六一七年 秋の二節

 収穫祭は、一年で最も大きな祭りだ。秋も二節を迎え、収穫祭当日。ウィリデの民は一層準備に力を入れていた。

 〝婦人会〟はウィリデ中に振る舞う料理を、ラグの家で用意していた。この日はユノも朝から準備を手伝い、運び込まれる食材や人手の差配をしていた。


「すごい人だね」


 運び込んだ作物を指定された場所へ下ろしながら、感心したようにダナンが言う。重いものを運んでもらった礼を言いながら、ユノは「そうだね」とうなずいた。


「でもまだ人手が足りないのよ。どんどん運んでもらいたいのに」


 こう言ったのは、フェオの妻だ。


「運びたくとも人手が足らん!」


 こう言ったのは、食材の運搬を仕切る木こりだった。ユノとダナンは顔を見合わせ、姿が見当たらないカルウィンとユピトを駆り出そうと決めた。


「じゃあ、カルウィンとユピトを呼んできます。ユノ、行こう」

「えっ。わ、私も?」

「何だかんだカルウィンはユノとユピトに甘いからさ」


 ダナンはそう言って笑うと、ユノを連れカルウィンの家へ走った。カルウィンは家に居るのかなと首を傾げながら、ユノはダナンの後ろを走った。

 カルウィンの家ことフェオの店に着き、開け放たれた入り口に向かって「カルウィン」と二人で呼びかけた。しばらくして、のっそりとカルウィンが出てきた。その顔は渋く歪められている。驚いた二人が「どうしたの?」と尋ねると、カルウィンはむすっとしたまま「門が開かねえ」と答えた。


「何でだか知んねーけど、警備兵長のお達しでウィリデから出ちゃなんねーんだと。アキルスからの荷物が届くってのに……」


 ぼやくカルウィンにダナンが「それは困ったね」と思案顔で返す。何だか嫌な予感がする、と口にせずユノが思っていると、ユピトが血相を変えてやってきた。


「お、親父が、連れてかれた……!」

「連れてかれたって……誰に?」

「チャルチ、さん……たちに」


 ユピトが言うには、見たことのない顔ぶれを引き連れたチャルチが突然家に押し入り、カンテを連れて行った。ユピトには目もくれず、カンテだけを罪人のような扱いで連れ去ったと言う。


「何だってカンテさんを……」

「連れてったってことは、詰め所か?」

「広場って、言ってた」


 ユピトが答えるのとほぼ同時に、高らかな笛の音が響いた。空気を震わす異様に大きな笛の音にユノたち三人は思わず耳を塞いだが、ユピトだけは耳を塞がず「広場だ」と呟いた。駆け出すユピトの背を、三人は慌てて追いかけた。

 駆けつけた四人は、広場の様子を見て立ち尽くした。ついさっきまでのお祭り気分はどこへ行ったのか、物々しい空気が漂っている。ウィリデの民は、輪を作るように、遠巻きに広場の中心に視線を注いでいる。広場の中心には、この空気を作り出している張本人であるチャルチと見慣れない男たち、そしてカンテがいた。

 チャルチも男たちも、地味な色の胴着を身につけている。胴着の胸元には、銀色に輝く小さな記章がある。腰のベルトには細長い剣と、ナイフが提げられていた。

 チャルチは手を後ろで縛られ、膝をつかされていた。立ち上がれないよう、二人の男たちがカンテを押さえている。

 カンテを見たユピトは男たちへ飛びかかっていこうとしたが、カルウィンとダナンによってそれは阻まれた。


「おいおいおい、何する気だユピト。落ち着けよ!」

「様子がおかしいよ。まだ縛られてるだけなんだ、様子を見よう!」

「で、でもっ……でも!」


 ユピトがそれ以上何か言うのを遮るように、チャルチがよく通る声を張り上げた。


「これより、神獣の仔を連れ脱走した元王国兵団員の公開尋問、及び処刑を執り行う!」


 どうやら、男たちは王国兵団より使わされた者であるらしい。チャルチの台詞に続いて前へ出た一人が、一通の書状を掲げ見せた。広場での様子を見守る一人ひとりに見えるよう、ゆっくりと広場を回る。もちろん、四人にもよく見えた。

