六二〇年 秋
三年の時が過ぎた。あれからユノは、ルベルに残りマナズの家で世話になっていた。マナズは近隣の住民にユノを我が子として紹介した。ユノはそれを否定せず、人前ではマナズを父と呼んだ。
三年の月日の間に、ウィリデは様変わりしたらしい。
まず、ダナンが王都へ行った。そして王都で嫁をもらい、ヤラィに次ぐ農学者として頭角を現している。ユノがルベルにいると知り、一番に手紙を出したのがダナンだった。カルウィンの結婚が近いことも、ユノはダナンからの手紙で知った。
ダナンの父ヤラィは年を理由に役を引退し、今は商人フェオと新参の医者、そして王都より派遣された警備兵長が三役を務めている。この警備兵長が、ユノを探していると手紙で伝えたのはカルウィンだった。
チャルチはユピトを追い、剣腕をなくしたまま王国兵団員を連れて東へ消えた。その後釜としてやってきた警備兵長は小太りで、やけに卑屈な態度を取りながら隙を窺うように他人を見る、嫌な男だそうだ。その警備兵長が、収穫祭をめちゃくちゃにされて憤っていたウィリデの民に、王家の紋章が入った書簡を見せたそうだ。そこには「今回の沙汰を不問にせよ」と記され、ウィリデの民は黙るほかなかった。
カルウィンの手紙には、この警備兵長が「ユピト、ユノなる者がウィリデに戻ってきたら隠さず報告するように」とウィリデ中に触れ回ったとあった。ダナンからの手紙にも、ユノにウィリデへ戻らないよう書かれていた。
ユノは両親を失い、夫を失い、帰る場所も失った。
寄る辺もなく故郷にも戻れないユノを気遣い、マナズはしきりに縁談を持ちかけた。それはルベルの漁夫であったり、船乗りであったり、商人でもあった。よく働くユノを、ルベルの住民たちは悪く思っていなかった。だがユノは、首を縦に振らなかった。
「私は、ユピトの妻ですから」
ユノが静かにそう答えるたび、マナズは何か言おうとする。だが、口を二、三度開閉するだけで、結局何も言わない。力なく「そうか」とうなずき、しばらくはユノに縁談を持ちかけなくなる。ユノはマナズに申し訳なく思いながら、どうしても、ユピトとの契りをなかったことにするのは嫌だった。
三年間、ユノは老いた父を支える娘として、ルベルで過ごした。四季の祭りが執り行われても、手伝うだけで楽しみはしなかった。同じ年頃の娘たちに誘われても、ユノを好ましく思う青年から誘われても、ユノは申し訳なさそうに首を横に振り、家へ帰った。遠く聞こえる祭りの音楽や笑い声を聞くともなく聞きながら、家の中の細々したことを片付けていった。
ルベルの誰もがユノへの縁談話を諦めた頃、夜空に大きな満月が浮かんだ。その日は何を行うにも良いとされる日で、マナズの弟の息子が結婚式を挙げた。ルベルに住まう皆が出るんだぞとマナズに言われても、ユノは遠慮して家に残った。
掃除をしていても、洗濯をしていても、台所に立っていても、結婚式の楽しげな音楽は聞こえた。その日の結婚式は、遅くまで続いた。
夜遅く、満月が空高く昇っても、音楽が止む様子はない。こんなに長く楽しんでいる式ならば、マナズはたっぷり酒を飲まされているだろう。酔い覚ましの水をと用意して待っていると、控えめに扉を叩く音が聞こえた。普段のマナズならば自宅の戸を叩いたりしないが、酔って普段と違う行動を取っているのかもしれない。そう思ったユノは、玄関へ行き「はい」と返事をしながら戸を開けた。
そこには、ユピトが立っていた。
ユノは声も出せず、ユピトを見上げた。ユノにじっと見つめられ、ユピトは言葉を探すように目を泳がせる。ユノは、これは夢ではないかと疑った。夢か現か確かめたければ、何をすれば良かったか。痛みを感じれば現だったかしらとユノが自分の頬へ手を伸ばしかけたとき、夜の静かな空気を、怒号が揺るがせた。
「ユピト、おめぇユノ坊放ってどこ行ってやがった!」
「いってぇ!!」
ユピトが声を上げたのは、マナズがユピトに酒瓶を投げつけたせいだ。素焼きの器は幸いなことに軽く、ユピトは背中をさする程度の痛みで済んだ。マナズの怒号と酒瓶が割れる音の大きさに、ユノは今日が結婚式で良かったと心の中で安堵の息をついた。もしも今日が何もない日だったら、今頃近隣住民が何事かと起き出し、注目の的になっていた。
