眼鏡を掛けることを決めたときの記憶
“マサユキ”を演じ始めてから一年が経ち、ユキマサは高校一年生になった。
高校受験は想像以上に大変だった。勉強ではなく、三者面談と必要書類を書いてもらうのが非常に大変だった。まずは母親にユキマサを認識してもらう方法を探さなければいけなかった。“マサユキ”がユキマサの名前を出しても、「それ誰?」と母に怪訝そうに聞かれてしまうのだ。でも、学校の制服やカバンがあることについては何も言わない。ということは、母親の中に一応、ユキマサという存在はたしかにいるはずなのだ。
母親は“マサユキ”がいると信じたいから、“マサユキ”がいなくなった原因のユキマサを自分の中から抹消しているのだろうとユキマサは考えた。これが正しければ、“マサユキ”がユキマサの名前を出したところで、母親はユキマサを認識しない。絶対に思い出さない。思い出そうとしないはずだ。
母親の前に“マサユキ”が母親の前にいない時、つまり、ユキマサが母親の視界に入らない時に、ユキマサの用事を頼めばいいのだ。
ユキマサはさっそく置手紙を試した。母親が家にいる休日、母親がトイレに行った隙に、ユキマサは用意しておいた手紙と書いてもらわなければならない書類を机の上において、家を出た。そんなに時間はかからないだろうけど、念のため、二時間ほど駅前をぶらぶらしてから家に帰った。
結果は成功。無事、書類を書いてもらうことに成功した。これ以降、母親に書いてもらわなければならない書類があるたびに、ユキマサは置手紙をして出かけた。
ただ一つ、この方法に欠点がった。それは母親の精神状態が悪化することだ。
それも仕方がない。なにせ、何も言わずに帰ってきたはずの“マサユキ”が消えてしまうのだ。もしかしたら捨てられたのかもしれないという不安が母親の頭をよぎってもおかしくはない。
だから、ユキマサは外出から帰ると、母親の行動すべてにいつも以上に気を配る。普段は不安を感じないような言葉にも、母親は不安を感じるようになり、不安に陥り始めてすぐの状態の時に対処しないと、母親の質問攻めから束縛の打診が始まるのだ。しかも、母親の提案を即拒否すると、もう手が付けられそうにないほど、取り乱すのだ。
母親の回復までがセットになっているため、ユキマサはこの方法を本当に必要な時だけにしか使わなかった。
書類は置手紙で乗り切れたのだが、困ったのは三者面談だ。これは母親とユキマサと先生で、顔を合わせて話さなければいけない。日程を教えて、学校に来てもらうまではいいのだが、問題はそのあとだ。先生の前で“マサユキ”扱いされるのは非常に困る。確実に先生に何か言われる。最悪引き離されるだろう。それだけは避けなければいけない。ユキマサをユキマサだと認識してもらう方法を、ユキマサは必死に考えた。だが、一向にいい案が浮かばない。
どうしようもないかもしれないと思い始めたユキマサは、縋るように母親に買ってもらった伊達眼鏡を手に取った。この眼鏡はお守りのようなもので、辛いときや何かあるときに、心を落ち着かせるために手に取ることがある。
そこで、ふと思いつく。この眼鏡が使えるのではないか。眼鏡を掛けると印象が変わる。印象を変えることができれば、もしかしたら母親はユキマサを“マサユキ”とは認識しなくなるかもしれない。
ユキマサは祈るような思いで、伊達眼鏡を掛けて母親の帰りを待った。どうか、息子の存在を思い出してくれますように。心臓がバクバクと音がする。
結果は、見事に成功。母親に「ユキマサ」と呼ばれたときには泣きそうになったが、なんとか我慢した。久しぶりに親子として過ごせてうれしかったが、翌日、案の定というか、母親の精神状態は不安定だった。母親の対応が、置手紙をした時以上に大変だったので、三者面談以外は絶対に使わないと決めた。
苦労しては言った高校では、ユキマサはあまり友達が出来なかった。家でよく寝られず、一日中寝てばかりいるため、あまり人と話す機会がなかった。そのうえ、休日には母親が家にいるため、極力家にいなければならず、クラスメイトと出かけることや部活に入ることができなかったのだ。
そんな友達ゼロのユキマサだったが、高校一年生の夏の終わり、とあるイベントが起こった。
なんと、クラスメイトの女子に告白されたのだ。