 書状の最後に記された名前は、紫の光を放っている。それを見たダナンは驚き、小さな声で誰に聞かせるでもなく呟いた。


「あれは、王家のサインだ。光ってる。本物だよ……」


 それが聞こえたのか、チャルチは満足げに笑うとを始めた。


「偽名も名乗らず過ごしてたなんて驚いたぜ、王国兵団東支部部隊長、カンテさんよ。さあ、質問に答えてもらおうか」


 なぜ脱走したのか。なぜ神獣の仔を連れ去ったのか。神獣のそばで転がっていた女性の亡骸は誰が殺したのか。神獣の仔を、どこに隠したのか。

 カンテはどの問いにも答えなかった。答えないたびに、見知らぬ男――王国兵団員の誰かがカンテを殴りつけた。殴られ顔が腫れ上がっても、血が流れても、カンテは自分を殴った兵団員を見もせず、チャルチだけを見ていた。

 自分を見るカンテを、チャルチは嘲り笑った。


「何だ? 言いたいことがあるなら早く言ってくれ。俺だって、こんなことさっさと終わらせたいんだ」


 チャルチを見つめたカンテは、何かを思い出したような顔で、ようやく口を開けた。


「お前は、母親じゃなく父親似だな」


 カンテの一言で、チャルチのこめかみに青筋が浮かんだ。チャルチの足がカンテの顎を蹴り上げる。倒れなかったものの、カンテはチャルチの蹴りに仰け反った。

 石畳に血の赤が散る。

 チャルチによるこの蹴りを皮切りに、兵団員たちによる暴行が始まった。兵団員たちは、カンテを屈服させるために拳や足を使う。それを止めもせず、チャルチはを続ける。


「あんたの足取りは常に東へ向かってた。東の果てを目指してたのか? 神獣の仔を連れて、神の国へ行くつもりだったのか? 力があるだけの獣が、神々に受け入れられるわけねーだろうが!!」


 チャルチの足が振り上げられ、カンテの腹へとめり込む。カンテが血反吐を吐いて倒れても、兵団員たちは構わず暴力を振るい続ける。

 もうやめてと叫んだのは、リリだった。その隣でルルが顔を覆って泣いている。男たちの幾人かがリリに同調し、カンテを離すよう訴える。

 ユノは、目を覆い広場での惨状から目を逸らしていた。そばでユピトを押さえるカルウィンたちが、切羽詰まった声を上げる。


「王国兵団だぞ、書状も見ただろ! 飛び込んでぶっ倒したって、罪に問われるのはお前なんだからな!」

「だけど、親父がっ」

「わかるけど、今飛び込むのはまずいよ! 落ち着いて、打開策を考えようユピト!」


 ユノは、剣が鞘を滑る音を聞いた。警備兵たちの訓練の様子を十年近く見ていたユノは、その音を聞き違えたりしない。一体誰が、とユノは目を覆うのをやめた。

 剣を抜いたのは、チャルチだった。カンテを助けに入ろうとしていたユピトが、動きを止める。


「親父に、何すんだ」


 かすれた声が、チャルチに問うた。聞こえているかのように、チャルチが口角を上げる。剣が振り上げられたかと思うと、剣はまっすぐカンテに向かって振り下ろされた。

 蹴り上げられた時とは比べものにならない血が、石畳に飛び散った。カンテが低く呻く。血溜まりが広がっていく。広がる赤の中に、カンテの耳が落ちていた。

 獣の咆吼が、広場と言わずウィリデ中に響き渡った。吼えたのはユピトだった。ユピトの額からメリメリと音を立てて角が生え、常に巻いていた包帯がはらりと落ちた。

 カルウィンとダナンが思わず手を離すのと同時に、弾けるような音と目を覆わずにいられない強い光が炸裂した。その眩しさに、誰もが目を覆う。目を覆ってなお目を刺すような光は、瞬きほどの時間で消えた。

 ユノがこわごわと目を開けると、ユピトの姿はそこになく、代わりに、雄牛ほどの体格をした黒い獣が広場に飛び込んでいくところだった。獣の額には一本の角があり、その角は青い光をまとっていた。

 空がにわかに曇り始め、ユノたちの耳に馴染みのない音が鳴り響く。

 空が光った。稲光だ。それからわずかに遅れ、より大きな音が響き渡る。

 雷鳴だ。

 この十七年、一度として聞かなかった雷鳴に子供たちは怯えて震え上がり、大人たちは目の前の獣が神獣であると悟った。

 鋭い音と同時に、地面が震えるような音が響く。どこかに雷が落ちたのだろう。それが合図だったかのように、ウィリデの住民たちが逃げ始めた。子供を抱え、大人たちが家へと逃げ込む。反対に、チャルチたち兵団員は微動だにせず神獣ユピトを見据えた。兵団員たちがチャルチだけを残し、カンテを引きずり先ほどまでウィリデの民が輪を成していた場所まで下がる。

 広場に残ったチャルチが、剣を構えた。


「道理で気に食わねえと思ってたんだよ、その獣の目!」


 ユピトがチャルチに向かって飛びかかる。チャルチは構えた剣でユピトに斬りかかった。


「ユピト!!」


 ユノが心配のあまりユピトの名を叫ぶ。ユピトはチャルチの剣を避け、伸ばしきってしまったチャルチの腕に噛みついた。一抱えもあろう頭だ。そこにずらりと並ぶ牙は大きく鋭い。チャルチの腕にぎちぎちと食い込んだ牙は、そのまま、チャルチの剣腕を食いちぎった。

 腕をもがれても、チャルチは動じなかった。反対の手で腰に差していたナイフを抜くと、躊躇なくユピトの首へ振り下ろした。ナイフはまるで爪楊枝のように頼りなく、ユピトの首に突き立てられた。それでも、ユピトに十分な痛みを与えたらしい。ユピトは吼え、チャルチごとナイフを振り払った。チャルチが吹き飛ばされると同時にユピトは跳躍し、チャルチから距離を取った。

 石畳に転がったチャルチは、起き上がるが早いか、石畳を蹴ってユピトとの距離を詰めた。残った非利き手にはナイフが握られ、切っ先はユピトに向いている。ユピトを殺すつもりだと、ユノにはわかった。ユノが踏み出す気配を察し、カルウィンとダナンがユノを取り押さえようとする。その腕を掻い潜り、邪魔立ては許さんとばかりに立ち塞がる兵団員たちの足下を転がりくぐり抜け、ユノは広場に飛び込んだ。


「ユピトを殺さないで、私の夫を殺さないで!!」


 ユピトを庇うように飛び出したユノを見て、チャルチは一瞬、足を止めた。ユピトは目の前に現れたユノの服を噛むと、宙に放り投げ、背中で受け止めた。そしてチャルチの脇を駆け抜け、いつでもチャルチの援護に入ろうと構えていた兵団員たちの前まで走る。

 ユノを背中に乗せたまま、ユピトは兵団員たちが突き出す剣をすべて避けた。そして、手当てもされず引きずられ転がされたカンテを口にくわえた。ぶらん、とカンテの腕が垂れ下がる。ユピトはカンテをくわえ、ユノを乗せ、広場を突っ切った。

 雨雲から、ぱたぱたと雨粒が落ちた。ユピトが獣へと姿を変えてから鳴り通しだった雷は、未だごろごろと響き続けている。ユピトはウィリデを駆け抜け、塀を跳び越え、森に入った。森に入ってもなお走り続けたユピトは、ユノが「カンテさんの手当てを」と息も絶え絶えに言ったことで、ようやく足を止めた。

 立ち止まったユピトからユノが下りると、ユピトはいつもの姿に戻った。そして動かないカンテを柔らかな草の上に横たえ、手当てを始めた。

 横たわったカンテの様子を素早く確認したユノは、膝をついて自分の白い前掛けを引き裂きながら、ユピトに指示を出していく。


「ユピト、そこ押さえて! これっ、包帯代わりにするからっ……」


 まずは二人がかりで止血を図る。ユノに倣って膝をついたユピトは、目を開けないカンテに必死に呼びかけた。


「親父。死ぬなよ、なぁ、親父!」


 裂いた前掛けで作った即席の包帯で、傷口を圧迫していく。すべての傷を止血し終える前に、カンテはうっすらと目を開いた。だが、殴られ蹴られ、腫れ上がった顔では視界は広くない。腫れた唇で、カンテはユピトを呼んだ。口の中も切れているのだろう。ゆっくり話していても、カンテの言葉は耳を澄まさなくては聞き取れない。


「お前に話すのは、これが最初で最後だ」


 ユノちゃんには話したけどな、とかすれた声で笑いながら、カンテは今までユピトに明かさなかった出生を告げた。


「お前は人じゃない。半分は、神の血が流れてる。だから、東へ行け」


 東へ行けば、神々がいる。嘘を嫌う神々は、本当のことを知っている。ユピトが青い神獣の血を引く者だとわかれば、迎え入れてくれる――はずだと、カンテは語った。ユピトはそれを、静かに聞いていた。カンテの手を握り、一言も聞き逃すまいと真剣に耳を傾けていた。ユピトの頬を、後から後から涙が伝う。カンテはまたかすれた声で笑った。


「本物の父親じゃなくて、悪かったなぁ」


 ユピトは首を振ってそれを否定した。


「親父は、親父だ。俺の親父は、カンテだけだ」


 ユピトの台詞を聞き、カンテはにやっと笑った。


「お前と〝家族〟でいるのは、悪くなかったぜ」


 薄く開けられていた目が、すっと閉じた。ユピトが「親父?」と細い声で呼びかける。返事は、ない。ユノがそっと手をかざす。カンテの呼気は、どれだけ待っても感じられない。カンテは息絶えていた。

 しばらく、ユピトはカンテの手を離さなかった。ユノは何も言わず、ユピトに寄り添っていた。

 しかし追っ手は二人に心を落ち着ける時間も与えない。ユノの耳でも、チャルチが兵団員たちに指示を出す声が聞こえた。ユピトは悲しそうな顔をすると、カンテの手をそっと離した。物言わぬカンテに「ごめん」と呟き、ユピトは立ち上がった。


「俺、東に行く」


 ユノも慌てて立ち上がり、ユピトの腕を取った。


「私も行く。連れて行って」


 ユピトは困った顔をして、ユノの手を腕からはずそうとした。だがユノはユピトから離れようとしない。お願い、とユピトに縋りついた。


「私、ユピトの妻だよ。二人で幸せになろうって、言ったでしょ。二人だよ。私たちは、二人なんだよ」

「でも……俺は、人間じゃない。人間じゃないんだ」


 苦しげな顔で、声で、ユピトが言う。ユノは首を振った。そんねことは関係ないと、ユピトはユピトだと。


「ユピトはユピトだよ。私の夫だよ。私の、私のユピトだから……」


 お願い、とユノは泣いていた。ユピトの腕に縋り、何度も「お願い」と呟いた。


「置いてかないで。一人にしないで、ユピト」


 ユピトは返事をしなかった。神獣に姿を変えたユピトを見て、ユノはさらに大きな涙をこぼした。置き去りにされると思い泣くユノを、ユピトは背中へ乗せた。そして走り出した。だが向かう先は東ではない。

 森を抜け、町を抜け、ユピトは風よりも速く走った。髪をなびかせる風に、潮の匂いが混じる。ユピトが向かったのは、ルベルの町だった。祭りの時期ということもあり、ルベルに人通りは多かった。ユピトの姿を見て人々が悲鳴を上げる。だがユピトは神獣の姿のまま、目的地まで一直線に走った。

 目的地らしい小さな家の前に着くと、ユピトはユノを下ろした。人の姿に戻らず、獣のままユノを家の軒先へ押し出す。


「兵長のにおいがする。ここは兵長の家だ。兵長なら、ユノのこと……守ってくれるから」

「待って。どうして? 置いてかないで、ユピト!」


 ユノは手を伸ばし、ユピトの黒い毛並みを掴んだ。縋りつこうとするユノを見て、ユピトは一瞬、悩む様子を見せた。身を引き裂かれるような顔も、ユノに見せた。だがユピトは、ユノの手からするりと逃げた。


「……ごめん」


 ユピトは地を蹴り、空高く飛び立った。雨が一際強くなる。ユノはユピトを見失うまいと、その姿を追い走った。だが、ユピトはぐんぐんと高く飛び、やがて姿は見えなくなった。

 ユピトを求めるユノの声は、雷鳴にかき消された。

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