神の仔人の子獣の仔

雲晴夏木

少年期

六〇六年 冬

 六〇六年、春も間近な冬の三節のことだった。

 ユノはルースの王が住まう都、ケントラムに行くことになった。医者である父エオロと、ウィリデの農学者ヤラィが、それぞれの研究分野の発表会に参加するためだ。

 本来、まだ六つであるユノや、妻のオセルまでもが都へ行く必要はない。だが、エオロは二人の見聞を広めるためと言ってウィリデの町から二人を連れ出した。


「息子も、熱さえなければなぁ」


 道中、ヤラィは残念そうな口調で自分のつるりとした頭を撫でた。

 ヤラィの息子ダナンもケントラムへ行く予定だったのだが、熱を出して馬車での長旅は不可能となったせいだ。息子の看病のため、ヤラィの妻もウィリデの町に残った。

 その結果、ヤラィは単身、妻子を連れたエオロとケントラムへ発つことになった。髪とは反対にたっぷりある白い髭を撫で、ヤラィはしきりに残念がる。よほど息子に勉学の機会を与えたかったようだ。馬車の中でヤラィの愚痴に付き合わされ閉口する父を見て、ユノは母と二人、こっそりと顔を見合わせて笑った。




 西へ西へと馬車を走らせ、町々を越え、掛けた時間はおおよそ八日。ユノたちは無事、ルースの王都ケントラムに着いた。

 ケントラムは活気にあふれていた。景気もいいようだ。それもこれも、ルースが唯一雷害に見舞われない国になったお陰だ。

 雷は、国一つに一匹はいるという〝神獣しんじゅう〟が落とすものだ。神獣は黒い獣。額に角を生やしている。その角から雷を生み、空から地上へ落とすのだと言われている。事実、その通りだった。

 ユノが生まれた年、ルースの神獣は王国兵団の兵士たちによって討伐された。それ以来、ルースでは雷が落ちることがない。

 自国の雷害を忘れ静養したい他国の貴族、天候に悩まされず休養を取りたい旅人、雷害に悩みたくない農家など、様々な人がルースを訪れる。このケントラムの賑やかさは、森に囲まれた静かな町ウィリデとは正反対と言えよう。

 そんなケントラムにて、ユノは何日にも渡って子供には難しい論文の発表を聞かされた。異国の言葉にしか聞こえない単語が飛び交う議論の輪に父がいるのを認めながら、ユノは母と一緒に離れたところで席についていた。熱が入り過ぎて、時に拳を持ち出す輩もいるためだ。

 ゆったり微笑みながら侃々諤々の討論を見守る母に、ユノはこっそり尋ねた。


「お父さん、いつから魔法使いになっちゃったの?」


 母オセルは笑みを深め、愛しげにユノの髪を撫でるだけで何も言わなかった。




 数日の滞在を経て、ユノたちはようやくウィリデに帰ることになった。

 エオロとヤラィがウィリデ行きの馬車を拾いに行っている間、オセルとユノは王国兵団詰め所で待たせてもらうことになった。そこでユノの相手をしてくれたのは、髪がツンツンと好き勝手な方向に跳ねている若い兵士だった。ユノの手遊びに付き合う青年兵士に、オセルがあれこれと話を振る。青年兵士の答えに、オセルは榛色の目を丸くした。


「まあ。あなた、そんなに若いのに兵長なの?」


 母の驚いた声に、ユノは手遊びに興じていた手を止めた。隣に立つ母を見上げるユノの瞳も榛色だ。ユノの相手をしていた青年兵士は快活に笑い、自身の短い黒髪をがしがしとかき混ぜた。


「つっても、この区画の警備兵長ってだけだ。大隊長になってから褒めてくれよ」

「警備兵長でも十分じゃない。あなたいくつなの? まだ二十にもなってないんじゃない?」

「んー、十七」

「十七って、加護をもらったばかりじゃない! 若いどころかまだまだ子供よ」


 すごいわねぇ、と感心するオセルに肩をすくめて見せ、青年兵士はユノに目を移した。青年兵士は鳶色の瞳で、ユノの榛色の瞳をじっと見る。


「その目、よく見ると金色にも見えるな」


 柔らかな口調だが、目は鋭かった。どうしてそんな目で見るのだろうと思いながら、ユノは青年兵士の鳶色の目を見つめ返した。


「お父さんは、ハシバミイロって言うよ」


 ユノの無邪気な返事に、青年兵士は「ああ、そうだな」と目を細めうなずいた。その目つきに先ほどの鋭さはなかった。青年兵士は慈しむような目でユノの瞳を見つめ、注意を促した。


「でもな、陽に透けると、その目は金色に見えなくもない。あんまり人に見られないよう気をつけろよ、お嬢ちゃん」

「どうして?」


 ユノの問いはもっともだ。理由がわからない。きょとんとしているユノに、青年兵士は「金色の目は獣の目」と歌うような口調でケントラムに広まる噂を語った。


「数年前、ある男の妻が神獣に攫われた。それ以来、男はあちこちをさまよって、妻と妻を攫った神獣を探してる。一人息子も放り出して、服がボロボロになっても構わずに、髪がボサボサになっても整えず、金色の瞳を持つ者は神獣の仲間だと思って襲いかかるんだ」


 声を潜めた青年兵士の語りはうまかった。ユノはすっかり震え上がって、母にしがみついた。しかし頭上でくすくす笑う声に気づき、青年兵士が語った内容は恐れる必要のない作り話なのだと知る。何より、語った青年兵士も笑っていた。神獣を追う男の話は冗談だと確信し、ユノはホッと胸を撫で下ろした。

 オセルは笑ったまま、青年兵士の黒髪を指で差した。


「それなら、お兄さんも気をつけなくちゃいけないわね。黒い髪は神獣の毛並み。それこそ、妻を奪われた男に狙われるんじゃなあい?」

「確かに、このケントラムでしか見ない黒い髪は、神獣の毛並みと同じ色だ」


 青年兵士の口は減らない。オセルの軽口にもひょうひょうとした態度で返す。


「だからこそ、神獣からも同族と勘違いされちまう。奪われた妻は黒髪だったんだ。同族のメスだと思って攫ったんだろうよ。今やケントラムじゃあ、黒髪の娘は家から出せなくなっちまった」

「まあ怖い。私の可愛い娘の髪が、夫と同じ栗色で良かったわ」


 ふふ、とオセルが笑う。ふふん、と青年兵士も笑う。互いに笑っているのに、張り詰めた空気が漂う。ユノだけが、その場の雰囲気の理由がわからず、何度も二人を見比べていた。

 先に空気を緩めたのは青年兵士だった。青年兵士の大きな手が、ユノの栗色の髪をわしわしと撫でる。


「まあ、お嬢ちゃんには頼もしい母親も優しい父親もいるからな。神獣が来ようが神獣を探す男が来ようが、お嬢ちゃんには指一本触れられないさ」


 青年兵士の言葉に、ユノは首を傾げた。


 ――優しいお母さんと、頼もしいお父さんじゃないの?


 そう思ったが、青年兵士に聞き返すことはできなかった。父エオロが詰め所に入ってきたからだ。走ってきたらしく、息を切らしていた。ユノと同じ栗色の髪は、汗で少しばかりしっとりしていた。


「今、ヤラィさんが馬車を待たせてる。急いで帰ろう」

「あら、そんなに急ぐの?」

「占いで、数日中に雨と出たらしい。急げば雨より先にウィリデに着けるかもしれない」


 エオロが慌てるには二つの理由があった。

 一つは、ウィリデで待たせている患者たちだ。薬や湿布の処方を待っている者がいるのだ。彼らに申し訳ないから、のんびりしていられない。

 そしてもう一つは〝目のない怪物〟だ。雨が降ると、奴らは地面から生えるように現れる。馬車がひっくり返されるだけなら運がいいと言えよう。しかし命を落とすこともあるのだ。そうなっては自分たちだけでなく、薬を待つ患者たちの健康や命に関わる。

 相手をしてくれた青年兵士に礼を言い、ユノたち親子は急いで詰め所を後にした。ユノは何度も振り返り、青年兵士に手を振った。詰め所の外に出た青年兵士は、ユノからその姿を見えなくなるまで、いつまでも手を振り返してくれていた。