一目惚れだったらしい。ユキマサは少し迷ったが、告白されたことがうれしすぎて、浮かれて「いいよ」とついつい交際を了承してしまったのだ。
交際してから、ユキマサは休日によく出かけるようになった。母親には「ちょっと出かけて来る」とちゃんと申告してから外に出ているから問題はない、とユキマサは考えていた。
だが、ユキマサは甘かった。
ある休日、ユキマサはいつものように彼女とデートして家に帰った。
「ただいま」
母親の返事がない。いつもなら、「おかえり」と言って玄関まで迎えに来るのに。靴はちゃんとあるから母親は家にいるはずだ。
何かあったのかと心配になったユキマサは急いでリビングに入った。
部屋の隅でうずくまる母親が目に入った。
ユキマサは母親に駆け寄ると、しゃがんで、声を掛けた。
「どうした?」
数秒の間の後に、母親は顔を上げずにぼそぼそと、何とか聞き取れるくらいの声の大きさで言葉を発した。
「……今日どこに行ってたの?」
彼女ができたのがばれたかと焦ったが、それを表に出さないように気を付けて、何もやましいことはないというように、疑念を持たれないようにいつも通りを意識して声を出した。
「駅前をふらふらとしてただけだ」
「……誰かと一緒にいなかった?」
「いなかったよ」
「……嘘つき。本当は女と一緒に歩いてたよね。高校生くらいの女の子と。私とは違って若くてかわいい女の子とさ」
だんだん母親の声がはっきりと、大きくなっていった。
「なんで……」
「なんでって、そんなの見たからに決まってるでしょ。今日“マサユキ”の服を買うために駅前に行ったの。そしたら、あなたが女と歩いてるのが目に入ってね。手なんかつないでさ。私と出かけるのは渋るくせに。楽しそうに二人で歩いてた。私だけって言ったのに。嘘つき」
「それは、ごめん」ユキマサは言い訳するのを諦めて素直に謝罪をした。
「最近、あなたの様子がおかしいと思ってたのよ。よく出かけるようになって、表情もいつもよりも柔らかいし、どこか浮かれてた。今思えば、若い子を手に入れたからなのね。私を捨てようとしてるのね。やっぱりそうよ。おかしいと思ってた。戻って来てからずっと、昔よりも優しかったもの。自分本位な発言が多かったくせに、私を気遣うような態度が多かったわよね。お金を要求されると思ってたのに、そんなそぶり全然無いし。違和感は感じてたけど、それを指摘したらいなくなるかもって思って言うの我慢して、もしかしたら優しくなったのかなって思うようにしてたけど、やっぱり、もう私は要らないのね。だったらそう言えばいいじゃない。はっきりと扶養だって。回りくどいやりかたしないでさ。とっとと、目障りだから消えろぐらい言ったらどうなの。優しくされたら未練が残るでしょ。大切にされてるってかんじちゃったら、一年も優しくされたら、執着したって当然でしょ? ねえ、どうして、どうして、こんなにひどいことするの。幸せを感じてる私を、絶望に落としたかったの? そんなに私のことが嫌い? ねえ、なんか言ったらどうなの? 何も言えないの? 図星すぎて何にも言えないのね」
母親の饒舌さにユキマサは驚いて、口をはさむことができなかったが、それが状況をより悪化させた。考えてもこの状況を乗り切る方法を思いつける気がしなかったので、とりあえず口を開いた。
「そうじゃない。オレは別にお前を捨てようとしたわけじゃない」
「ようやく口を開いたと思ったら」母親は呆れたようにため息をついた。「そんな言い訳信用できると思う? どうせ、問いただしたところで、あなたが真実を言うとは限らないわよね。そうね。どうせ私を捨てるんでしょ? あなたが他の女のところでのうのうと暮らすと思うと、耐えられない」
母親は突然立ち上がった。ユキマサは驚いて床に尻もちをついた。
母親はユキマサを不気味なほどにいい笑顔で、見下ろした。ユキマサはゾッとした。なぜか母の表情に恐怖を感じて、その場から動けなかった。
「ねえ、私と一緒に死にましょ? そうしたら、あなたがいない人生を生きなくてもいいし、あなたが他の女と親しくなることもない。ね? いい案でしょ?」
母親は恍惚の表情で、楽しそうにとんでもない提案をされた。
母親は本気だ。今の母親はそれくらいのことを躊躇いもなく実行するだろうという確認がユキマサにはあった。これからの言動を一回でもミスすれば確実に死ぬ。ゲームみたいにコンティニューは出来ない。でも、考える暇もない。ユキマサは過去一で頭を働かせるが、何も思い浮かばなかった。とりあえず、母親をこの場にとどめなければ、キッチンに行き、包丁を持って、不気味な笑みを浮かべて戻ってくるだろう。
