驚きの出会いと『なんでも屋』への報酬

 ユキマサの母親が消滅してから約三か月後、季節は秋になろうとしている。久しぶりにユキマサは『なんでも屋』を訪れた。報酬を支払うことなく、けっこう長い期間があいたにもかかわらず、ムゲンは普通に迎え入れてくれた。ムゲンは相変わらず、ごちゃっとしたカウンターの中で、本を読みながらふんぞり返っている。今日はカウンターに足をのせていないようだ。足の代わりにカウンターの上では、猫が丸まって気持ちよさそうに寝ている。


 ユキマサはムゲンの正面の椅子に座ると、猫に目を奪われた。どこかで見覚えがある。紫色の首輪に、オレンジの毛色。ユキマサは『何でも屋』を見つけた日のことを思い出した。ユキマサの足元を横切ったオレンジの猫。よく隣のカフェの前の椅子で丸まっている猫。あの猫は『なんでも屋』の飼い猫だったということか。


 そして、目の前の猫の紫色の首輪。トワが首に着けていたものと同じもののように見えた。トワの容姿を思い出してみると、猫の毛色とトワの髪色もよく似ている。太陽のようなオレンジ。


「なあ、光がない目で、無表情で、そこの丸まってる奴を見つめてるけど、その猫気になる?」

「はい、なんか見覚えがある気がして。ムゲンが飼ってるんですか?」

「そーだよ。俺が拾ったんだ」


 正直以外だ。ムゲンが捨て猫を拾うような人に、ユキマサには思えなかった。気まぐれで拾うことはあるかもしれないが、ちゃんと猫を飼うことができるような性格には見えない。


「俺がネコを拾うなんて、意外だって思っただろ」

「思いました。ちゃんと世話できるようには見えません」

「だよね~、俺もそう思うよ。なんとなく拾っちまったんだ。雨の日に、震えながら、足にすり寄ってきた。ヒトリって、なんか、さみしーって思ったから、ちょうどいいかなって思ってさ」

「寂しかったんですか」

「そうかもしんねぇし、違うかもしんない。俺にはわかんねえよ」

「そうですか。あの、この猫、なんて名前なんですか?」

「こいつはねぇ、トワって名前だ。トワって、永遠って意味らしいからつけた」


 ユキマサは思わず「え」と声に出してしまった。聞き覚えがありすぎる名前。以前、『なんでも屋』で出会った青年と全く同じ名前なのだ。彼と猫の共通点は多い。髪の色、首輪、そして、名前。まるで同一人物であるかのようだ。


 猫がもぞもぞと動き出した。背を伸ばして、あくびをした。人がいる気配を感じたのか、ユキマサの方を向いた。そして、ニャーと、どこか嬉しそうに鳴き声を上げた。


「ああ、そっか。お前、知らねぇもんな。おい、トワ。お前のことを教えてやれよ」


 オレンジの猫はムゲンの方を向いて、返事をするようにニャーと鳴くと、ピョンッとカウンターから飛び降りた。床に降り立つときには、猫の姿ではなく、青年の姿に変化していた。ユキマサは驚きすぎて、声を発することができなかった。目の前で起こったことに、あまりにも現実味が無さ過ぎて、自分の目を疑った。非現実的で、まるで夢の中にいるようだ。猫が人型に変身するなんて、小説や漫画の世界でしかありえないことだと思っていた。正直、今でも信じがたい。


 固まって動かないユキマサを、トワは不思議そうに眺めている。そして、ムゲンは声を上げて笑っている。大爆笑だ。目に涙を浮かべている。


「ねえ、ムゲン、なんか、ユキくん固まっちゃった」

「そりゃあ、目の前で猫がいきなり人型になったら、びっくりするってもんだぜ。でも、ここまで、文字通り固まるとは思わなかったがな」

「へー、そういうものなんだね。知らなかった。だから、外で変身しない方が良いって言ったんだね」

「ああ、そうだ。つーか、お前、そこで固まってる奴のこと、ユキくんって呼んでるんだな」

「うん。なんか、ユキくんって感じしたんだ」

「ふーん」


 ムゲンはユキマサの近くで手をパンっと叩いた。目をぱちくりさせると、ユキマサはムゲンの方を見た。


「おい、ユキ」

「……あ、はい、なんでしょう」

「なあ、ユキ。お前の隣に突っ立てるアホがトワだ。知ってると思うが。俺の飼い猫だ。拾って数日家に置いたら、そこらへんに置いて来ようと思ってたんだけど、なんかなつかれちゃって、今に至るんだ。すばしっこい猫だから、飼ってやってもいいかなって思ったけど、でも、だいぶ、あほで、困った。でも、ある程度使えるからここに置いてる」

「そうなんですね。確かに、普通の猫だと、ムゲンに飼育は出来なさそうです」

「わかってるねぇ。おい、トワ。もうネコに戻っていいぞ。眠いでしょ」


 トワはあくびをすると、「わかった」と言って、猫の姿になり、再びカウンターの上で丸まって、眠りについた。


「なあ、ユキ。報酬くれるから、今日ここに来たんでしょ」

「はい。一応そのつもりで来たんですけど、今、手持ちが何もなくて。金目の物なら、知り合いの家から持ってくればいくらでもあるんですけど……」

「いや、そういうのいらね。俺が欲しいのはね、お前だよ」

「えっと、どういうことですか?」ユキマサは困惑をあらわにした。

「だから、ユキという人間を貰いたいってことだよ」


 ユキマサはいまいち理解できなかったが、了承するしかなかった。いま、ユキマサは何も持っていない。お金は全部レオにあげてしまったし、私物はすべて実家に置いてきた。だから、渡せるものといったら、ユキマサ本体しかない。価値があるかどうかはわからないが。


「あの、具体的に、どういうことか教えて欲しいです」

「えー、まあ、いいよ。しょーがねー。一番してほしいことは、この家の片づけ。俺も、もちろんトワも片付けできなくて、だから、この有様になっちゃったの。だから、家事全般ができる人をさがしてて、お前、家事出来るっつってたからちょうどいいなぁって思った」

「そういうことならわかりました。俺にもできそうです」

「まあ、お前に拒否権ねぇけどな」

「拒否するつもりはないです」


 ユキマサは少し困惑した。ユキマサが想像していたよりも、簡単すぎることを依頼された。もっと無理難題を要求されるのではと、少し怯えていたのだが、杞憂に終わった。


「ところでさー、この後どうするつもりだったの?」

「生きてく場所も気力も意味も無いので、死ぬつもりでした」

「やっぱりそうだよねぇ。俺が想像してた通りだ」

「わかってたんなら聞く必要ありませんよね」

「えー、答え合わせって必要だよ。俺の推測が正しいとは限らないでしょ」

「確かにそうかもしれませんけど、ムゲンは自分の考えが正しいって疑ってませんよね」

「もちろん」

「やっぱり聞く必要なかったですよね」

「うんそうだね」

「どっちなんですか」

「さあね。ところで、正雪死んでるけど、どうやってやったの?」


 どうせムゲンは、答えがある程度分かっている。それでも、ユキマサの口から聞きたがるのは、ユキマサの視点からの話を知りたいからだろうか。それとも、思い出しながら話しているときのユキマサの感情の動きを見たいからなのか。ユキマサには拒む理由もないので、正雪の死について、ユキマサが知っていることを話すことにした。


「正雪の結婚相手の弟のトウマが実行犯ですよ」

「ふーん。で、お前は、そのトウマってやつに何を言ったのかな」


 ムゲンは好奇心に満ちた目でユキマサを見た。実行犯には全く興味はないようだ。そんなわかりきってることではなく、ユキマサが何をしたのか、という未知の部分が気になっているらしい。


「別に、大した言葉を掛けてませんよ。ただ、『我慢しなくてもいいと思いますよ』って言っただけですよ」

「違うね。もっとなんかしたし、なんかいった」

「えっと、トウマが俺にしたいとおもっていること全部させてやって、俺はトウマが望む言葉を掛けて、トウマが望む行動をして、トウマの中の俺の存在を大きくしました。面白いほど簡単に俺におぼれちゃいました」

「でも、けっこう時間かかったじゃん」ムゲンは意地悪そうに言った。

「それは、気にしないでください。で、この前、『俺はここを出ていきます。もう誰にも迷惑は掛かりません。だから、我慢しなくてもいいと思いますよ』って言いました。すがるような目で見てきたので、耳元で『もう俺は死にます。あなたのことを縛ってしまってすみません。もう自由になっていいですよ。トウマは、自分がしたいことをしてもいいと思います。アイシテマスよ。さようなら』って、寂しそうに言って、家を出ました」