 待たせた馬車の中で、ヤラィはすでに座っていた。御者はエオロたちから受け取った荷物を軽々と積み込む。馬車に乗るオセルに手を貸し、ユノは抱き上げて乗り込ませてもらった。そわそわと空模様を気にするエオロに気づいた御者はからからと笑うと、分厚い胸板を拳で叩いた。


「天候占いを気にしてるようですな。しかし安心してください。目のない怪物が出ようが斧を持つ怪物が出ようが、あっしの火の加護で蹴散らしてみせまさぁ」


 そう言って、御者は指先に火を灯して見せた。その勢いは火の神の加護の強さを表す。これなら安心だと胸を撫で下ろし、エオロは安堵の表情で馬車に乗り込んだ。

 御者の太い掛け声で、馬車はウィリデに向けて出発した。




 馬に鞭打ち、東へ東へと馬車は走る。途中、寄らないはずのフラウスに立ち寄った。水や食料を調達するためと、近づくウィリデに異変がないかを尋ねるためだ。

 自警団の詰め所で大人たちが情報交換をする中、ユノも近所の子供に話しかけ、子供なりの情報交換をしていた。


「ケントラムに行ってきたの」


 ユノに話しかけられた少女は、黒い瞳をきらきら輝かせ「すごい!」と両手を叩いた。


「ケントラムって、王様がいるところでしょう? 王様の姿、見た?」

「ううん、見れなかった。あのね、そこでね、金色の目は獣の目って言われたの。わたしの目、金色?」


 少女はユノの瞳を覗き込み、しげしげと観察する。難しい顔をしていた少女はやがて満面の笑みを浮かべ、「ううん」と首を振った。


「大丈夫。あなたの目、はしばみいろだと思う」

「よかった。お母さんとおそろいなの」


 ホッとするユノに、少女は「あなたの目は大丈夫」と請け負った。


「獣の目はね、もっと金色。つい最近まで、獣みたいな目の男の子がいたわ」

「フラウスに? その子、獣だったの?」

「わかんない。でも、髪は黒だった」


 黒い髪と聞いて、ユノの心臓は嫌な跳ね方をした。ユノの頭に、青年兵士が語った神獣の話が蘇る。少女はユノが緊張していることに気づかず、フラウスにいたという獣の目と黒い髪を持つ子供について語った。


「目は金色だし、髪は烏みたいに真っ黒だし、それに喋らないの。いつも何か言いたそうにして、結局何も言わないで、一人でぽつんとしてた。変な子だったわ」


 もうどこか行っちゃったけど、と少女は肩をすくめた。


「黒い髪と金色の目だからね、男の子たちが、その子を追いかけ回し始めたのよ。獣の子、獣の子って言って」


 気の毒な子供は、石を投げられるようになった。それでも子供は言い訳もせず、ぎゅっと唇を引き結び、投げられる石から逃げるだけだったと少女は言う。

 ユノは胸が痛くなった。どうしてそんなことされなくちゃいけないのだろうと悲しくなった。

 ユノの表情に気づき、少女は「あたしは投げてないよ」と言い訳して首を振った。それを聞いても、ユノの表情は晴れなかった。




 暗い気持ちのまま、ユノはフラウスを出る馬車に乗り込んだ。母が心配したが、父は「疲れたんだろう」とユノの頭を優しく撫でるにとどめた。ユノも、理由を言いたくはなかった。

 ユノの気持ちと関係なく馬車は進み、やがてウィリデに至るための森に入った。嫌な雲行きだったが、とうとう、雨が降り始めた。まどろんでいたユノは幌に当たる雨音に気づき、跳ね起きた。母オセルが「大丈夫よ」とユノを再び寝かしつけようとするが、ユノは眠れなかった。

 目のない怪物の眷属は、今まで畑で何度も見ている。しかし、怪物そのものを見たことはない。怪物に襲われ怪我をした商人の話や、亡くなってしまった気の毒な木こり話は聞いている。その恐ろしさを、ユノは知っている。