ユノがそんな風にホッとしていることなど知らず、マナズは怒りが収まらない様子でユピトを睨んでいた。怒り心頭といった様子のマナズは、振り向いたユピトに大股で近づくなり、ぽかぽかと殴りつけた。
殴りつける力は弱い。それが年を取ったせいか、加減をしているせいか、ユピトには判別がつかない。
ユピトは寂しそうに顔を歪ませ、自分を殴りつけるマナズの手を取った。
「今日まで……ユノを守ってくれて、ありがとう。兵長」
「もう兵長じゃねえ、何年も前のことだろうが!」
マナズは泣いていた。泣いたまま、ユピトの手を振りほどき再び殴ろうと腕を振り上げた。高々と上げられた手は、ゆっくりと下ろされた。
ユピトは再びユノに向き直った。
「ユノも……ごめん、待たせて」
榛色の瞳は、涙で揺れていた。大きな涙を幾粒も落とし、ユノは声を詰まらせた。
「ま……待って、たの。待ってたよ。ユピトは、絶対、迎えにきて、くれるって……」
落ちる涙を拭い、こすろうとするユノの手を、ユピトはそっと握った。金色の瞳がユノを映すのは、三年ぶりだ。この瞬間が夢であったらと考えるだけで、ユノの目からは新しい涙があふれる。ユピトは空いた手で、ユノの涙を優しくすくい取った。
「待たせて、ごめん」
「謝らないで」涙をこぼしたまま、ユノは首を振った。「また、離ればなれになっちゃうみたい」
「ならない」
そう言ったのは、力強い声だった。力強い手が、ユノの両手を包んだ。最後に触れたときと変わらない、硬く、優しい手だった。「もう二度と離れない」と言って、ユピトはユノに、ともに東へ来るよう乞うた。
「俺と一緒に、東の果てまで、来てくれるか?」
夫婦になろうと言われたあの日と同様、ユノにうなずく以外の選択はない。声も出ず何度もうなずくユノを見て、ユピトは神獣へと姿を変えた。マナズは驚きもせず、ユノがその背中に乗るのを手伝った。ユピトの黒い毛並みにしがみつき、ユノはマナズへこの三年間――ウィリデにいた十年前からの礼を言った。
「ありがとう、マナズさん。今まで、何度も何度も……ありがとうございました。恩を返さなくてごめんなさい。あなたの娘でいられなくて、ごめんなさい」
「馬鹿言うな、娘はいつか出て行くもんだ。そんなこと気にするな。いいか、幸せになれよ。なるんだぞ。二人一緒にだ!」
マナズが涙で声を詰まらせる。ユピトは獣の姿のまま、必ずユノを幸せにすると誓い、大きくうなずいた。
「絶対、幸せになる。ユノと二人で。兵長……マナズさんも、お元気で」
今度は、マナズが大きくうなずいた。老いたマナズの目と、ユピトの金色の目が何かを語り合うように交叉する。二人はもう一度、うなずき合った。
ユピトが地を蹴った。ユノを乗せた体は宙へ飛び立ち、ぐんぐんと上昇する。ルベルの地で、マナズは二人に手を振った。その姿が豆粒ほどになって、見えなくなるまで、ユノはマナズへ手を振り続けた。手を振る間、ユノの目から涙は止まらなかった。
マナズが見えなくなると、ユノはユピトの毛並みに顔を埋めた。ユピトにしがみつく手は震えていた。そして声も、震えている。
「もう置いてかないで。絶対に、離れないで」
「置いてかない。ずっとずっと、ユノといる」
マナズに手を振り流した涙は、惜別の涙だった。だが今ユノが流しているのは、幸せの涙だった。もう離れないと約束する声の優しさが三年前と――十年前とちっとも変わらないことに安堵し、喜び、ユノはぎゅうとユピトに抱きついた。
こうして二人は、神が住まうとされる東の果てを目指して旅立っていった。
その後の二人がどうなったかは、マナズも、カルウィンも、ダナンも、ルベルの民もウィリデの民も誰も知らない。だが、ユピトたちを知る者は雨が降るたびに空を見上げる。そして雷が鳴り響くたび、安心したような、嬉しそうな顔をする。
「二人はきっと――」
そこから先を口にする者はいない。だが思うことは皆、同じだった。
二人はきっと、幸せに生きている。
神の仔人の子獣の仔 雲晴夏木 @kumohare72ki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます