ちょっと昔のお話:終わりの予感と最期
トウマの姉が死んだ。飛行機事故だった。その一報がトウマに届いたのは、たまたまユキマサが一緒にいたとき、一緒にトウマが作った昼食を食べていた最中だった。姉の知らせを聞いたトウマは、スマホを半ば落とすようにテーブルに置いた。表情が抜け落ち、その瞳には何も映っていない。何度声をかけても、聞こえていないかのように微動だにしない。ユキマサは椅子から立ち上がると、トウマに近づいて、トウマの肩を軽くたたいた。緩慢な動きで、ユキマサのほうに顔を向けた。その目に何が映っているのか。ユキマサにはわからなかった。トウマは、ぼそっと、ユキマサがかろうじて聞き取れるくらいの声量で「ねえさんが、しんだ」と言った。ユキマサは、さほど驚かなかった。トウマの様子から、なんとなくそう思っていた。トウマがここまで絶望をするのは、姉の死だけだろう。いまにも消えてしまいそうなトウマに、ユキマサは、ただその場に突っ立っていることしかできなかった。トウマが何かアクションを起こすまで、待つことにした。ひたすらに待つことしかできないのだ。
どれくらい時間が経ったのだろうか。ようやくトウマが動き出した。目には光がなく、底なしの闇があった。
「ユキマサ、僕は、君の、居場所、だよね」
トウマは、蚊の鳴くような声で、ユキマサの腕を緩く掴みながら、呟いた。ここで否定してしまったら、トウマはこの世からいなくなってしまう気がした。まだ、この場所を失うわけにはいかない。だから、ユキマサは、強く、訴えかけるように、心に届いてくれ、と思いながら、トウマの目を見ながら、肯定した。
「そうですよ。トウマは、俺の、唯一の、居場所です」
「そう、だよね。僕は、ユキマサの居場所。いなくなったら、ユキマサが困る。だから、生きていなきゃいけない」
トウマは自分に言い聞かせるように小さくつぶやいた。
「そうですよ。俺の居場所ですから、生きててください」
「そうだよね、でも、でもね、もうどうしたらいいかわからないんだ。もう姉さんはいない。心にぽっかり穴が開いちゃったんだ……。ねえ、僕は、どうしたらいい? どうすればいい?」
トウマは、今にも泣きそうな表情で、今にも涙がこぼれそうなほどに潤んだ目で、迷子のように、ユキマサに縋りついた。この世で一番大切なものを失い、何もかもがわからなくなっている。ただ目の前にいるユキマサに縋るしかできないのだ。
「トウマは、俺にとって特別です。トウマにとって、俺は、特別ですか?」
「……特別だよ。うん、特別だよ、ユキマサは。僕とって大事な存在。かぞくじゃないけど、気が許せる存在。もう姉さんはいないから、この世で一番、大切なひとだよ。ねぇ、ユキマサ」
「なんですか?」
「ユキマサは、僕の前から消えない? 僕がどんな人間でも、どんなことをしても、君は、ユキマサはいなくならない」
「しばらくは、ここにいますよ。今すぐにいなくなるなてことはないです」
ユキマサは優しく言った。こころなしか、トウマの表情がほんのわずかに柔らかくなった気がする。ユキマサの声はしっかりとトウマに届いている。
「そっか。もし、僕が、仕事辞めたら?」
「トウマには、しばらくは暮らせるくらいには貯金ありそうなので、いいんじゃないですか? 辞めても。俺はそんなことで離れませんよ」
「僕が、引きこもりになったら?」
「今までとそんなに変わりませんよね。通販で生活できますし、俺は困りません。むしろ、いつ来てもトウマがいるっていうのは、ありがたいです」
「僕のメンタルがボロボロになったら?」
「すでになってますよ。前からそれは変わりません。ただちょっと悪化しただけなので、全然大丈夫です」
「僕が、ユキマサから離れなくなったら?」
「今さら何を言っているんですか。今までも、トウマは俺に、ものすごくくっついてきてましたよ」
「えーっと、迷惑だった?」
「迷惑ではないです。距離感おかしい人だな、くらいにしか思ってません。さすがに家に帰れないのは困りますけど、ちゃんと家に帰れるなら、トウマにどれだけくっつかれてても、気になりません。クイーンサイズのベッドなのに、こぶし一つ分くらいの距離しか開けないで、並んで昼寝して、暑くて目が覚めると、トウマに抱き着かれてる、なんてことにももう慣れましたし。ソファに座ると、ぴったりくっついてくるのもいつものことですし。トウマに何されても気になりませんよ」
「本当に、何をしてもいいの?」
「はい。俺はかまいませんよ。トウマがしたい事なんでもしてください。死んでほしいとか、殺してほしいとか、一緒に住みたい、みたいな願いは聞けませんけど」
「僕のしたいこと、何でも受け入れてくれる?」
「ある程度は。俺は、トウマを拒みませんし、否定しません。居場所を失いたくないので。だから、トウマは、居場所を失いたくない俺の弱みに思う存分漬け込んで、好きなようにしてください」
「ありがと。ねえ、もうお腹空いてないんだ。お昼寝しよ?」