 ユノは怯えた。ウィリデに戻ることなく、冷たい雨に亡骸を晒すことになるのではないかと震えた。父とヤラィが励ましても、ユノの胸から不安は消えなかった。

 大人三人がユノを元気づけることに必死になっていると、馬車が急停止した。外で御者が誰かと言い合っている。

 馬車の中の四人は口を閉じた。耳を澄ませると、言い合っているのが御者と見知らぬ誰かとの二人だとわかった。

 目だけで、エオロがヤラィに合図する。オセルはユノを隠すように抱きしめた。ヤラィがうなずくと、エオロはそぉっと窓から顔を出した。しかしエオロは、すぐに体ごと顔を引っ込めてしまった。なぜだろう、とユノが思う暇もなく、見知らぬ男の顔が窓から突き出る。

 ちくちくと痛そうな無精髭、水を吸って重そうな短い黒髪、白目がちの鋭い目を持つ男は、ユノが今まで見たことのない種類の大人だった。粗野な見た目だが、どこかさっぱりした気質を感じさせる。男は「頼むよ」とエオロたちに懇願した。


「この道を通るってことは、ウィリデに行くんだろ? 狭きゃ息子だけ乗せてくれればいい。だから頼む、相乗りさせてくれ!」

「乗せてくれと言われても」


 たじろぐエオロに代わり、ヤラィが前に出た。白い髭を触りつつ、きっぱりと相乗りを拒否する。


「すまない、揉めている暇はないんだ。この馬車に余裕はない。雨を凌ぐだけの毛布は差し上げよう。息子さんの体力が戻るまで休めばいい」

「こんな雨の中、毛布被って耐えろってのか? あんたにゃ子供がいねーんだろうな。でなきゃそんな台詞言えるわけがねえ」


 やいのやいのと二人が言い合う。そこへエオロが加勢する。御者もやってきて、男を馬車から引き離そうとする。

 ユノはハラハラしていた。男の子供がどんな体格かはわからないが、この狭さを見ても乗せられると思うのなら、ユノと代わらない年だろう。それなら、みんなが詰めて乗せてあげればいい。揉めている時間はない。雨の日にいつまでも外で騒いでいると、目のない怪物が怒り出す。


 ――早く、早く馬車を出さなくちゃ。目のない怪物に見つかっちゃう。


 ねえ、とユノが口を挟もうとした時だ。地鳴りがしたかと思うと地面はぐらぐらと揺れ、何かが突き上げるように現れた。目のない怪物が、とうとう現れたのだ。

 余波に当てられ、馬車がひっくり返る。運良く馬車の下敷きにはならなかったが、ユノたちはみな、馬車から放り出されてしまった。

 あれほど頼もしいことを言っていた御者が、鞭を放り捨て悲鳴を上げて逃げていく。森へ消えていく背中を呆然と見送るユノを、母オセルが隠すように覆い被さった。ユノを庇うオセルを、エオロがさらに抱きしめ庇う。ヤラィは頭を抱え地面にうずくまっていた。

 立っているのはただ一人、相乗りを頼む男だけだ。ユノは母の腕の隙間から、男が腰に差した剣を抜くのを見た。


「目のない怪物が出るほど田舎ってなぁ、本当だったんだなぁ」


 ユノからは、男の背中しか見えない。しかし、男が笑っているとわかった。男の背中には、不安なんて欠片も滲んでいなかった。

 目のない怪物は、伸びをするように長い体を仰け反らせた。限界まで反らせた体を、男に向かって勢いよく叩きつけるため振り下ろした。ユノの両親が顔を上げていたら、目を閉じ「もうだめだ」と嘆いただろう。しかし不思議と、ユノは怖いと思わなかった。剣を構えるこの男なら、きっと負けないと確信していた。

 ひらり、ひらりと光の筋が走った。光の筋に見えたのは、男が振るった剣の軌跡だ。光の筋が走るたび、目のない怪物の体が輪切りになって地面に落ちる。どういう斬り方をしたのかユノには皆目見当もつかないが、輪切りにされた目のない怪物の体からは、血の一滴も流れなかった。