「あははっ、オモシロ。やっぱ最高だね、お前。ねえねえ、普段から、いろいろしてたの?」

「彼が正雪への恨み言を言うたびに、否定することなく、同調する態度を意図的に見せました。恨みを忘れてもらっては困るので、多少、俺も、正雪への恨み言は言いました」

「うわ、こわー。かわいそー」心がこもっていない。


 言葉とは裏腹に、ムゲンは楽しそうに笑っている。絶対に怖いとかかわいそうなんて思ってない。純粋に面白がっている。


「全然トウマはかわいそうじゃないですよ」

「なんで?」

「彼は絶対に、いつか、俺が何もしなくても、全く同じ行動をしてましたよ。姉に向けたかった感情をすべて俺に向けてました。いつか違和感を感じて、俺なんか捨てて、正雪に復讐してましたよ。確実に。それが、すこしだけ早まっただけです」

「そうなんだ。ちなみにさ、お前は、トウマのことどう思ってたの?」


 ユキマサはしばし考え込んだ。トウマのことを思い出す。嫌な奴、ではなかった。母親から逃げられる場所になってくれたし、急にトウマの家を訪れても、どれだけ居座っても、トウマは嫌な顔一つしなかった。服も貸してくれたし、食事も作ってくれた。善意ではなかったが、悪意でもなかった。トウマは姉に向けたかった感情を行為を、ユキマサにぶつけていた。お互い利用し合っているので文句を言う筋合いはないから、好きなようにさせていた。


「どう思っていたって、難しいですね。俺にもわかりません」

「わかりたくない、の間違いでしょ。だんだん、居心地よくなっちゃって、このまま一緒にいてもいいかもしれないって思って、ちょっと長居しすぎちゃったんでしょ。だけど、急に不安になって、もしかしたら、また捨てられるかも、とか思っちゃって。で、そしたら、」

「黙ってください」


 ユキマサはムゲンの言葉を遮った。表情は動いていないが、声が若干低くなった。ムゲンはにやにやしている。


「そんな、図星つかれたからって、イライラしないの」

「うるさいです」


 ユキマサは一回大きく深呼吸をした。ムゲンに苛立ってもどうしようもない。ユキマサがどんな反応をしても、絶対にムゲンは面白そうに口角を上げる。強い感情を表せば表すほど、ムゲンはさらに楽しそうな反応をするだろう。でも、わかっていても、苛立つものは苛立つのだ。ユキマサは大きく舌打ちをした。


「ちょっと落ち着きました」ユキマサは平静を装って言葉を発した。

「ほんと? いま、舌打ちしてたじゃねぇかよ」

「気にしないでください。さっきの話なんですけど」

「はぐらかして終わらせると思った」

「口挟まないでください。で、話を戻しますけど、大方ムゲンの想像通りです。あの、ムゲンは人の心ないくせに、なんで人の感情の動きが的確にわかるんですか?」

「本で学んだ。あと、ここに依頼に来た人間の話を聞いたり、行動を見たりして、学んだ。俺がさっき話した奴は、俺の推測であって、完全な正解じゃねーと思うぜ」

「そうですか。俺は、トウマの場所を、居心地いいと思ってた、かもしれません。でも、所詮、俺は、代用品でしかないんです。母親の恋人の代用品。トウマの姉の代用品。代用品は代用品でしかない。だって、本物ではないんですから。本物じゃないから、絶対に、違和感がある。いつか、その違和感を見て見ぬ振りできなくなって、なんか違うって思っちゃうんですよ。そう思われたら、代用品の役割は終了。それに、どれだけ一緒にいても、どれだけ相手のことを知っても、相手は俺のことは見てくれません。俺はそれに耐えられなかったんです。俺は、捨てられる前に捨てようって気持ちと、限界だなって気持ちと、それと、俺の言葉ってトウマを動かせるのかなっていう、ちょっとした好奇心で、トウマの背中を押しました。以上です。これで満足ですか?」


 ユキマサは自分の思いを一気に吐露した。淡々と。絶望も、悲しみも、一切の感情を感じさせないように。自分の中身ではなく、他人の心を語っているかのように。


「へー。そうなんだ。ところで、お前は、自分の言葉で、トウマを動かせてうれしかったの?」

「うれしかったです。自分の言葉が、トウマにしっかりと聞こえてて、聞こえてるだけじゃなくて、トウマに影響を与えられてることがわかって、うれしかったです。俺と言う存在が、トウマの中にちゃんといたんです。嬉しいですよね」


