母親と狂った日常

「ただいま」と母親は仕事の疲れを感じさせない笑顔で言った。しっかりとユキマサの顔を見ている。


 母親の声と表情が暗くないことにひとまず安心した。ユキマサは母親の精神状態を声や表情から判断している。母親の表情と声色が暗い日。精神状態があまり良くないことを読み取った日は、ユキマサは普段よりも母親の顔色を伺いながら慎重に言動を選択しなければいけない。


「おかえり、ヨリコ」


 芝居がかった口調と表情で、ユキマサはまるで恋人のように母親に声を掛けた。


「“マサユキ”! 今日も家にいてくれて嬉しいわ!」


 母親はユキマサのことを“マサユキ”と呼んで、満面の笑みを浮かべた。そして、靴を脱ぐと、ユキマサに思いっきり抱き着いた。母親の行動を予測していたユキマサはよろけることなく受け止め、しっかりと抱きしめ返した。母親に目の前にちゃんとユキマサがいると伝えるために。


 もし母が抱き着いてきたにも関わらず拒絶したり、抱きしめ返さなかったり、抱きしめ返す力が弱すぎたりした場合、母親の機嫌は急降下する。それをユキマサは経験上よく知っている。


「ちゃんとお前のそばにいるよ。お前を置いてどっかに行くわけないだろ」ユキマサは母親の耳元で囁くように言った。「あのさ、オレ、お腹空いてるんだけど。晩飯作ってくれない?」


「そうよね、お腹空いてるわよね。今から作るわ。ちょっと待っててね」


 母親は名残惜しそうにユキマサから離れると、急いでキッチンに向かた。


 ユキマサは母親のお出迎えを成功させたことにひとまず安心した。だが、気は抜けない。言動をひとつ失敗するごとに、母親の機嫌が少しずつ低下していく。塵も積もれば山となるので、母親の相手をするとき、ユキマサは細心の注意を払って言葉や行動を選んでいる。失敗が重なれば、命の危険が訪れることも無きにしも非ずなのだ。


 ユキマサはリビングで夕食ができるまで待つ。スマホは持たず、ただ座って何もせずに待つ。スマホを持っている姿が母親の視界に入ってしまうと、日によっては、母親の機嫌が悪くなる。一度スマホを取られて、母親以外の連絡先を消されそうになったことがあり、それ以降、ユキマサは母親の目が届くところでスマホに触らないようにしている。


「“マサユキ”、ご飯できたわよ」


 キッチンから母親の声がした。ユキマサは適当に返事をする。


 母親がユキマサの前の机に夕食を運んでくる。机の上にはオムライスが二つ並んだ。


 ユキマサの前のオムライスには赤い文字で“マサユキ♡”と書いてある。ユキマサはじっくりとその文字を見る。ちゃんとケチャップで書いてあるように見える。母親の手にも特に包帯やばんそうこうは見られない。食べても大丈夫そうだ。


「さて、食べるか」


 ユキマサは目の前に置かれたスプーンを手に取る。


「あ、ちょっと待って」と言って母親は、ユキマサが食べ始めようとしたのを止めて、ケチャップを差し出した。「これで、私のオムライスにも何か書いて欲しいんだけど」と少し恥じらいながら、母親はユキマサに頼んだ。


 ユキマサはめんどくさそうな空気を醸し出しながら「しょーがねーな」としぶしぶケチャップを受け取った。


 そして、目の前に移動してきた何も書かれていない黄色の上に、“ヨリコ”と母親の名前を、少し汚い字を意識してユキマサはケチャップで書いた。母親はその様子を目を輝かせながら見ている。


 ユキマサが完成したオムライスを渡すと、母親は嬉しそうに微笑んで「ありがとう、“マサユキ”」と言った。


「じゃあ、食べましょ」

「そうだな」


 二人はオムライスを食べ始めた。母親に感想を聞かれて、ユキマサは“マサユキ”っぽさを意識した回答をする。母親に適切な回答に頭を回転させながらの食事に、ユキマサは味を感じることができない。最後にユキマサが母親の手料理を味わって食べることができたのは、もう何年も前のことになる。


