応を確認しながら、ユキマサは動いた。


 これがこれから毎日続くのかと思うと憂鬱だったが、自分が悪いし、自分で決めたことなので、頑張ろうと思いながら、ユキマサは一日を終えた。










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