 ユキマサは薄く口角を上げた。嬉しそうにも悲しそうにも見えた。


「ふーん。そういうもんなんだね」

「そういうもんなんですよ。あの、もうこの話終わりでいいですか?」

「いいよ」


 ムゲンは、意外にもあっさりとしていた。もう聞きたいことが聞けたのだろうか。それとも、今日のところはもう飽きたのだろうか。とりあえず、今のところはこの話が終わったことに違いはないので、ユキマサは内心ほっとした。


「あの、一つ聞きたいんですけど、俺はここでどのくらいの期間働けばいいですか?」

「お前に選択肢をやろう。一つ目、半年。半年したらお前は自由だ。死んでもオッケー。二つ目、10年。10年したらお前は自由だ。死んでもオッケー。そして、三つ目。永遠。俺の気が済んだら死ぬ。でも、多分死ねないと思うぜ。さあ、お前は、どれがいい? ちなみに、俺の希望は、永遠ね」

「それ、希望っていうか、命令に近くないですか?」

「うん」

「じゃあ、なんで俺に聞いたんですか?」

「なんとなく」

「そうですか。でも、永遠って無理ですよね。俺、人間ですし、年取って死にますよ。来世も一緒にいようね的なあれですか」

「んなこといわねーよ。レオじゃあるまいし。そうじゃなくて、お前は不死身になるのさ。俺みたいにね」

「ムゲンは不老不死なんですか?」

「間違いではない。ちなみに、トワも不死身。あ、レオは違うけど」


 ムゲンの言葉は信じがたいものだったが、猫が人型になったのを見たのもあり、ムゲンならあり得るかも、とユキマサは思ってしまった。化け猫がいるくらいだ。不死身の人間がいたっておかしくはない、はず。


「でも、俺、人間ですよ」

「大丈夫。お前も、トワみたいに首輪をつけりゃ、お前も永遠を生きられる。一度つけた首輪は、俺しか外せない。俺が首輪を外せば、お前は死ぬけどね。どうする?」

「……わかりました。いいですよ。ムゲンの物になっても」

「受け入れるの早いねぇ」

「どうせ、俺に拒否権ないんですよね」

「もちろん。お前が拒否しても、首輪つけたよ」

「なんで聞いたんですか」

「なんとなく」

「そうですか」

「永遠が怖いとか無いの?」

「わかりません。どうせ死ぬつもりだったんで、何もかもどうでもいいんです。まさか、生きることになるとは思いませんでしたけど」

「じゃ、首輪用意しとく。色、何がいい?」

「なんでもいいです」


 ムゲンはズボンのポケットからスマホを取り出すと、どこかに電話をし始めた。


「……ねえ、首輪一個ほしいんだけど。……色は、水色、でいいかな。……わかった。よろしく~」


 ムゲンは電話を切ると、ポケットにしまった。


「明日には届くよ」

「早いですね」

「うん。おねーちゃん、仕事早いんだ」

「『おねーちゃん』って、お姉さんいるんですか?」

「いや、そう呼ばされてるだけ。俺を拾ったひと。親じゃないけど、親的な立ち位置、俺を育てたひと。まあ、姉って思ってていいんじゃない? いつか会えるよ」


 果たしてムゲンの姉はどんな人なのだろうか。ムゲンを拾った人だ。絶対に人間ではない。それに、『ムゲンを育てた』ということは、ムゲン並みにヤバい人かもしれない。会いたいか、と問われても、ユキマサはすぐに首を縦に振ることができなかった。


「ねーねー、ユキ」

「なんですか? ていうか、なんで、ユキ、なんですか?」

「いや?」

「嫌じゃないですけど」

「なんか、トワがお前のこと、ユキくんって呼んでたから、呼んでみただけ。ユキマサの方が良かった?」

「いえ、ユキでいいです」

「そっか。じゃあ、今日からお前は、ユキだ」

「わかりました」

「あっさり受け入れるね」

「名前とかどうでもいいです」

「へー。お前って、自分を見て欲しいっていうのすごいから、ユキマサって、ちゃんと名前を呼ばれたいのかと思ってたよ。名前呼ばれるってさ、すごい自分見てくれてるって感じするだろ。お前、母親にユキマサって呼ばれたくてしょうがなくて、“マサユキ”って呼ばれるたびに、ちょっとずつ、傷ついてさ、大変だったでしょ」


