焦りと限界

 ユキマサは走っていた。人目も気にせずに全速力で走っていた。非常に焦っていた。早く家に帰らなければならない。急いで帰らないと、母親が大変なことになってしまう。


 休日だったはずのユキマサはバイト仲間の代わりに午後のシフトに入っていた。ギリギリだが母親の帰宅時刻よりも前に帰れそうだったので承諾したのだ。それなのに、バイトが終わったのは、午後六時半ごろ。母親が帰ってくるのはだいたい六時ごろ。交代の人が一時間も遅刻して、仕事を放棄するわけにもいかず、帰るに帰れなかったのだ。なぜ今日に限って遅刻するのか。


 ユキマサは息を切らしながら、家の前に着いた。家に入る前に、息を整える。心臓がどくどくと立てているのは走ったせいだけではないだろう。母親の反応が恐ろしいのだ。女と一緒にいたところを見られたわけではないから、そこまではひどくならないと思いたいが、日増しに母親が不安をあらわにすることが増えているのだ。数年前よりも些細なことに不安を覚えているように感じる。


 深呼吸をしてから、覚悟を決めて玄関の扉を開ける。出来るだけいつも通りを意識して声を発する。ここで焦ったら母親に不信感を抱かれてしまうかもしれない。


「ただいま」


 どたどたどたと、母親が走ってユキマサに向かってくる。思いっきり抱き着かれてユキマサはよろけたが、何とか踏ん張って、倒れることは防いだ。危なかった。すすり泣く声が聞こえる。母親が胸に抱き着いて泣いているようだ。泣くことは想定内だったが、勢いよく抱き着かれるのは想定外だった。


「どうした? 大丈夫か」いつも通りを意識して声を出した。

「なんで、出かけてたの」

「バイト先のやつに頼まれちゃってさ、断れなくて。悪い。遅くなった」


 ユキマサは母親を強く抱きしめ返す。ここに自分がいることをしっかりと感じさせる。頼むからこれで落ち着いて欲しいと願う。きっと無理だろうけど、そう願わずにはいられなかった。


「それ、ほんと? 嘘じゃないよね」

「ああ。嘘じゃない。本当だ」


 母親の表情が見えなくて怖い。声だけでは母親の状態を正確に読み取ることは出来ない。


「なあ、部屋に入らないか? 玄関で立ったまま話すのもいいけどさ。部屋でゆっくりと話そうよ」

「わかった」

「靴脱ぎたいから、少し離れてくれないか」

「離れたら、どっか行っちゃうでしょ。昔みたいに」

「んなわけねーだろ」

「口では何とでも言えるわ。前だって、帰ってくるって言ったのに、帰ってこなかったじゃない」

「それは、悪かったけど、本当にどこにも行かないからさ、少し離れてほしい」

「やだ」

「そっか。じゃあわかった。両手つなごう。な、そしたら、離れられないだろ」

「……わかった」


 しぶしぶといった様子で母親が離れた。体を離してすぐに両手をつないだ。母親がしっかりと指を絡ませてきた。いわゆる恋人つなぎみたいな感じだ。はたから見れば滑稽な姿だろう。痛いくらいに握られて、離さないという意思がよく伝わってきた。


 靴を脱ぐと、母に手を引かれてリビングへと向かった。


 二人分の食事が並んでいる机。それを見てユキマサは少し安心した。まだ食事を作る余裕は残っていたようだ。部屋も荒れていない。


 机の前に二人で並んで座った。手は解放されていない。


「もう外に出ないで」

「それは無理だな」

「なんでよ。バイトなんてしなくていいからさ。私が養うから。お願いだからやめて」


 母親は必死に訴える。頑張ってバイトの許可をもらったのが台無しになりそうだ。ここからどうやって母親を普段の状態に戻せばいいのだろうか。いい案が思い浮かばず、ユキマサは心の中で頭を抱えた。


「悪い。それは出来ない。俺が、好きでやっていることなんだ」

「好きな女でもできた?」

「なわけないだろ。オレはヨリコだけだ。ヨリコだけが好きだ」

「じゃあなんでバイトなんてしてるの」

「はあ。本当は隠しておきたかったんだけど。ヨリコのためだよ」

「私のため?」

「そう。ヨリコのため。一緒に旅行でもどうかなって思ってたんだ」

「そうなの? “マサユキ”がそんなこと考えてるなんて信じられないわ。でも、本当だったら嬉しいわ」


 まだ疑われてはいるが、まだユキマサの声はしっかりと母親の耳に届いている。まだ声が聞こえているなら大丈夫かもしれない。ユキマサは畳みかけるように母親の言葉を掛けた。


「本当だよ。もちろん。今までたくさんいろんなことをしてもらったからな。感謝の気持ちくらいオレにだってあるさ」


 母親の表情が曇ってしまい、ユキマサは焦った。いったいどの言葉がいけなかったのかがわからない。


「それって、手切れ金ってこと? 今までのことに感謝はするから、今後は関わらないでくれって言いたいの? そうよ。そうに違いない。働いてまでわたしと別れたいのね」


 母親の言葉にユキマサは困惑した。こういう状態の母親にとって、どの言葉が地雷なのかが全くわからない。ちょっとしたことですぐに不安になる。“マサユキ”に対する信頼が非常に低いことが原因だろう。“マサユキ”はすぐに他の女のところに行ってしまうと母親は思っているようだ。実際の“マサユキ”が女遊びが激しい人間だったようだから、そう思ってしまうのも無理はない。


「そんなこと言ってないだろ」

「言ってなくてもわかるのよ。わかってるわ。私が面倒だから離れたいんでしょ。そうよね。私って面倒よね。それとも、お金が足りない? いや違うか。私との生活に満足できないのね。それとも、若い女の方が良くなった? それはそうよね。私はもう四十超えてるものね」


 母親が饒舌になる。ペラペラとユキマサが口を話す隙もないくらいに言葉を続ける。“マサユキ”の言葉を聞くのを怖がっているようにも思える。


 ユキマサはどうしたものかと考える。ここから軌道修正をするのは難しい。頭をどれだけ回転させてもいい案は浮かばない。でも、このまま放置しておくわけにもいかない。これ以上母親が取り乱してしまったらユキマサの命はない。


 ためらいはあったが、ユキマサは切り札を使うことにした。しょうがないと自分に言い聞かせる。それ以外に母親を黙らせる方法が思いつかなかったのだからしょうがないのだ。


 母とつないだままの手を引っ張り意識をこちらに向ける。そして、いつもよりも低い声で、苛立っていることを母親に伝えるように言葉を発した。


「なあ。そろそろうるせーんだけど」


 大きめの声を出したユキマサに、母はびくりとおびえた様子を見せて、ピタリと言葉を止めた。


「どうしたの? 急に」


 恐る恐ると言った様子の母親に向かってユキマサは舌打ちをした。さらに母親は怯えた。本当はこんなことしたくはないが、こうでもしなければ母親はユキマサの言葉を聞かないだろう。


「どうしたのって。なんで、オレの言葉を信じないんだよ。信じらんねぇんだな。俺のことなんて」

「ちがっ。そんなことは……」

「そんなことあるだろ。なあ」


 ユキマサはわざと大げさにため息をついた。


「わかった。もういいわ。この家出てくよ」

「まって! それはやめて!」

「無理に決まってるだろ。それに、オレがいない方が気楽だろ?」

「そんなことないわ!」

「あるだろ。現に今、オレに怯えてるだろ? なあ?」

「それは……」母親は唇をかんでうつむいた。


 ユキマサは緩んだ母の手をほどき、玄関に向かって歩きだした。


 「まって!」という母の悲痛な叫びが後ろから聞こえる。それを無視してユキマサは靴を履く。


「まって! 何でもするから!」


 ユキマサはぴたりと動きを止めた。だが、後ろは振り返らない。


「なんでも?」

「ええ。なんでもするわ。だから、お願い。出て行かないで」

「じゃあ、オレが外出してても文句は言うなよ」

「わかった」

「あと、布団は別々な。入ってこようとすんな」

「わかった」

「変なものを飲み物に入れるのは絶対にやめろ」

「わかった」

「今言ったことを一回でも破ったら、俺はここを出ていく。二度とお前のとこには帰らねーからな」

「……わかったわ」

「忘れるなよ」

「忘れない。絶対忘れないから。お願いここにいてよ」


 ユキマサは履きかけの靴を脱ぐと母の元へ向かい、彼女を強く抱きしめた。そして、出来るだけ優しくて、出来るだけ甘い声を心掛けて母に話しかけた。


「大丈夫。大丈夫だよ。ヨリコが約束を守るなら、オレはずっとここにいるよ。そんな震えないで。安心して。好きだよ」

「私も好きよ。だから、おいていかないで」

「もちろん。約束守ってくれるよな」

「もちろんよ。あなたがいてくれるなら」

「なら良かった。なあ、そろそろ晩飯食べないか? オレ、お腹空いたんだけど」ユキマサは体を母親から少し離すと、優しく微笑みかけた。

「そうね。食べましょ」


 母はそう言って笑った。その顔は涙でぬれていた。ユキマサは痛む心を見ないふりして、優しい笑みを浮かべ続けた。



 布団に入ったユキマサは、強い罪悪感と深い後悔に襲われていた。こうするしかなかったとはいえ、母を深く傷つける行為だ。そして、自分自身を傷つける行為でもある。


 この切り札は母親の反応を見て思いついた。半年ほど前、ユキマサの言葉を全然聞かない母親に、ユキマサは苛立ちを隠しきれずに態度に出してしまったことがある。その時、母はひどく怯えた表情を見せて、「ごめんなさい」とすがるような目で謝ってきた。その時は母親と一緒にいることに耐えられずにその場を逃げ出してしまった。


 後日、おびえた様子の母親を思い出して、これは使えるのではないかとユキマサは思った。母親はたぶん“マサユキ”の機嫌を損ねることを恐れている。あれだけ面倒な行動をしておいて、いまさら機嫌を損ねることに怯えるのかとユキマサは思った。異常なまでの“マサユキ”への執着は、捨てられたことがトラウマになっているからだろう。また次いつ捨てられるのかと不安で仕方がない母親は、他に目移りがしないように必死に“マサユキ”に尽くして自分が必要だと思わせ、束縛をして“マサユキ”が自分から逃げられないようにして安心しようとしている。


 つまり、“マサユキ”が母親を捨てるそぶりを見せれば、母親はユキマサの言うことを聞くのではないだろうか。そうユキマサは考えたのだ。同時に、出来ればそんなことしたくないとも思った。


 切り札の効果は絶大だった。母親にいくつかの要求をのませることができた。だが、副作用として母親の中の捨てられることへの恐怖心が強まってしまった。もう一度同じようなことが起こっても、もう今日と同じ手は使えない。もう一度捨てるそぶりを見せれば、母親がどうなってしまうのか想像がつかないからだ。今度こそ修復す可能なほどに壊れてしまうかもしれない。


 これで切り札はなくなってしまった。今度同じようなことが起こったら、どうすればいいのだろうか。ユキマサの声が届かなくなってしまったらどうすればいいのだろうか。何も思いつかない。


 ふいにムゲンの言葉が脳裏をよぎった。


『おかーさん、コロしちゃえば? そうしたら、楽になるよ』

 

 確かにそうだ。母がいなくなればこんなに苦しい思いをしなくてすむ。今すぐにでもムゲンに縋りつきたい。でも、ユキマサには出来なかった。母親を捨てる選択にまだ踏み切れずにいる。なぜなら、ユキマサは今でも希望が捨てられないのだ。いつの日か昔のような母に戻って、昔のような生活に戻れるのではないかという淡い期待を、どれだけひどい状態の母親を見ても、どれだけ限界を感じていても、希望を捨てられない。


 まだ大丈夫。


 そう自分に言い聞かせながら、ユキマサは眠りについた。








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