青年期

六一七年 春の一節

 六一七年、春の一節。

 この日、商人フェオの音頭取りによって春の祝祭が執り行われた。この年の春の祝祭は、ウィリデ警備兵長のマナズを送り出す会も兼ねていた。

 続々と広場に集まるウィリデの民と飾り立てられる中央広場を見て、マナズは「見納めだな」と寂しそうに呟いた。その隣では、十七になったユノが立っていた。〝お母さん連合〟改め〝婦人会〟から、マナズを主賓席へ案内するよう言われたのだ。


「俺が腰をやられなきゃあ、まだまだウィリデを守ってくつもりだったんだがなぁ」

「腰をやられたら剣も振れないって、お医者様が言ってましたよ」

「エオロ先生だったら、湿布なり何なり処方してギリギリまで働かせてくれただろうに」


 ぽつりと呟かれ、ユノは榛色の目を伏せた。マナズがハッと気づいて気まずそうに目を逸らす。ユノは少し困った顔をして、マナズを主賓席へ促した。

 両親を失ったユノは、マナズたち警備兵の身の回りの世話をして日々の糧を得ている。男所帯で寝泊まりするわけにはいかないため、子供を独り立ちさせた卵屋のラグが、居候という形で住む場所を提供した。

 マナズを筆頭とした警備兵たちは、ユノを我が子、もしくは妹のように大事にした。特にマナズは子供と妻を失っているからか、亡くした子供と同じ季節に生まれたユノを、我が子のように扱った。

 そのユノが、ある日マナズに届いた大きな木箱を運ぼうとしていた。それを見たマナズは自分が運ぶと言って木箱の前に立った。その箱が、マナズの腰に一撃を与えた。

 五年前に着任した医者の診察で、マナズは重いものを持つことに制限がかかってしまった。この重いものには、剣も含まれる。剣を振るえない者が指揮を執るなど、叩き上げのマナズにとっては言語道断だった。自分の年齢と機敏に動けない兵長を抱えるウィリデの安寧の如何を考え、マナズは引退を決意した。

 そして今日この日が、マナズがウィリデを去る日だ。引退の日を春の祝祭と決めたのは、ユノたち四人の〝成人〟を見届けたかったからだ。

 二親のいないユノと片親のユピトは神からの加護を授かれないが、十七であれば成人として数えられる。六一七年、二人は数えで十七になる。

 また、カルウィンとダナンがこの日加護を授かる予定だった。それを見届けさせてくれと、マナズは今や二役となったフェオと農学者ヤラィに頼んだのだ。

 マナズが主賓席に座り、フェオが春の祝祭の始まりを告げた。火の神と風の神に春の訪れを感謝する祭りだ。二柱への贈り物が捧げられ、両柱が姿を現す。暖かな春風がウィリデの民の頬を撫で、髪をたなびかせる。

 ウィリデに、本格的な春が訪れた。


 祝祭の最中さなか、マナズはそっと席を立った。痛む腰を庇うせいで足取りがぎこちない。ユノも人々の輪から外れ、マナズを支えるためそばに駆け寄った。マナズは「じいさん扱いしないでくれ」と困った顔をしたが、ユノは「お父さんが生きていたら、手助けさせてもらえって言うはずですから」と苦笑を返した。

 マナズを追って祝祭から離れたのはユノだけではなかった。

「兵長!」とかすれた声が二人の足を止める。かすれた声の持ち主はユピトだった。ユノと変わらなかった背丈はぐんと伸び、今ではユノを見下ろすほどになった。

 日々の鍛錬により体格も良くなったが、逞しさよりもしなやかさを感じさせる。成人前から、ユピトはカンテとともにヤラィたちの護衛や怪物の討伐に主力として参加している。お陰でユピトの体にはあちこち傷が増えていた。ユピトの外見で今でも変わらないのは、黒い髪、金の瞳、額の包帯だけだった。