 町中の男たちと自警団が集まってようやく討伐する怪物を、男はたった一人で倒してしまった。男の華麗な剣裁きを、ユノは観劇でもしているつもりで見ていた。

 汚れていない剣を一振りし、男は剣を鞘へ収めた。留め金がぱちん、と音を立てる。振り向いた男は、にんまり笑っていた。


「これであんたらは俺に恩ができたってわけだ。相乗り、させてくれるだろ?」


 男はカンテと名乗った。怪物を倒し、名前も告げた。だが、ヤラィもエオロも頑としてカンテとその息子を受け入れない。頑固だなぁと辟易したユノが助け船を出そうとしても、母オセルにそっと口を塞がれ、大人の言い合いに口を挟むことはできなかった。

 そこへ、少年の声が割って入った。


「もういい。親父、おれはいい。歩ける」


 少年が声を発するまで、誰も少年に気がつかなかった。どこの物陰に隠れていたのだろう、とユノは首を傾げた。足音も立てず突然現れた少年を見て、ユノは町に住む猫を思い出した。それは少年が顔を隠すように背を丸めているせいかもしれない。

 この少年がカンテの息子であることは一目見ればわかった。雨に濡れて深みを増した黒髪と白目がちの鋭い目は、カンテにそっくりだ。

 ユノは少年をじっと見つめた。そして、獣の子と言われるわけを納得した。少年が喋るたび、大きな獣の歯がちらちらとのぞく。うつむき気味になって隠しても、瞳が金色であることはよくわかる。黒い髪、目立つ獣の歯、金色の目。これほど神獣と重なる要素を持ってしまった少年を、ユノは気の毒に思った。

 歩くと言い張る息子に、カンテは「いいから休んでろ」と手を振った。


「歩けねーから頼んでんだろ。いいからお前は休んどけ。馬車だって揺れるから楽じゃねーんだぞ」

「歩ける。雨がひどくなったら、風邪引いちまうだろ。早く行こう、親父」


 少年は額を怪我しているのか、雑だが何重にも包帯が巻かれている。包帯が水を吸い、ずいぶん頭が重そうだ。お古らしい外套もぐっしょりと水を吸っている。このままウィリデまで歩けば、間違いなく風邪を引くだろう。そうでなくても雨で体が冷えているのだ。途中で力尽き倒れるかもしれない。

 乗せてあげればいいのに、とユノは父たちを見た。父エオロは眉を下げ、気の毒そうな表情を浮かべていた。医者であるエオロには、少年が風邪を引く未来がありありと見えているのだ。

 自分を抱きしめる腕から抜けだすと、ユノは少年の元へ走った。フラウスで聞いた話を思い出し、包帯の下は石を投げられできた怪我だと確信したのだ。ぐずぐずになった包帯が不快ではないか、湿気で痛みはしないか心配で、居ても立ってもいられなかった。


「本当に、大丈夫?」


 突然目の前までやってきてそう尋ねるユノに驚いたのか、少年はきゅっと口を閉じてそっぽを向いてしまった。少年がぷいと顔を逸らしても構わず、ユノは少年の顔や腕をまじまじと観察した。

 目の前に立つと、少年の背丈は背筋さえ伸ばせばユノと変わらないように思えた。逸らした横顔の幼さから、年もきっとユノと同じくらいだろう。そっぽを向いたせいでよく見える頬や、外套の前をしっかりと掴む手や腕には、あちらこちらに擦り傷がある。これが遊んでできた傷か、いじめられてできた傷かは、ユノには判別できない。普段なら絶対にこんな風に他人を観察したりしないが、彼が痩せ我慢をしていないか心配で仕方ないのだ。

 ユノに見つめられ、少年は気まずそうにうつむいた。その拍子に、水を吸って重くなった包帯がずるりと落ちる。

 少年の額には、そこに生えていた何かを抉ったような、酷く醜い傷跡があった。それは硬いものだったのだろう。折るのに苦労するものだったのだろう。なぜだかユノは、そう感じた。

 息を呑むユノに気づき、少年は慌てて包帯を押さえると引っ張り上げた。ユノは背後を振り返ったが、大人たちは二人を置いてまた言い合いをしていた。ユノ以外、誰も少年の額を見ていない。

 自分しか傷跡に気づかなかったことに安堵して向き直ると、少年は泣きそうな目でユノを見ていた。


「み……見た、か?」


 雨雲の下でもなお輝く金色の瞳。額に何かが生えていたであろう痕跡。ユノはこの少年が〝本物の獣の子〟である気がした。そうでなければ、ユノが「見てない」と呟くように否定して、あからさまにホッとしたりしないだろう。

 ユノは少年をじっと見つめた。今度は怪我がないかと心配したからではない。ほとんど無意識に少年を見つめていた。少年の、金色の瞳に目が吸い寄せられていた。


「あなたの目、とってもきれい」


 金色の瞳を、ユノは初めて見た。金色の瞳を持つ猫はウィリデにだっているが、少年ほど美しい金色の瞳を持つ者は、猫だって人だって、一度も見たことがない。

 戸惑う少年にユノは自らの名を教えた。


「わたし、ユノ。あなたは?」

「おれ? お、おれ……ユピト」

「ユピトの目、きれいな金色。きらきらしてる」


 ユノの言葉に、ユピトと名乗った少年は目を逸らした。一番外側の包帯をずらし、目を隠すようにじりじりと下ろしていく。


「おれ……この目、嫌いだ」


 包帯は瞼にかかり、目の半分を隠そうとしている。ユピトは苦いものでも食べたような声で、ぽつりと呟いた。


「フラウスで……けものの目って、石投げられた」


 ユピトの台詞に、フラウスで出会った少女の言葉は本当だったのだと再度認識した。ユノは痛む胸を押さえたくなったが、自分の胸でなく、ユピトの手に自分の手を重ねた。ユピトの肩がびくりと震わせた。その様にまた胸を痛ませながら、ユノは「獣じゃないよ」とユピトの手を下ろさせた。


「獣の目じゃないよ。ユピトの目は、朝を連れてきたお日様みたいな金色だよ」


 頑なに目を隠そうとしていた手から、力が抜けた。そろりそろりと、ユピトはユノに顔を向けた。ユノを見つめる瞳は変わらず金色だったが、ユノの目には、今し方ユピトにかけた言葉通り、朝日で町を照らす太陽の色に見えた。

 ユノは「あ」と声を上げ、ユピトの瞳を表す新たなたとえに目を輝かせた。


「あとね、溶かしたお砂糖にも似てる! 溶かしたお砂糖を冷やして固めると、ユピトの目みたいになるの。食べたこと、ある?」


 小さく首を横に振られ、ユノは「じゃあ」とユピトの手を取った。


「食べたことないなら、今度一緒に食べよう。ウィリデはフラウスより田舎だって言われちゃうけど、おやつのおいしさは負けないよ」


 雨雲から覗く晴れ間のような笑顔のユノに手を引かれ、ユピトは大人たちの前へ連れ出された。

 いつの間にか大人たちは言い合いをやめ、二人の子供のやり取りをじっと見ていた。カンテがにやりと笑い、ヤラィとエオロを見やる。


「どうやら子供は相乗りに賛成みたいだな」


 ヤラィは仕方ないと言いたげにため息をついた。反対に、ユピトを見たときは心配そうな顔をしていたエオロが、今は不満げな顔をしている。何か反対できる要素はないかと探すようにカンテやユピトを不躾に眺め――そして諦めた。普段柔和な笑みを浮かべている顔にありありと不服の色を出し、乱暴な手つきで倒れた馬車に手を差し入れた。


「相乗りするんだろう。だったら、さっさと馬車を起こすのを手伝ってくれ」

「へいへい、わかりやしたよっと」


 カンテとヤラィも加わり、少しの間の後、馬車は起き上がった。少々の泥が中にも入り込んでいたが、誰も気にしなかった。馬車の中まで汚れたことよりも、大人たち――特にユノの両親――は、ユノとユピトがずっと手を繋いだままでいることのほうがよっぽど気になっていた。

 逃げ出した御者に代わり、カンテが馬を操ることになった。全員が乗り込んだことを確認したカンテの鞭で馬たちが走り出す。揺れる車内では、しばらくの間、誰も口を開かなかった。ユノは隣に座るユピトにあれこれ話しかけたかったが、ユピトの正面に座る父エオロが今まで見たこともないような険しい顔でユピトを見ているため、口を閉じるほかなかった。

 そんな空気の中、最初に口を開いたのはヤラィだ。


「きみのお父さんは、フラウスで何をして家族を食べさせていたのかね」


 急に大人から話しかけられ、ユピトは驚いて少し浮き上がった。その様子が猫のようで、ユノは笑ってはいけないと自分に言い聞かせるのに苦労した。そうとは知らず、ユピトはへどもどしながら父カンテの生業を説明した。


「えっと、怪物……倒したり、商人のようじんぼう? したり……」

「つまり傭兵か。あの腕なら引く手数多だっただろう」


 腕組みし、ふむふむとヤラィはうなずいた。険しい目をユピトに向けたままのエオロが「しかしヤラィ先生」と注意を促す。


「あの男、腰の剣に兵団の紋があります。なのに身なりはです。脱走者……もしくは放逐者かもしれませんよ」

「いやいや、引退したのかもしれないじゃないか。見て察するに、妻を亡くしたから――かな」


 妻を亡くした、というヤラィの憶測にユピトはびくりと体を強張らせた。ユノはとっさにユピトの手をぎゅっと握った。ユノの隣に座る母オセルも、腕を伸ばしユピトの腕をさすった。ユノとユピトからは見えないが、ヤラィをキツく睨んでいる。ヤラィは素知らぬ顔で再びユピトへ水を向けた。


「それで? きみたち親子は、ウィリデから次はどこへ行くつもりか」


 エオロの険しい目とヤラィの笑いを湛えた目に晒され、ユピトは口ごもり、時につっかえながら、父カンテから聞かされている今後の予定を話した。

 隣でユピトの様子を見ていたユノは、ユピトが口下手であることを察した。そして、かなりの照れ屋であることも。


「ウィリデの次は、し……知らない。ウィリデで住めそうなら、しばらく住むかもって……言ってた」


 ふぅむ、とヤラィが唸った。ユピトはびくつきヤラィを見た。何か気に障ることを言ったかと気にしているようだが、その心配は外れている。

 ヤラィは窓から半身を乗り出すと、御者席に座るカンテに話しかけた。


「住む場所に当てはあるのかね」

「住む場所ぉ!?」


 カンテは声を張り上げた。揺れる馬車に馬のいななき、切り裂く風とカンテの聴覚を邪魔するものが多いせいだ。


「あるわけないだろ、知り合いもいないんだぜ!」

「それなら畑のそばにある小屋をきみたちに貸そう。代わりに、私が町を出る際には用心棒として同行してくれ」

「ありがてえこと言ってくれてるんだろうけどよ、聞こえにくいんだよ! ウィリデでゆっくり話そうぜ!」

「それもそうだな。わかった」


 席に戻るヤラィを、ユピトはぽかんと見ていた。ユノはユピトにこっそり「良かったね」と囁く。その瞬間の父エオロがどんな顔をしていたかも知らずに。




 ユノとユピトは、時折うたた寝を挟みながら、ウィリデまでの道中を楽しくおしゃべりをして過ごした。ユピトはフラウスでどうやって一人で遊んでいたかを話し、ユノはウィリデの子供たちがどんな遊びをして過ごすかを話した。

 森を抜けると、頑丈な塀に囲まれたウィリデの町が現れた。簡素な鎧を身にまとった壮年の男が、構えた槍で馬車を止める。ウィリデの警備兵長のマナズだ。ヤラィが窓から顔を覗かせると、穂先を下ろした。