甘えるような弱々しい口調のトウマに、腕を引かれるままにユキマサは寝室へと向かった。トウマは、ユキマサを抱きしめながら眠りについた。近くにいることを確かめるように、どこにもいかないように、強く強く抱きしめながら。ユキマサは、帰らなければいけない時間になるまで、トウマの腕の中にいた。ほんのわずかに落胆を感じながら。
姉が死んでから、トウマの様子はガラリと変わった。以前は、距離感のバグった優しいお兄さんだった。姉がいなくなってからは、ユキマサへ向ける視線には、一抹の不安と悲しみが混じるようになった。距離もより一層近くなった。姉の死から4か月後には、トウマは仕事をやめて、ほとんど外に出なくなった。このころから、ユキマサへの依存が強くなっていった。ユキマサが一緒の時しか、よく眠れなくなり、ご飯も喉を通らなくなったそうだ。どうやら、ユキマサが離れて行ってしまう悪夢にうなされてしまうようだ。ユキマサは、弱っていくトウマを見て、この居場所ももうすぐなくなると直感した。
ユキマサの母親が消滅した日から、ユキマサはトウマの家に住むようになった。その日から、トウマは毎日よく眠れるようになり、ご飯もしっかり食べられるようになったことで、少し元気になった一方、ユキマサへの依存は深まるばかりだった。トウマは優しいお兄さんではあったが、ユキマサに向ける感情は、ユキマサの母親を彷彿とさせた。ユキマサは、トウマがしたいことを全部受け入れた。なんでも笑顔で受け入れた。最初は、ユキマサという存在をトウマの中で大きくして、離れられなくするためであったのだが、いつのまにか、それだけではなくなってしまっていた。ユキマサは、二人の暮らしを居心地よく感じていた。自分が必要とされているというのは、うれしかった。
だが、そのぬるま湯につかっているような生活は突然終わりを告げた。ほんのささいな、だが、ユキマサにとっては、トウマを切り捨てるのに十分な出来事が起きた。
この日も、二人は一緒にベッドで寝ていた。トウマがユキマサを後ろから抱きしめていた。ぼんやりと意識が浮上してきたユキマサは、もぞもぞと体をうごかした。特に意味はないが、なんとなく、時間を確かめようと思ったのだ。
体を起こそうと、トウマの腕からそっと抜け出そうとしたその瞬間、
「……ねえさん……」
とトウマは寝言でぼんやりと呟きながら、ユキマサを抱き寄せた。
ユキマサは、一瞬で目が覚めて、頭が恐ろしいほどにクリアになった。どう考えても男の体。寝る前まではきょうだいではあり得ないことをシていた。それなのに、どうして、その言葉を、ユキマサに向けて言うのか。一つの結論にたどり着いた。今まで目をそらしていた、わかりきっていたことから、目をそらせなくなった。
所詮、代用品でしかない。
ユキマサは、すぐに、この家を出ようと決意した。でも、その前にやることがあった。ユキマサはトウマを起こさないように、ベッドから降りると、トウマのスマホを確認した。自分のスマホかのようにすんなりとロックを解除すると、メッセージアプリを開いた。予想通り、正雪からの連絡が溜まっている。既読をつけるわけにはいかないし、そもそも内容に興味がないため、開かなかった。ユキマサは、再びベッドに戻ると、トウマの横で眠りについた。
トウマが目覚めると、ユキマサも目を覚ました。二人は、ベッドの上で上半身を起こした。ユキマサは、さっそく業務連絡をするかのように別れを告げた。
「トウマ、俺、この家、出ていきます。もう二度と戻りません。今までありがとうございました」
トウマは、今にも泣きそうな表情で、ユキマサの腕をつかんだ。ぎゅっと唇をかみしめて、目を潤ませている。
「なんで……」
と、トウマは一言、かすれる声で絞り出した。ユキマサは疑問に答えることはしなかった。
「とにかく、俺はここを出ていきます。もう誰にも迷惑は掛かりません。だから、我慢しなくてもいいと思いますよ」
「がまんってなに?」
「知ってますよ、俺。トウマが今でも、正雪への憎しみが強いってこと」
「そうだけど、なんで、いまさら、出てこうとするの。ふたりでここにいようよ。もうすこししたら、仕事ちゃんとするから」
トウマは何とか言葉を紡ぎ、縋りつくような目をユキマサに向けた。ユキマサはトウマを抱きしめた。すると、強張っていたトウマの体から、力が抜け、ユキマサのことをきつく抱きしめ返した。ユキマサは、口を耳元に寄せた。
「もう俺は死にます。あなたのことを縛ってしまってすみません。もう自由になっていいですよ。トウマは、自分がしたいことをしてもいいと思います。アイシテマスよ。さようなら」
ユキマサは、寂し気な悲し気な響きを含ませて囁くと、トウマの腕の中から抜け出し、適当に着替えて、家を出た。トウマの視線を感じながら、振り返ることなく、家を出た。ユキマサとトウマの関係は終わった。
この数日後、ユキマサは『なんでも屋』を訪れた。
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