「兵長、もう行くのか? ユノたちが作った飯、まだまだ出てくるのに」

「はは、お前こそいいのかユピト? ユノ坊が作った飯なら、腹がはち切れても食いたいだろうに」

「はち切れるくらい食いたいけど、兵長の見送りも大事だ」


 そう言って、ユピトもマナズの隣に並んだ。二人に挟まれたマナズは「二人してじいさん扱いかよ」と不満げな声を上げるが、表情はそう悪く思っていないようだった。

 マナズの隣を歩くユピトを見て、ユノは「もしお父さんたちが生きていたら」と考えた。


 ――もしお父さんたちが生きていて、私がまだ医者の娘のままだったら。


 ユノは自分の思考に苦笑し、首を振った。もしもなんてものはない。あるのは今だけだ。あの日に戻ることはできないし、起きた出来事は変えられない。「もしも」「なら」「だったら」なんて、考えるだけ時間の無駄なのだ。

 自分にそう言い聞かせ、ユノは門への道を歩いた。

 石畳を歩いていると「おおい」と誰かが声をかけた。穏やかな、優しそうな声だった。続いて「待て待て、置いてくんじゃねえ」とぼやく声が聞こえた。少し濁ったような、ざらついた声だった。三人が足を止めると。二人の青年が追いかけてきた。一人は黒衣、一人は派手な色の細身の上着を着込んでいる。

 黒衣を着た優しい声の青年は、ダナンだ。髪型についてとやかく言われない年になった今でも、ダナンの頭はジョリジョリ頭だった。本人曰く「楽でいいよ」とのことだ。

 派手な上着を羽織ったざらついた声の青年は、カルウィンだ。ヤラィに髪を剃られなくなって、カルウィンはフェオと同じ金髪を長く伸ばしたこともあった。十七になった今は、邪魔にならないよう――しかしジョリジョリにもならないよう――短く刈り込んでいる。


「兵長! 俺たちの成人姿、見てくれるんじゃなかったのか?」

「そうだよ、兵長。俺たちつい今し方、加護を授かったばっかりなのに」


 追いついたカルウィンとダナンは、それぞれに唇を尖らせたり苦笑して見せた。二人の様子に、マナズは「いや、なに」と肩を竦めた。


「腰を痛めてから歩くのが遅くなってな。若いお前さんたちを苛立たせないよう、先に行って待ってようと思ったんだよ」


 ほんとかよ、とカルウィンは呆れ顔で頭をかいた。頭へ上げた腕は太く逞しく、ウィリデ一の剣士であるカンテとそう変わらない。商人よりも警備兵に向いた体つきだ。


「乗合馬車は時間が決まってるからね。俺たち、兵長の見送りに間に合って良かったよ」


 穏やかに言ってほかの四人に歩くよう促したダナンも、ユピトやカルウィンと一緒に日々鍛錬に励んでいた。お陰で黒衣の下は学者を目指す者にしては逞しい。

 学者なるものを言葉でしか知らない者は「学者に逞しさは不必要では」と首を傾げるだろう。だが、ユノは知っている。王都ケントラムでも、港町ルベルでも、学会に参加した学者たちは乱闘騒ぎを起こしていた。学者は時に、自分の唱える説が正しいと証明するためには拳を振るわなくてはならないのだろう。少なくとも、このルースという国では。

 仕事や研究を終えては毎夕カンテに扱かれている三人を見て、ユノは「どの職業も腕力がなきゃいけないんだなぁ」と納得していた。


 門の前に着くと、若い警備兵がマナズに対し一つ礼をして、門を開けた。その向こう、かつてマナズが立っていた場所には、古参の警備兵が立っている。十年前、三役がルベルへ行く折に護衛をした警備兵の一人だ。彼もまた、マナズが行く道を空けると彼へ礼をした。門の外へ出ると、マナズは自分に付き添った四人をしみじみと眺めた。


「大人になったなぁ、お前たち」


 目を細め、ユピトたちの肩を力強く叩く。


「ユノ坊を支えてくれたのは、特にお前たち三人だった。俺の後釜がろくでもない奴だったら、お前たち、尻を蹴っ飛ばすんだぞ」


 三人がうなずくと、マナズはユノに向き直り、その肩を壊れ物のようにそっと叩いた。


「ユノ坊、お前はいつでもこいつらを頼るんだ。俺を頼ってもいい。ルベルの方角に向かって俺の名前を叫べば、風がお前の声を届けてくれる。引退する年になっても、加護は健在だからな」


