目を引かれた張り紙
ユキマサは家の外に出ると、カバンから取り出した眼鏡をかけた。すると、心なしか彼の表情が柔らかくなった。
家から出たら眼鏡をかける。これは高校の時からの習慣である。目が悪いわけではない。むしろ視力はいい方で、眼鏡に度は入っていない。眼鏡を掛けることは、ユキマサにとって、自分が自分であると認識するために重要なことだ。家の中の自分と、外の自分を分けるための行為。眼鏡を掛けると息がしやすくなる気がするのだ。彼にとって眼鏡はお守りであり、心の支えである。
バイト先へはいつも徒歩で向かう。片道徒歩40分の道のり。今日のように雲一つなく日差しが強い夏は歩くのが辛い。今はまだ7月下旬。夏はまだまだ終わりが見えない。ユキマサが高校を卒業してから二年と数か月。フリーターになってから3年目。週に3日、午前10時から午後3時まで駅前のコンビニでアルバイトをしている。バイト代は昼食代以外に使い道はなく、ほぼすべてを貯金に回している。現在のところ使う予定はなく、貯まっていく一方だ。
ユキマサは母親と実家でのアパートで2人暮らし。家賃、光熱費、食費などの生活費はすべて母親が出している。そのうえ、家事もすべて母親がやっている。これはユキマサの本意ではない。本当は彼も生活費や家事を負担したいと思っている。母親の負担を少しでも減らしたいのだ。だが、母親はユキマサの申し出を断固として受け入れないばかりか、お金のことや家事のことを気にすることすら許さない。
ユキマサはいつも駅の近くの人気のカフェの前を通る。開店前かつ平日であるので、そのカフェはまだ空っぽだが、営業時間中は空席がないほど盛況だ。興味がないユキマサはいつも素通りする。だが、この日はピタリと足を止めた。ただし、超人気カフェではなく、その隣の建物の前で。
ユキマサはその怪しげな建物の扉に貼ってある紙に目を奪われた。ユキマサの記憶では、前日まではなかった張り紙。いや、もしかしたら、ユキマサが気が付かなかっただけで、ずっとあったものかもしれない。
張り紙には次のような文章が書かれていた。
『 なんでも屋 あなたの欲望叶えます
気軽に相談してください(相談のみも可)
代価は依頼内容次第で店主が決定します
*欲望を叶えた結果はすべてはあなた次第です
殺しの依頼は殺し屋に仲介します(仲介料は請求します) 』
張り紙に書かれている内容からユキマサは目が離せなかった。『殺し』とか『殺し屋』などといった、駅近くの人通りが多い道沿いに張り出すのにはふさわしくないような言葉に引っかかったわけではない。『相談』という、いたって普通の言葉に惹かれたのだ。物騒な言葉に驚かなかったわけではないが、『相談』という言葉に足を止めてしまった。
中の様子を見たいが、窓が無くて『なんでも屋』の中を見ることは出来ない。多くの人は怪しいと思い入るのをためらいそうな店だ。だが、ユキマサは今すぐにでも中に入ってみたいと思った。彼には誰かに話したくても、そこら辺の普通に生活している人間には話すことができないことがあった。『殺し屋』に伝手があるような怪しい人間の方が話しやすい。少なくとも、倫理観がしっかりとした、常識というものを持っている人間には絶対に話せない。
ユキマサは一筋の光を見つけたような気がした。もしかするとこの『なんでも屋』が自分の最低な日常を変えてくれるかもしれないと漠然と思った。得体のしれないモノに縋りたくなるほどに、ユキマサは今の生活からの出口を探している。
ユキマサは『なんでも屋』の扉に手を伸ばしたが、ドアノブに手がかかる直前で、手を止めた。バイトの存在を思い出したのだ。途端に、周囲の雑音が耳に入ってくる。人々の足音、話し声、車の音。一気に現実に引き戻されてしまう。
明日はバイトがない。『なんでも屋』を訪れるのはまた明日にしよう。ユキマサはそう決めた。
バイト先に向かおうと一歩足を踏み出そうしたとき、ユキマサの足元をオレンジ色の毛の猫がピュッと横切った。突然のことに慌てて足を引っ込めた。少しよろけた。
あの猫もあんなに俊敏に動けるんだなとユキマサは少し驚いた。猫なのだから動けて当然なのかもしれない。でも、あの猫がピュッと動けるとは思ってなかった。たまに見かけるとき、あのオレンジの毛色で、紫の首輪をつけた猫はカフェの前の椅子の上で怠惰に日向ぼっこしているから、怠惰な猫という印象を抱いていた。素早く動くオレンジの猫を見て、いつもとのギャップに少し驚いた。
バイトのことを思い出したユキマサは、いつもよりも早足でバイト先のコンビニに向かった。張り紙と猫のおかげでずいぶんとタイムロスをしてしまった。『なんでも屋』に後ろ髪を引かれながらも、なんとかバイトの方に気持ちを切り替えた。
普段よりもバイト先に着く時間が遅くなってしまったが、シフトには余裕で間に合う時間だったので安堵した。
バックヤードには同じ時間にシフトに入る女性、小林がいた。彼女はユキマサに気づいて、スマホから目を離し、「おまようございます」とユキマサの方を見て愛想よく挨拶をした。
小林とはたまにシフトが被る。年齢が同じで、そのせいか言葉を交わすことが多いので、他のバイト仲間に比べると、親しい間柄だ。親しいと言ってもバイト以外で顔を合わせることはないが。
ユキマサは小林に挨拶を返すと、制服を着始めた。
「
小林はユキマサが制服を着終わったタイミングを見計らって話しかけた。
ユキマサは小林の方を見て、「どうしたの」と優しく問いかけた。ユキマサは顔が冷たい印象を与えることが多いので、出来るだけ口調を優しくするようにしている。眼鏡を掛けているときはより冷たい人間だと思われてしまうので、より優しい雰囲気を意識して話している。