 母親の表情、声色、行動、言葉遣いなど、ありとあらゆることをユキマサは注意深く観察しつつ、母親に不審に思われないように見すぎず、食事の手を止めないことも意識して食べ続ける。ユキマサはこれをもう5年近く続けている。最近は慣れてきたがストレスであることには変わりない。日々のストレスは確かにユキマサをむしばんでいる。


 母親の表情が笑顔のまま、無事に夕食を食べ終わった。


「ごちそうさま、おいしかった」笑顔でユキマサが感想を述べる。

「ありがと。“マサユキ”にそう言ってもらえると嬉しいわ。これからも頑張って作るわね」母親は嬉しそうにはにかみながら言った。「これから、食器を洗ってから、お風呂に入ってくるけど、勝手に外に出ないでね。いい、絶対に私がいない間にどっかに行っちゃわないでね。できるだけ急いで終わらせるから、待っててね」

「出かけるわけないだろ。ちゃんと待ってるから、急がなくていいぞ。ゆっくりしてきな」


 ユキマサの言葉に母親の表情が曇る。


 不安をにじませた表情で詰め寄ってくる母親に、ユキマサは困惑を表情に出さないように努めた。


「ねえ、『ゆっくりしてきな』って、私が邪魔だから。一人にしてほしいってこと?」


 母親が思わぬ言葉に引っかかったことにユキマサは呆れてしまい、返事をするのが遅れてしまった。そのため、さらに母親の不安が増してしまった。


「何にも言わないってことは、私が邪魔なんだ」「違う」ユキマサはとっさに口をはさんだが、効果はなかった。さらに母親が言葉を続ける。「口では何とでもいえるわよ。私は、“マサユキ”との時間を増やしたくて、急ぐって言ってるのよ。なのに、“マサユキ”は、『ゆっくりしてきな』なんていつもは言わないようなことを言う。まさか、他に女ができたんじゃないでしょうね。私がいると、連絡できないから、とっととどっか行けってことなの?」段々と母親の声が低くなっていく。


 ユキマサは『ゆっくりしてきな』なんて余計な言葉を言った少し前の自分を恨み、言動には細心の注意を払うことを再び肝に銘じた。


 後悔していてもどうしようもないので、ユキマサはこの状況を乗り切る言葉を探しながら、母親が再び言葉を発する前に口を開いた。これ以上母親に言葉を吐かせたら、さらに状況が悪化するのは目に見えている。


「待て、まず一つ、これだけは言っておく。オレに女はヨリコ以外いない。今も、これからもお前だけだ」母親の目をしっかりと見つめながらユキマサは言い聞かせるようにゆっくりと言った。

「ほんと?」

 ユキマサは自分の言葉が母親に届いていることがわかったため、さらに言葉を続けて、母の機嫌の回復を図る。

「ああ、本当だ。それと、ゆっくりって言ったのは、ヨリコためだ。急いで食器洗ったら、お皿割って怪我するかもしれない。それに、風呂ぐらいゆっくり入れ。仕事の疲れちゃんととってこい。あと、家で少しはゆっくりしろ。たまには休まないと倒れるぞ。それは、オレが困るんだ」ユキマサは『オレが困る』という言葉を意識して強調した。