 固く閉じられていた扉が、マナズの合図でゆっくりと奥へ開かれる。


「この雨の中、よく無事で帰ってきなさったなぁ」

「御者をやってくれている彼が腕利きの傭兵でね。今後私の護衛を頼むから、警備兵と自警団たちに紹介してもらえるかね?」

「学者先生の頼みならしょうがないな」

「それと、この馬車のことをお願いしたいのですが……」

「おいおい医者先生、そんな困った顔しなさんな。フェオの旦那がぼちぼち行商に出るとか話してたから、ついでに引っ張ってってもらえるよう俺から言っておくよ」


 馬車の行く末も解決し、ユピトは父カンテとヤラィの家へ、ユノは両親と自宅へ戻ることになった。方向は、反対だった。

 手を振り「またね」と告げるユノに、ユピトはもじもじしながらそっと近づいた。


「あの……あのな。おれ、馬車って、はじめて乗った。はじめてだったけど、乗ってる間、つらくなかった」

「ほんと? よかった!」


 ユピトの言葉に目を輝かせ、ユノは嬉しそうに笑った。にこにこ笑い「わたしもね」と言うユノの栗色の髪が、肩の上でさらさらと揺れる。


「わたしもね、おしりは痛かったけど、ユピトとお話しできてすごく楽しかった!」

「お、おれも……」


 口ごもったユピトは、やや顔をうつむけてユノから目を逸らした。言うか言うまいかとためらっているようで、爪先で地面を意味もなくがりがり引っ掻いている。再び顔を上げたユピトは、はにかみながらユノに気持ちを伝えた。


「誰かといてあんなに楽しかったの、はじめてだ」


 はにかみ笑ったユピトの台詞に、ユノは左胸がキリキリと痛くなった。

 石を投げられたユピトは、誰かと長く話すことすらなかった。誰かと遊ぶこともなかった。父カンテが仕事でいない時間、いつだって一人で過ごしていた。

 それはどれだけ寂しいことか、ユノには想像することしかできない。父が仕事をしていても、家にはいつも母がいたし、外へ出れば友達もいる。けれど、当たり前に自分を囲む人々がいなくなればどう感じるか――想像するだけで、涙がこぼれそうだった。

 これからユピトがウィリデに住むならば、ユノにとって彼はもう友達だ。フラウスと同じように過ごさせたりしない、と決意した。

 ユピトに「これからはいっぱい遊ぼうね」と言いかけて、ユノは口を閉じた。朝焼けの太陽のような金色に、自分が映っていたのだ。あんなに照れていたユピトは今、真剣な顔でユノを見つめている。


「ありがとう、ユノ」


 なんてきれいな瞳だろう、とユノは我を忘れてユピトの瞳に見惚れた。ユノは知らずため息をつき、首を振った。


「ユピトの目、やっぱり、とってもきれい。ほんとだよ。うそじゃない」


 ユノの言葉に、ユピトはカッと目を見開いた。頬が赤く染まり、その赤は耳へ、首へと広がっていく。せっかく上げた顔を勢いよく下へ向け、ユピトは爪先で地面を削った。


「この……この目、きれいって、おれは……思えない」


 でも、とユピトはうつむいたまま呟いた。


「ユノがそう言ってくれるなら……少しだけ、好きになれるかもしんねえ」


 ユノが返事をする前に、カンテが「おおい」とユピトを呼んだ。ヤラィが家へと歩き出したのだ。カンテもその隣を行き、今後の商談を始める。手だけで招かれ、ユピトは「わかった」とその後を追いかけた。ユノも、母に「帰りましょう」と手を引かれ歩き出す。

 歩きながら、ユノは反対方向へ歩く三人を振り返った。ちょうどユピトもユノを振り返っていた。

 ユピトは獣の歯を覗かせ、照れくさそうに笑いながら大きく手を振った。ユノも、負けないくらい大きく手を振り返した。

 新しい住まいが決まって生活が落ち着いた頃、ユピトを遊びに誘おう。森に囲まれたウィリデでの遊びを教えてあげよう。どの遊びから教えれば、ユピトは楽しんでくれるだろうか。

 ふふ、と笑みをこぼすユノを母オセルが「どうしたの」と微笑みながら見下ろす。ユノは「なんでもないよ」と首を振りながら、またふふっと笑った。

 ユノの心は、ユピトと遊ぶことでいっぱいになっていた。何をして遊ぼう、どこを一番に案内してあげよう、とそればかりが頭に浮かぶ。


「早く明日にならないかなぁ」


 呟くユノの声は、薄曇りの闇に溶けていった。

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