ユキマサは深呼吸をして、覚悟を決めた。立ち上がると、できるだけ余裕な雰囲気を醸し出して、母親のことを見つめた。
「待てよ。確かに俺は今日、女と一緒にいた」
「いまさら何よ。さっきは嘘ついたくせに」母親は怪訝な面持ちだ。
「そりゃあ、こうなるだろうと思ったからな。誤魔化せるなら誤魔化したいだろ。まあ、ばれてたけどな。もっと慎重に行動すればよかったわ」へらへらとユキマサは言った。
「でも、私を捨てるつもりなのは本当でしょ」
「捨てるわけないだろ。だってここ居心地いいし」
「どうせ、無料で泊まれる至れり尽くせりの宿くらいにしか思ってないわよね。でも、そんなのあなたならいくらでも探せるわよね」
「確かにな。でもな、この家が一番のお気に入りだ。帰る場所だと思ってる。じゃなきゃ、十年以上連絡とってないのに、突然帰ってくるわけないだろ」
「……確かに」母親は少し納得した様子を見せた。
「だろ? 今更新しいところを探すの面倒だし、ここから出てくことは二度とないよ」
悩んでいる様子の母親の返答をユキマサは静かに待った。頼むからこれで何とか落ち着いて欲しい。
「……わかった。今回は“マサユキ”を信じる。でも、二度目はないから。昔はどれだけほかの女と遊んでても許したけど、これからはもう許さないからね。私だけを見て。他に目移りしないで」渋々といった様子だが、母親はユキマサの言葉を信じようとしてくれた。
「……ああ、わかった。これからは他の女と遊ばない」
「そう言ってくれて嬉しいわ」
母親は柔らかい笑みを浮かべた。ユキマサは母親が元に戻ったことに安堵して、表情が緩んだ。
だが、母親が次に笑顔で口にした言葉に、ユキマサの顔は引きつった。
「じゃあ、次に女と一緒にいたら、殺すからね。そんな表情しないで。大丈夫よ。私も死ぬから」
なにも大丈夫じゃない。母親の言葉を撤回させたかったが、今母親のことを拒絶したら、きっと今すぐに死ぬ。ユキマサは母親の言葉を受け入れざるを得なかった。
「わかった」
「よかった。もちろん、浮気なんてしないとは思うけど、念のためよ。それと、私が家にいるときは、外出しないで欲しいな。ねえ、いいでしょ? あなたを見送るのが嫌なの。帰ってこないんじゃないかって不安になる」
「……わかった。できるだけな」
「ほんと?」
「もちろん」
「浮気しない?」
「ああ、もう二度としない」
「よかった。これで、あなたには私だけね。私もあなただけしか見てないから安心してちょうだい」
母親は幸せそうにそう言うと、ユキマサに抱き着いた。ユキマサはしっかりと抱きしめ返した。
ユキマサはこの時改めて決意した。母親が元に戻るまではすべてを母親に捧げることを決意した。これは自分への罰なのだ。途中でユキマサ自身が壊れてしまっても、それは仕方がないことだ。自分が壊れない限り、母親が求め続ける限りは、ユキマサは“マサユキ”を演じ続ける。自分を見て欲しいと叫び続ける心は無視して、いや、殺して。どれだけ苦しくても辛くても泣きたくても、それらを訴える資格はないとユキマサは思った。
外でも極力人との関わりは避ける。特に、女性と一緒にいるところを母親に見られるわけにはいかない。だが、もしかしたら女性に話しかけられるかもしれないし、たまたま近くに女性がいただけなのに、母親が勘違いする可能性だってある。勘違いされないためには、外にいるユキマサを息子のユキマサだと認識してもらわなければならない。
そういえば、眼鏡を掛けたユキマサを母親はちゃんと息子だと認識していた。つまり、眼鏡を掛けていればユキマサは“マサユキ”と区別されるのだから、外にいる間はずっと眼鏡を掛けていればいいのだ。
ユキマサは外に出る際には絶対に眼鏡を掛けると決めた。本物の“マサユキ”が女性と歩いているところを母親が目撃しない限りは、母親に殺される可能性は低いだろう。本物の“マサユキ”が近くにいないことを心の底から願った。
この翌日、ユキマサは眼鏡を掛けて学校に行き、彼女に別れを告げた。
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