「こまる?」

「そうだ。オレの身の回りの世話するのは、ヨリコの役目だろ。お前がいなくなったら、本当に他に女を作らなきゃいけなくなる」

「それはダメ!」母親は焦ったように言った。

「だろ? なら、風呂でくらいゆっくりしてこい」

「……わかった。私絶対に倒れないから、“マサユキ”は他の女に目移りしないでね」

「ヨリコが倒れない限りは大丈夫だ」

「じゃあ、行ってくるね。好きよ、“マサユキ”」

「オレも好きだ。待ってる」


 母親はユキマサの返事を聞くと、食器をもってキッチンに向かった。


 母親の表情からは不安が消え、いつもの表情に戻ったことにユキマサは安心し、母親に悟られないように、ゆっくりと息を吐きだした。


 ユキマサがどれだけ言葉や行動に気を付けても、ユキマサが想像もしていないことに母親は不安を表す。そのうえ、母親が嫌がる言動は日によって異なるため、完璧に母親の機嫌を損ねないことは不可能なのだ。だからユキマサはほぼ毎日、不安を示す母親を宥めている。母親をまるで恋人のように扱うことに抵抗がないわけではなく、むしろユキマサにとっては苦痛である。


 母がいない一人の時間、ユキマサが自宅で唯一休める時間に、ほっと一息ついていると、母親が風呂から上がってくる音がした。ユキマサは緩んでいた気を引き締めなおす。母親が寝るまでは気を抜いてはならない。


 母親が風呂から上がった後、母親が眠りに落ちるまでの時間が、ユキマサにとっては一番の地獄の時間であり、一番気を抜いてはいけない時間である。母親に適切に対応しなかった場合、ユキマサの精神の崩壊と生命の危機が訪れるのだ。


 母の足音が近づく。母親に聞こえないように、ユキマサは深呼吸をする。


 髪が濡れたままで肩にタオルを掛けた母親がリビングに現れる。


「お待たせ、“マサユキ”。なんか飲む?」

「その前に、髪乾かせよ」

「でも、喉乾いたかなと思って」

「なんか飲みたいとは思う」

「じゃあ」

「でも、先に髪乾かせ。風邪ひくぞ。オレが自分の分とヨリコの分のお茶入れとくから」

「そこまで言うなら、わかった」


 母はしぶしぶといった様子で髪を乾かしに行った。ちなみに、この風呂上がりの母親とユキマサの会話は毎日繰り返されている。母親は“マサユキ”に優しくされると不安になるくせに、心配されることが好きなのかもしれないと、ユキマサは思っている。毎日毎日面倒くさいとは思うが、このやり取りで母親の精神状態が安定することに加えて、ユキマサにもメリットがあるため、毎日同じようなやり取りを続けている。


 母親が髪を乾かしている間に、ユキマサはグラスを二つ取り出して、そこに麦茶を注ぐ。


 ユキマサが飲み物を自分で用意できること。


 これが、ユキマサにとってのメリットである。


 寝る前の飲み物は絶対にユキマサが自分で入れると決めている。絶対に母親に飲み物を入れさせてはならないし、目を離すこともユキマサは極力しないようにしている。なぜなら、ユキマサは一度、母親に変なものを飲まされそうになり、家出したことがある。母親曰く『元気になる飲み物』を飲まされそうになった後、ユキマサは母親ともう二度と変なものを飲ませないと約束したが、完全に信用は出来ない。


 髪を乾かし終わった母親が戻ってくる。母親は机の上にお茶が入った二つのグラスが置いてあることに、少し大げさに感謝を示し、嬉しそうにする。


 寝る前は、母親の話を聞く時間だ。ユキマサは母親の顔色を伺いながら、適切な相槌を打つ。この時間は、ユキマサがしゃべることは少ないので、他の時間に比べれば落ち着ける時間ではある。


 母親の話に耳を傾けながらも、時計を確認する。


 いつも布団に入る時間になる。あと少しで今日が終わる。


「ヨリコ、そろそろ寝よう。オレ、もう眠い」ユキマサは眠そうにあくびをした。

「そうね、明日も早いからそろそろねようかしら」


 二人で寝室に向かう。朝から敷きっぱなしの二つの布団。その距離はわずかだが、離れている。親子として暮らしていた時には全く気にならなかったが、恋人として扱われるようになったら、ユキマサは布団の距離が近い事が気になるようになってしまった。別々の部屋で寝たいが、母親はそれを絶対に許さないだろう。


 今は母親とユキマサが別々の布団で眠れることに感謝しなければならないのだ。同じ布団で寝たいという母親を何とか言いくるめて別々の布団で寝る権利を勝ち取った過去のユキマサに。


「じゃあ、おやすみ、ヨリコ」

「うん。……ねえ、朝起きたらいなくなってる、なんてことないわよね」

「もちろん。もう眠いんだから出かけるわけないだろ」ユキマサは面倒くさそうに、眠そうに言った。

「そうよね。おやすみ」


 母の言葉が止んでから数分後、母親の落ち着いた寝息が聞こえてきて、ユキマサはほっとした。日によっては母親が寝るまでに結構な労力を要するのだ。そういう時はどれだけ眠くなっていても言葉選びを慎重にしなければ、ユキマサの精神と生命の危機が訪れるので、眠くて鈍くなった頭を頑張って働かせる。これがまた大変なのだ。


 いつもなら、ユキマサは一日を無事に過ごせた安心ですぐに眠りに落ちるところだが、この日は『なんでも屋』が頭から離れず、ついいろいろと考えてしまった。


 ユキマサは“マサユキ”を演じ始めたときと比べて、格段に“マサユキ”を演じることが上手になったと感じている。これは、母親から笑みが消える回数が減っていることから、ユキマサの思い込みではないと言える。平穏な日々を送る上で、これは喜ばしい事なのだが、ユキマサは素直に喜ぶことがどうしてもできなかった。


 ユキマサは“マサユキ”という人間をよく知らずに演じている。不安に陥った時に母親がユキマサに放つ言葉から、“マサユキ”という人間を推測して、演じている。


 ユキマサの“マサユキ”に関する知識とイメージは次のようなものである。自分の父親で、母親が妊娠したときに逃げた、女を金づるとしか思っていない癖にモテる女たらしのクズ。だから、ユキマサはクズっぽい言動を心掛けている。母親にそんな風に接するのは、いい気持ではない。


 そもそも、母親が息子であるユキマサを恋人だった“マサユキ”だと認識するようになった原因はユキマサにあるのだ。少なくともユキマサはそう思っているため、母の望む行動をとり続けている。


 ユキマサが中学三年生の時、母親と言い合いになった。音信不通になった“マサユキ”がいつか必ず帰ってくると信じることで、何とか精神を保っていた母親に、ユキマサは言ってはいけない言葉をぶつけてしまったのだ。その言葉は、母親の心の支えを真っ二つどころか、粉々にするのに十分だった。さらに、ユキマサの顔が“マサユキ”によく似ていることも相まって、どういうわけか母親はユキマサを“マサユキ”だと誤認することになってしまった。


 ユキマサは自分のことが許せない。自分が余計なことを言わなければ、いつまでも母親と息子の関係でいられたかもしれないのだ。母を狂わせてしまった罪悪感と、責任を感じて、母親と恋人ごっこの茶番を続けている。


 この誰の得にもならない茶番を、この日常と化してしまった『日常』を、ユキマサはいつか終わらせたいと思っている。ユキマサが一人でこの狂った日常から出ていくことは簡単だ。だが、それではユキマサの心が本当の意味で解放されることにはならない。それどころか、母親に対する罪悪感がさらに膨れ上がって、押しつぶされてしまうだろう。


 母親を妄想の世界から助け出して、現実の世界に連れ戻さなければ、本当の意味で二人は救われない。


 ユキマサは、いつか母親が元に戻ると信じることで、日々を乗り切っているのだ。


 そんなギリギリの生活を行っているユキマサの前に『なんでも屋』という得体のしれない、非日常の空気を感じる光が現れた。相談してみたら、解決してくれるかもしれないと、ユキマサは根拠もなく思ってしまった。『殺し屋』という文字をためらいもなく張り紙に書くくらいに日常から外れた存在にしか、この歪みにゆがんだ親子の日常を壊せないのではないだろうか。


 ユキマサは藁にも縋る思いで『なんでも屋』に最後の望みを託して、ゆっくりと眠りに落ちて行った。

 




 



 



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