 ムゲンの言う通りである。ユキマサは名前を呼ばれることが好きだった。特に母親に呼ばれることが好きだった。自分を見てくれてる気がして、嬉しかった。他の人の名前で呼ばれるのは嫌いだ。自分を見てくれていないのがわかって、悲しかった。


「ムゲンの言う通りです。自分を見て欲しかった。でも、今は、自分が何かっていうのが全くわからないんです。“マサユキ”っていうのは、母親の恋人です。俺じゃありません。“ユキマサ”っていうのは俺の名前です。俺を表す名前です。でも、よくよく考えてみると、“ユキマサ”は母親のために生きてました。母親が最優先でした。でも、今は母親はいません。それで、思ったんです。“ユキマサ”の存在意義がなくなったって。“ユキマサ”の中心には母親がいて、母親がいないと、どうすればいいのかもわからない。だから、死のうとしました。だから、別に、どんな名前で呼ばれてもかまいません。“ユキマサ”って名前で呼ばれても、“ユキマサ”ってどう生きればいいのかわからないです。母親がいないので。だから、ユキでいいです。ユキマサじゃない方が良いです」

「あはっ、オモシロ。やっぱお前、いいね。お前、俺のものにできて嬉しいわ。ユキを観察するのオモシロい。あ、ところでさ、今日から、この家に住むけど、どこで寝る?」

「ムゲンとか、トワってどこで寝てるんですか?」

「俺は、この椅子の上。つーか、寝なくてもいいから、暇なときに、意識落としてる。トワは、いつも、このカウンターの上」


 ユキは『なんでも屋』の惨状を思い浮かべる。今ユキがいる店になってる場所はきれいだ。カウンターの中以外。あと、カウンターの奥の扉の先は地獄だ。ゴミだまりにしか見えなかった。あんなゴミの海では寝られない。


「あの、そもそも、この家、人が寝られるような、ゴミがない、床が見える、きれいな場所ってあるんですか?」

「そこの個室だけ」ムゲンは、ユキから向かって右側を指さした。

「そこで寝ていいんですか?」

「やめといた方が良いよ。だって、あそこ、勝手に入ると怒るやつらがいるからな」

「ムゲンの家なのに?」

「うん。勝手に入ると、文句言われる」

「そうですか。つまり、俺が寝る場所はないってことですね」

「そうだね」

「どうすればいいんですか?」

「明日、おねーちゃんに部屋一個増やしてもらうわ。だから、今日は、隣の店の二階で寝といて」


 『なんでも屋』の隣には、超人気カフェ『約束』がある。人が寄り付かない怪しげな店と、人が集まる明るい店。正反対だ。


「お店の人と知り合いなんですか?」 

「ユキも会ったことあるだろ。レオの店だよ」

「え? あの人って接客できるんですか?」


 驚くユキの口から出てきた言葉に、ムゲンは噴き出した。声を上げて笑う。ツボに入ったのか、しばらく笑い続けた。


「そんなに笑いますか?」

「だってさ、レオが接客するなんていう想像したら面白すぎるでしょ。そもそも、なんで、レオが接客するなんて考えに行きつくんだよ」

「だって、ムゲンが、レオがカフェをやってるって言ったからですよ」

「経営者だけど、実際に、店に立ってるのは、ノアだ。そもそも、ノアが、レオに接客なんてさせるわけないだろ。だって、レオ様だぜ」

「レオ様?」

「そ。レオ様。ノアはそう呼んでる。ノアの中では、レオはレオ様。だから、レオが人に頭下げるようなことを許さないし、他人に使えるみたいなマネを許さない。貴族らしく、傲慢に、上から目線に、高圧的に、なおかつ、完璧でなければ許せないんだって。すげーだろ。突き抜けてるやつは嫌いじゃねぇ。ちょっと面倒だが、それもまた面白れぇんだ」

「なんか、すごいですね」ユキはそれしか言葉が出てこなかった。

「だろ? 会えばわかるさ。というわけで、二階かしてもらうために、隣行くぞ」

「わかりました」


 ムゲンはカウンターをひょいッと飛び越えた。ユキも椅子から立ち上がった。二人は向かい合った。ユキが見上げる形になる。十センチ以上ムゲンの方が背が高いのではないだろうか。首がつかれそうだ。


「明日は、片付け、頑張れよ」

「気が遠くなりますね」

「まあ、これからよろしくな、ユキ」

「はい。よろしくお願いします」


 こうして、ユキとしての生活が始まった。





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