六〇七年 夏の三節
しとしと雨が降る、夏の三節のある日。
とうとう、ダナンを講師に迎えた勉強会が開かれた。ヤラィの書斎兼研究室に招かれたユノたちは、黒く長い外套を羽織ったダナンに出迎えられた。ダナンの黒衣はヤラィのお古だ。
「父上のお下がりなんだ」
長過ぎるせいでかなり折っている袖を引っ張ってみせながら、ダナンは照れくさそうに笑った。
「今日ユピトに読み書きを教えるって言ったら、王都で着ていたものを出してきてくれてさ」
王都ケントラムで農学者として名を馳せた父ヤラィを、ダナンは心から尊敬している。その父からかつて王都で教鞭を執っていた時代の黒衣を譲られ、普段から垂れている目尻がさらに垂れてしまっていた。
天井まで本で埋められた部屋の中央に、木製の大きな机が置かれている。机にたどり着くまでに何冊もの書物を踏みそうになって難儀したが、三人はどうにか席に着くことができた。
机には、一冊の本が置かれている。王国兵団が神獣を討伐した記録を、子供でもわかるよう物語としてまとめたものだ。
「ユピトが神獣のこと知らないみたいだったから、これで神獣の話を覚えてもらおうかなって。ユピトは神獣のこと、本当にまったく知らない?」
「全然知らねえ」
「ってことはさ……ユピト、もしかして神様のことも、よくわかってない?」
ダナンの問いに、ユピトは「わかる!」と元気に返事をした。ダナンが安堵したのも束の間。続くユピトの発言に、ダナンはくらりと目眩を覚えた。
「神様は、信じてたら便利な力をくれる。だから信じてるといいことがある!」
「ユピト、それ以上はだめだ。罰が当たるよ」
「ばちって何だ?」
にこにこしながら首を傾げるユピトに、ダナンだけでなくユノまでも目眩を起こしそうになった。
目眩から立ち直ったのは、ダナンが速かった。黒く大きな石版と手のひらほどの大きさの白い石を持ってくると、黒い石版に白い石で図を書き始めた。
「平たく言っちゃうと、ユピトの言うことは間違ってないんだけどさ……」
ダナンが書いたのは、神と人の関係図だった。
「ユピトが言う〝便利な力〟は〝加護〟のことだね。加護を授けてもらうには、神様を信仰する必要がある。神様を信仰するということは、その神様の〝子〟になるということなんだ」
例として書かれたのは、火の神とその〝子〟になる人間だ。一人しか書かれていなかった人間の隣に二人の人間が追加され、その下に〝親子〟と注釈が書かれる。
「神様の子になるには、血の証明をしなければいけない。それは自分の血が誰から受け継いだものかという証明なんだ。おれたちは大人になると同時に、どの神様を信仰するか決める。そのとき、聖堂で血の証明をするんだ」
血の証明。それは聖堂で行われる。
聖堂には裁きの神の〝子〟が天秤を携え控えている。その天秤に、信仰対象の神の祝詞を唱えながら、自分の血と二親の血を垂らさなくてはならない。垂らされた血を揺らして混ぜ合わせながら、裁きの神の〝子〟が祝詞を唱える。すると、裁きの神を通して信仰対象となる神が聖堂に姿を現す。
「でもね」
ダナンは石版に書き込む手を止め、二人を振り返った。
「神様は、嘘を嫌うんだ。どんなに醜く残虐な行いよりも、嘘を嫌う。偽りは、重罰だ」
血に偽りがあれば、神より賜るのは加護ではなく呪いだ。神から受けた呪いは、己が死ぬまで消えることはない。場合によっては、呪いによってその場で命が潰える。
「〝子〟になるには血の証明以外にも、結構な額のお金が必要らしいよ。まあこれは気持ちだって聞くから、大した額じゃないかもしれないけど……」
ダナンの話を聞きながら。ユノは本の表紙に描かれた神獣の絵を見ていた。神獣は黒い毛並みと金色の瞳を持ち、額には大きく鋭い角が生えている。
ユノはちら、とユピトを見た。ユピトはユノに気づかず、ダナンの話に真剣に聞き入っている。その横顔を見つめ、ユノは王都で出会った兵長の青年を思い出した。
「王都に行ったとき、兵長のお兄さんに獣を追いかける人の話を聞いたの。奥さんを獣に連れて行かれたんだって」
神と加護についてユピトに説明し終えたダナンは、ユノの話に「ああ」と何か納得したようにうなずいた。
「神獣が悪い奴かどうか聞いたのって、それが理由?」
それだけが理由ではなかったが、ユノは「そう」とうなずいておいた。ダナンは「うーん」と腕を組んで記憶を探る仕草を取った。
「神獣を討伐した兵士の話は有名だけど、神獣が女の人を連れ去った話、おれは知らないなぁ。それなりに本は読んでるけど、どの本にもそんな話はなかったと思う」
「そっか……」と安心したような納得いかないような不思議な顔でうなずくユノを見て、ダナンは「からかわれたのかもしれないね」と優しく笑った。それを聞いて、ユピトが「ひどい奴だな!」と憤慨する。普段滅多に怒ったりしないユピトがぷんすか怒る様子を見て、ユノはついくすっと笑ってしまった。
「ダナンが言うとおり、からかわれただけかも」
「ユノはいい奴なのに、そんな嘘でからかうのはだめだ。やな奴だ」
「でもその人、忠告もしてくれたよ。わたしの目がね、金色に見えるから気をつけろって。金色の目は、神獣の目と同じ色だって言うの」