 マナズの優しい声に、ユノは二親を亡くしてからの十年間がぶわりと蘇った。

 ウィリデの民はみなユノを身内のように扱い、育ててくれた。マナズがその筆頭だった。二親を亡くした子は王都の救済院へ送られる。それを防ぎ、生まれ育ったウィリデで生きていく手配をしてくれたのがマナズだ。子が独り立ちしたラグに部屋を貸すよう頼んでくれたのもラグだ。警備兵の身の回りの世話という仕事を与えたのもマナズだ。〝お母さん連合〟を〝婦人会〟と改め、結婚をしていようがいまいがウィリデの行事に参加できるよう働きかけたのもマナズだ。

 ユノにとって、マナズは育ての父と言えた。肩から離れた手を、ユノはぎゅっと握った。


「十年間、お世話になりました」

「よせよ、水くさい。俺は亡くした子にしてやれなかったことを、お前にしてやっただけだ」


 それでも、とユノが口を開く前に、乗合馬車がやってきた。がたごと響く車輪の音にマナズが振り返る。二頭の馬が引く馬車が、ウィリデの門の前に停車した。見知らぬ男たちが軽口を叩き合いながら降車する。馬車から降りたのは若い男二人だけだった。

 別れの時がやってきた。

 マナズは「じゃあな」と四人に手を振って馬車に乗り込んだ。だが痛む腰が足の動きを阻んだのか、それとも単に足が滑ったのか、マナズは段差を踏み外した。四人が「あっ」と声を上げ、ユピトとカルウィンが同時に足を踏み出す。

 だがそれよりも早く、今降車したばかりの若い男が「おっと危ない!」とマナズを支えた。


「これからのんびり隠居生活するってのに、こんなとこで怪我しちゃつまんないぜ」

「ってことは、あんたが俺の後釜の……」

「そうそう。あんたの後釜、新任警備兵長だぜ」


 男はそう言って明るく笑うと、支えたマナズをそのまま座席に座らせた。


「のんびり隠居生活って言ったけど、しばらく手紙やら使いやら出すから、実はまだのんびりさせてやれないんだ。悪いな、マナズさん」

「急に暇になっても困る。適当に忙しくさせてくれ」

「はは、さすが警備兵長。心強い」


 手綱を握る御者が、ぽかんとしている四人に「乗りますか」と声をかけた。ダナンが慌てて首を振ると、御者は戸を閉めるよう言った。戸を閉めたのは、名も知らぬ男だ。御者が馬に鋭く声をかける。ゆっくりと、馬車は次の町へ進み出した。

 マナズは窓から顔を出した。


「ユノ坊を頼むぞ、ユピト! カルウィン、ダナン、お前たちもユノ坊を支えてやってくれ。それから、ユノ坊!」


 遠ざかるマナズは声を詰まらせ、もう一度「ユノ坊」と呼んだ。


「何かあったら頼れ。みんながお前の親だ。みんながお前の兄弟だ。わかったな、ユノ」


 ユノは手を振り続けた。マナズもまた、見えなくなるまで手を振り続けていた。

 馬車が見えなくなると、男が「余韻をぶち壊して悪いんだけど」と四人に向き直った。


「俺が後任のウィリデ警備兵長、チャルチだ。ウィリデの三役……今は二役か? とにかく挨拶したいんだが、案内してくれねーかな」


 男の髪は、ユピトと同じ黒髪だった。瞳の色は、ありふれた鳶色だ。浮かぶ笑みは明るく、親しみやすい性格がうかがえる。

 だがその目が探るように四人を見ていることを、ユノを覗いた三人は感じていた。探られていると気づかないユノですら、鳶色の瞳に薄ら寒いものを覚えた。

 それぞれ感じたものを顔に出さないよう努めながら、新任ウィリデ警備兵長を名乗るチャルチを、春の祝祭会場である広場まで案内した。

 二役に対しにこやかに対応するチャルチを見つめ、ユノはこっそり首を傾げた。


「……どこかで、会ったことがあるような……」


 王都でしか見ない、黒い髪。ありふれた鳶色の瞳。気さくな態度。

 果たしてどこで出会った人だろうかと考えるが、結局、ユノが思い出すことはなかった。

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