「この間は、シフトを代わっていただいて、ありがとうございました」
小林は頭を下げた。しっかりと感謝を示す小林の礼儀正しさに、以前からユキマサは好感を持っている。だが、それを表に出さないように、あくまでも同僚であることを意識して返事をした。
「そんなにしなくても大丈夫ですよ。お役に立てたようでよかったです。俺はいつも暇ですから、いつでも頼ってくださいね」
小林は安心したように顔を上げた。
「ありがとうございます。そういえば、金頼さん、今日いつもよりも遅かったですね。何かありましたか?」
「そうですね、実は、ここに来る途中で気になるものがあって、少し足を止めてしまって」
「気になるものですか?」
「はい、気になるお店を見つけまして、目を奪われていました。つい入ってみたくなったんですよね」
「そうなんですね。どんなお店ですか? よければ一緒に来ますか?」
「いえ、そこは一人で行きたいのでお断りします」
「そうですか」と小林は残念そうに言った。そして、気を取り直したように、ユキマサに笑顔で話しかけた。ユキマサの方が背が高いため、自然と上目遣いになっている。
「あの、代わりと言っては何ですけど、駅の近くのカフェに一緒に生きませんか? あのお店に金頼さんと一緒に行ってみたいって思ってたんです」
「行きたいのは山々なのですが、すみません。一緒に行けません」
ユキマサは申し訳なさそうに小林の申し出を断った。小林は一瞬残念そうな表情をしたが、すぐに明る表情に戻した。
「わかりました。急に変なこと言ってごめんなさい」
「いえ、謝るようなことではありませんよ。……そろそろ、時間ですね。小林さん、先に入っててください。すぐにいきますから」
「わかりました」
ユキマサは小林から好意を向けられていることに気が付いている。そしてユキマサも小林には少し好意を持っている。だが、ユキマサは小林とバイト以外で関わらないようにしている。なぜならユキマサは恋人を作るつもりがないからだ。小林に希望を持たせるようなことは出来ない。あまり話すのも良くないと思っているのだが、一緒に働くうえで会話を拒絶することは出来ない。そんなことをしたら、気まずくなり、一緒に働きづらくなってしまう。仕事に支障が出てしまうのは避けなければならない。そろそろバイト先を変更する時期なのかもしれないと、ユキマサは最近考えている。
いつも通り、午後3時にバイトを終える。制服を脱ぐと、ユキマサは足早にバイト先を後にした。
朝に通った『なんでも屋』の前を通るとき、ユキマサはちらりと視線を向けただけで足は止めなかった。平穏な日常を送るためには早く家に帰らなければいけないのだ。
ユキマサは自宅の前に着くと、まずは眼鏡を外してカバンの中にしまう。絶対に眼鏡をつけたまま家に入ってはいけない。そして、深呼吸を一つしてから、扉をガチャリと開ける。
「ただいま」
返事はない。まだ母親が帰ってきていないようでユキマサはほっとした。毎日ユキマサは家に帰ると、母親の不在を確認している。ユキマサは母親の予定を把握しているのだが、もしかしたら予定よりも早く帰ってきているかもしれないという不安がぬぐい切れない。母親が帰ってきていないことを確かめないと安心できないのだ。
ユキマサの住む家はキッチンとリビングと寝室がある。狭いボロアパートだ。
ユキマサはカバンを寝室の隅の定位置に置くと、棚から下着を取り出す。脱衣所で身に着けていたものをすべて脱ぐと、洗面所においてあるかごに入れて、風呂に入る。さっとシャワーを浴びると、バスタオルで体をふき、下着を身に着け、髪を軽く乾かす。寝室に行き、棚からシャツとズボンを取り出して身に着ける。さらに、ゴールドの細いネックレスと指輪を身に着ける。さながらこれから外に遊びに行く人間のような格好だが、決して出かけるわけではない。
以上が、母親が帰ってくる前にユキマサがやらなければならないことである。
ユキマサの母親は、ユキマサから香水のにおいなどの外の匂いがすることをひどく嫌う。だからユキマサは、家に帰るとすぐにシャワーを浴びて外でついてしまったかもしれない匂いを落とし、使い慣れたシャンプーやボディーソープの匂いをまとう。これをしなければ、母親の機嫌が若干悪くなる。ユキマサにとっては母親の機嫌を取ることほど骨が折れることはないので、できるだけ母親の機嫌を損ねないように行動している。
母親の機嫌を損ねないように行動することが最優先事項。だからユキマサは就職できない。就職してしまったら、母親よりも遅く家を出て、母親よりも早く家に帰ることも、母が帰る前にシャワーを浴びることもできない。だから、ユキマサはフリーターをしている。アルバイトだと時間の融通が利くから。実家を出て一人暮らしをすれば、母親の顔色を伺う生活からおさらばできるのだが、ユキマサにはそれが出来ない。母親を見捨てるようでどうしてもできないのだ。母親がおかしくなってしまったのは自分のせいであるというユキマサの中にこびりついている罪悪感。いつか母親が元に戻るかもしれないという淡い期待。これらが、母親から離れることを難しくしているのだ。
玄関のかぎが開く音がした。ユキマサの母親が帰ってきた。毎日毎日、この瞬間はひどく緊張する。何年たっても慣れない。
ユキマサは深呼吸をしてから、母を出迎えるために玄関へと向かった。
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