ちょっと昔のお話:出会ってしまった後
トウマとユキマサが運命の出会いをした翌日の朝。ユキマサは、トウマに起こされた。久しぶりによく眠れたからなのだろうか、頭がすっきりした。実家よりも安心感がすごい。体を起こしてテーブルの方を見ると、そこには二人分の朝食が並んでいた。ユキマサは、トウマに促されて、洗面所で顔を洗うなどした後、トウマの正面に座った。ほかほかの白いご飯、みそ汁、目玉焼きが並んでいる。
「これ、俺のために用意してくれたんですか?」
「そうだよ。っていっても、みそ汁はインスタントだけど。遠慮しないで食べて」
「ありがとうございます。いただきます」
一口、温かいご飯を口に入れる。自分のために用意された食事。ご飯を咀嚼すると、口の中に白米の味が広がる。ユキマサの目からは一筋の涙がこぼれた。次々と涙がこぼれ落ちる。トウマは戸惑いを隠せていないが、何も言わずに、箱のティッシュを持ってきて、ユキマサの手が届く場所に置いた。
「よければ使ってください」
ユキマサが落ち着くまで、トウマは待っていた。気になるだろうに何も聞かずに、ただひたすらに。静かに待っていた。
「もう、大丈夫です。ありがとうございます」
「ティッシュはそこに置いといていいよ。……聞いてもいい?」
「はい。久しぶりに、自分のために作られた食事を食べて、久しぶりに、味を感じたんです。全く感じなかったわけじゃないんですが、少しうっすらと感じるか感じないかくらいだったんで、こんなにちゃんと味を感じたのは久しぶりです」
「そっか。そういうことなら、僕、もっと料理がんばるね。また来たいって思ってもらえるように。今日は、簡単なものしかなくてごめんね」
「謝らないでください。用意してもらえただけで十分、ありがたいです」
ユキマサは一口一口、味わいながら食べた。自分のために作られた食事なんて、もしかしたら初めてかもしれない。気を抜いたらまた目から涙がこぼれてしまいそうな気がする。だから、無言で朝食を完食した。
「ごちそうさまでした。本当に、おいしかったです」
「そういってもらえて、うれしいです。それで、あの、昨日、話したことなんだけど、僕から話してもいいかな」
「いいですよ。正雪に関して話したいんでしたよね」
「うん。もう二十年近く前の話になるんだけど、姉さんが、実家に結婚相手として連れてきたのが正雪さんなんだ。身なりはきれいだったし、会社員だって姉さんが言ったし、優しそうに見えたから、反対はしなかったし、両親も反対しなかった。でも、実際は、あいつは、ただのクズだった。外面がいいだけの、女遊びが激しいただのヒモ。仕事なんてしてなくて、金持ちの女に貢がせてるだけ。結婚してからも、浮気ばっかり。なんどか、そういう場面を見た。だから、それを姉さんに伝えた。そしたら、姉さんは、『わかってる』って言ったんだ。どうやら、お互いの利害の一致で結婚したらしい。姉さんは、働くのが大好きで、海外への転勤の話があって、それを受けたかったんだけど、母さんたちが反対してて。海外なんて危ないから行くなだってさ。さすがにそれはないって僕も思ったよ。母さんたちは、姉さんが心配で心配でたまらないらしい。この国につなぎとめるために、お見合いまでさせようとしてたみたい。それがしつこかったらしくて、姉さんは、適当な人を探してたみたい。で、その時にたまたま正雪さんにナンパされて、その時に思ったんだって。この人と結婚して、一緒に海外に行くってことにしようって。そうすれば、両親は、しぶしぶ納得してくれるかもしれない。少なくとも、お見合いを進めてくることはなくなる。だから、お金と引き換えに結婚してくれって頼んだらしい。姉さん、人ひとり養うくらい簡単にできるから。一緒に海外に行かなくてもいいし、女遊びもやめなくていいから、結婚してくれ。衣食住も全部用意するからっていったら、あいつ、食いついてきたみたいで。無事、契約成立、結婚、ってなったんだって」
トウマは沸き上がる感情を押さえつけて、努めて無感情に、事実を淡々と読み上げる感じで、話していた。それでも、言葉の節々に、怒りや悲しみがにじみ出ている。
実の姉が金をむしり取られていたのなら怒りがわくかもしれないが、お互い納得した上での契約で、トウマの姉に何の不都合もない。二人の結婚のどこに問題があるのか、ユキマサにはわからなかった。
「でも、合意の上での結婚だったんですよね。お互い納得しているなら良いんじゃないですか?」
「僕が納得できないんだ。確かに姉さんは結婚に納得してるし、姉さんが望んだことだよ。でも、僕は納得できない。親の結婚の催促を逃れるためには仕方がないことかもしれない。仕方がない。仕方がない。って自分に言い聞かせたけど、やっぱり納得できなかった。僕は、姉さんには、幸せな結婚をしてほしかった。好きな人と結婚してほしかった。あんなヒモ男じゃなくて、もっといい人と、もっと姉さんのことを大切に思ってくれる人と結婚してほしかった。僕が母さんたちを止められていたら、僕が母さんたちを説得出来ていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。姉さんの結婚を知った時、姉さんが、実家にあいつを連れてきたときにはもう、婚姻届けは受理されていた。その前に知っていたとしても、僕には何もできなかったかもしれない。いまだに、そんなことをぐるぐるぐるぐる考えちゃうんだ」
トウマは自嘲気味に口角を上げた。住所不定無職かつ浮気性である正雪が結婚相手だなんて、納得できなくても当然。家族であれば心配になるのもしょうがない。トウマのお姉さんへの愛情を強く感じる。
「お姉さんのことが大好きなんですね」
「うん、本当に大好きなんだ。いや、愛してるって言った方が正しいかな。本当は誰とも結婚してほしくなかった。僕が独占したかった。でも、そんなこと言えない立場なのはわかってる。だからこそ、僕が尊敬できるような人間、姉をこの世の誰よりも愛してくれるような人間と結婚してほしかった。そうしたら、諦めることができたかもしれない。少なくとも、あんなやつじゃなければ。結婚相手はあのクズ男だなんて、そんなの殺したくなって当然でしょ」
トウマの全身からマサユキへの憎しみがあふれている。殺意があふれて今にもこぼれそうだ。同時に、姉への深い愛情、実の姉に向けることが許されない愛情も感じる。トウマの中には重く、黒くドロッとしたものが隠されている。誰にも悟られないように隠しているのだ。
「そうですね。すみません、さっきは、トウマさんの気持ちも知らないで、あんなこと言ってしまって」
「気にしないでいいよ。ユキマサくんが言ったことは正しいから。本人が納得してるんだから、僕が姉さんの結婚に口出す権利はないんだよ。ないんだけど、どうしても、あいつのこと殺したくなっちゃうんだよね。僕から姉さんを奪いやがってって思っちゃうんだ。だから、ユキマサくんに、一つ頼みたいんだけど」
トウマは、一瞬口ごもってから、頭を下げた。
「お願いです。僕の近くにいて欲しい。できれば、週に一回以上、僕の家に来て欲しい。今、僕は一人暮らしで近くには誰もいないんだ。友達もほぼいないし、恋人なんてできるわけがない。一人でいると、姉さんのことばかり考えてしまって、正雪さんへの強い殺意で頭がいっぱいになる。いつか本当に正雪さんを殺してしまいそうで怖い。自分が殺人犯になるのは別にいいんだけど、そうなることで姉さんに迷惑をかけるのは嫌だ。だから、姉さんに迷惑を掛けないためにも、僕の近くにいて欲しい」
トウマにすがるような目で見られたユキマサは、しばし考えた。ユキマサとしては、自分なんかが役に立つならば、トウマの頼みを引き受けてもいいと思っている。でも、すぐには頷けなかった。自分なんかで本当にいいのだろうか。正雪と血がつながっている人間が近くにいたら、それこそ、ふとした瞬間に正雪のことが頭に浮かんでしまうのではないか。それでは逆効果になってしまう。
「あの、俺なんかでいいんですか? 俺の顔、正雪に似てるっていわれてるんですけど、一緒にいても大丈夫ですか?」
「それは、大丈夫。似てるけど、正雪さんとユキマサくんは違うから。それに、事情を分かってくれてるのはユキマサくんだけでしょ。だから、ユキマサくんがいいんだ」
トウマの言葉を聞いて、ユキマサの迷いは消えた。『正雪さんとユキマサくんは違うから』という言葉に泣きそうになった。
「わかりました。週に一回か二回来られると思います」
トウマの顔がパッと明るくなった。喜びと安堵の表情がうかがえる。
「ありがとう」
「感謝されることじゃないですよ。俺も、あなたを利用しているんですから。逃げ場として利用させていただきますね」
「もちろん。存分に利用して。ユキマサくんの居場所になってるって思うと、変なことできないしね。これからよろしく」
「はい。よろしくおねがいします」
こうして、ユキマサの居場所になることで自分の殺意を抑えるトウマと、トウマを避難所として使うユキマサとの不思議な関係が始まった。
この日以降、ユキマサは週に二回、ほぼ必ずトウマの家を訪れるようになった。二人の距離が近づくのにそう時間はかからなかった。唯一落ち着ける居場所であり、一番安心できる場所。いつのまにか、呼び捨てで呼び合うようになった。年の差なんて関係なく、家族とは少し違う、恋人でもない、不思議な、だけど、居心地がいい相手。二人の穏やかな関係は、だいぶ距離感はバグっているが、安定して続いていた。トウマの姉が死ぬまでは。
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