「ああ、それは言われてるね。ユピトもフラウスで散々言われたんだっけ」
黒い髪。金色の目。牙のように発達した獣の歯。
二人からの視線を一身に受け、ユピトは居心地が悪そうにもじもじした。小さな声で「でも」と呟き、照れくさそうに口角を上げた。
「でも……もう、気にしてない」
金色の目が、ユノを捉えた。ユノを見つめたかと思えば、金色の目は恥ずかしそうに伏せられた。
「おれの金色の目、ユノが、お日様みたいだって、言ってくれたから」
見る見るうちにユピトは耳まで赤くなった。ユノもつられて照れてしまい、頬がかぁっと熱を持った。二人の様子を見て、ダナンは「いい表現だね」と優しく笑っていた。
突然、バタンと大きな音を立てて戸が開いた。続いて「ダナン!」と呼ぶ大きく太い声が響く。家主であり父であるヤラィの声だ。書斎兼研究室に入ってきたヤラィは、ぐっしょりと雨に濡れ、白く長い髭から雫が滴っていた。
「畑へ行く。お前も来い」
そう言い残し、ヤラィはダナンの返事も待たず部屋を出る。ダナンは慌てて「はい!」と返事し、黒衣を脱いで椅子の背もたれに引っかけた。
「ごめん、二人とも。大した話はできなかったね。また今度、勉強しよう!」
こうして、勉強会はお開きとなった。
雨が降る中、二人はてくてくと歩いていた。ユノの隣を歩いていたユピトが、ぽつんと呟く。
「ユノも、太陽みたいだ」
突然の例えにユノは「どうして?」と尋ねた。自分のどこが太陽か、と考えてみても、ユノの頭に浮かぶのは自分の榛色の瞳くらいだ。「目が金色に見えるから?」と聞き返せば、ユピトは小さく首を振った。
「そうじゃ、なくて……」
困ったような、恥ずかしそうな顔で、ユピトは言い淀む。金色の瞳が揺らぎ、すすす、と視線が逸らされた。ユノは急かしたりせず、ユピトが自分から続きを言うのを待った。ユピトはたっぷり間を開けてから、ゆっくりと口を開いた。
「ユノは……おれも知らないような、おれのいいところ、おれより上手に見つけてくれる」
金色の瞳が、ゆっくりユノへと向けられる。はにかんだ笑みを浮かべながら、ユピトはまっすぐユノを見つめた。
「夜は暗くて見えないものも、太陽が昇れば見えるようになる。ユノはおれに朝を連れてきてくれる、太陽みたいだ」
ずいぶんと詩的な表現に、ユノは照れてしまった。先ほどまでのユピトのように、目を逸らしながら「ユピトはほんとにいい子だもん」と小さな声で呟く。ユノから褒め返され、ユピトは大いに照れた。恥ずかしそうに頬をかきながら「ユノもいい子だ」とまた褒め返す。
次第に二人の褒め合いは熱が入り、「そんなことない」「そんなことある」と言い合いさながらの勢いになっていった。道の真ん中で立ち止まり褒め合いを繰り広げる二人を、荷物の配達をしていたカルウィンが見つけた。
荷物を抱えたカルウィンは、一瞬とてつもなく奇妙なものを見つけたような表情をしたが、すぐしかめ面になり、「道の真ん中で気色悪いことしてんじゃねえ!」と二人を一喝した。カルウィンの声に驚いた二人はぴょんと跳び上がり、慌ててカルウィンに道を譲った。カルウィンは鼻息荒く通り過ぎようとしたが、足を止めユノを振り返った。
「ユノ、お前今から帰るよな? これ持って帰れよ」
カルウィンが抱えていた荷物を差し出され、ユノは手を差し伸べた。木箱の底へ手を添えながら「なぁに、これ?」と尋ねるユノに、カルウィンは短く「エオロさん宛てだ」とだけ答えた。
「おい、絶対落とすなよ。ちゃんと持てるか?」
カルウィンが手を離そうとした瞬間、ユノは荷物を持ったまま前のめりに倒れそうになった。すかさずユピトが支え、「おれが持つ」と言って木箱を持とうとする。ユノは「平気」と首を振るが、誰が見ても平気そうではない。
「ユノにこの箱は重すぎる。……から、おれが持つ」
「平気だよ、大丈夫。ユピトだって今日は疲れてるでしょ? お勉強したし、お手伝いだってしたし」
「あれくらい平気だ。だからおれが箱を持つ」
「大丈夫だよ、わたし一人で持てるから――」
言い合う二人を遮ったのは、苛立ちが最高潮に達したカルウィンだ。「だー!」と叫んだカルウィンは「二人で持て!」と怒鳴った。
「つまんねーこと言い合ってねーで、二人で持ちゃいいだろ!? おらっ、手ぇ出せ二人とも!」
カルウィンにそう言われ、二人はさっと手を出した。
ユノとユピトの手が木箱を支えたのを見ると、カルウィンは「ったくよぉ!」と荒々しく舌打ちを残して「じゃあな!」と去って行った。
木箱は、二人で運ぶことになった。
よいしょ、よいしょと声を掛け合い、二人はユノの家まで雨に濡れながら歩いた。簡素な外套は着込んでいたが、距離と時間のせいでずぶ濡れになってしまった。
濡れ鼠になって木箱を運んできた二人を出迎え、驚いたオセルは慌てて二人を乾いた服に着替えさせ、温かいスープを飲ませた。
夏の終わりに二人が風邪を引いたのは、言うまでもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます