六一七年 春の二節

 チャルチがウィリデの警備兵長に赴任して、丸々ひと節が過ぎた。新任警備兵長は日々忙しくあちらこちらへ歩き回り、警備兵詰め所で十年働くユノとの接点はなかなか生まれなかった。精々が、昼食や夕食の折、不在の間の掃除や炊事への感謝をチャルチが述べる程度だ。

 その日、ユノが掃除のため兵長の執務室扉前に立ったのと、挨拶回りから戻ったチャルチが鉢合わせたのは偶然だった。


「おー、今から掃除? 悪いなぁ、いつも。えーと……悪い、名前何だった?」

「ユノ、です。チャルチ兵長さん」


 丁寧に肩書きを含めて呼ぶと、チャルチは「やめてくれよ」とシャツの首元をくつろげながら苦笑いした。


「肩書きまで呼んでくれなくていいぜ。兵長っつっても、ここじゃ新入りだからな。詰め所の中のことなら、ユノのが詳しいくらいだろ?」


 それより、とチャルチは扉を軽く叩いた。


「これから中で仕事したいんだけど、いいか? 王都から矢みてえに催促が届いてるらしくてさぁ」

「はい、どうぞお仕事をしてください。邪魔にならないよう、静かに掃除しますから」

「俺こそ、あんたの邪魔しないよう気をつけるよ。ああそうだ、重いもの動かすときは、手伝うから言ってくれ」


 扉の把手に手をかけ押し開けたチャルチは、清掃用具を抱えるユノを先に中へと入らせた。扉を開け放したまま、チャルチは簡素な執務机に向かう。椅子に座ったチャルチはいくつかの引き出しを開けると、どこに入っていたのかと驚くほどの手紙と書類を机上に広げた。目を丸くするユノに、チャルチは苦笑いを向ける。


「ウィリデの人たちに挨拶をし終わってから見ようと思ってたら、こんなに溜まっちまってな」

「マナズさんのときから思ってたんですけど……兵長さんって、忙しいですね」

「忙しいのは今だけだ。挨拶回りってやつも終わったしな。残るは手紙と書類だけ」


 手紙を摘まみ笑うチャルチに笑みを返し、ユノは掃除を始めた。チャルチも先ほどまでの笑みを消し、真剣な顔つきで机上の手紙や書類たちに目を通す。

 しばしの間、執務室に人の声は聞こえなくなった。ユノが歩き回る音と、掃除用具が触れ合う音だけが広がる。黙々と掃除をしていたユノは、視線を感じたように思って顔を上げた。すると、目をすがめ何かを思い出そうとする顔のチャルチが、ユノを見ていた。


「あー……もしかして、昔会ったことあるか?」


 尋ねられ、ユノは「えぇと」と呟き考え込んだ。黒い髪と鳶色の瞳。出会ったときから引っかかっていた。なぜだろうと考え、床の木目に視線を走らせ、記憶の端を探る。

 ああ、と思い出したユノは、顔を上げた。


「私の目、金色に見えるって言ったお兄さんですか?」


 ユノが思い出したのは、六歳の冬、王都ケントラムで出会った若い兵長だった。思い出せば思い出すほど、チャルチの顔にその面影が重なる。チャルチもようやく思い出したようだった。何度も「そうかそうか!」うなずき、懐かしそうに目を細める。


「兵長になったばっかの年に、珍しい目の色したちびが来たから覚えてたんだ。おっかなそうな母親と一緒に――って、こんなこと言うとどやされるな。ん? そういやユノの二親に挨拶ってしたっけか?」


「親は」ユノはそこで言葉を切った。重い石を飲み込んだように、喉の奥で何かがつかえる。それをどうにか飲み下し、ウィリデの誰もがチャルチに伝えられなかったであろう出来事を伝えた。


「十年前の冬に、火事で亡くなりました」


 あ、と小さな声が漏れた。手元の書類に目を落としたチャルチは、気まずそうに「あー」と長く意味のない声を上げる。


「そうか……。いや、悪い。思い出したくないこと、思い出させたな」

「いえ。もう十年も前のことですし……」


 鳶色の瞳が泳ぐのを見ながら、ユノは両親を亡くしてからの十年を思った。親を亡くした悲しみは常にユノのそばに立っていたが、ウィリデにはユノを支える者が多くいた。そのお陰で、ユノは泣き暮らさずにいられた。

 気まずそうなチャルチにそう告げると、チャルチは無理に作った笑みを見せた。


「ユノは、人に恵まれたな」

「本当に、そう思います」

「よし、それじゃあ俺もユノを支える輪に入れてもらうか! 前任のマナズさんがユノを雇ってたってことは、俺もこのまま雇ってればいいんだな? それとも別の働き口があったりするか?」

「いえ、ありません。このまま雇ってもらえるなら、そうしてほしいです」

「任せろ。俺もまだまだウィリデでの勝手もこの詰め所での勝手もわかんねーんだ。頼りにしてるぜ、ユノ」


 頼りにしていると言われ、ユノは困った顔をして目を泳がせる。感情を正直に顔に出すユノを見て、チャルチは楽しそうにけらけら笑っていた。




 新任警備兵長から「継続して雇う」と約束され安心したユノは、それからもラグの家から詰め所に通い続けた。

 日々の生活は今までと変わらず、警備兵たちの食事を用意し、寝具と寝衣を清潔に保ち、詰め所内の掃除と整頓をする。マナズがいなくなっても警備兵たちは変わらずユノを我が子や妹のように扱い、チャルチもほかの警備兵たちに倣って妹のように――時に弟のように――ユノを扱うようになった。ユノも彼らを父や兄のように慕った。

 雇用の安定からそう日の経っていない、ある日の夕方のことだった。

 見回りのない警備兵は外で鍛錬をしており、詰め所にはユノと数人の内勤警備兵しかいなかった。そのうちの一人であるチャルチが、執務室ではなく食堂にいた。今日は内勤なのか、簡素な鎧どころか上着すら羽織っていない。

 食堂すぐそばの台所で夕飯の用意をしていたユノは、何も並んでいない食卓に着くチャルチを気にしていた。調理の傍ら、調理器具や材料を取りに調理台を離れてはちらちらと食堂の様子を窺う。いつ見ても、チャルチは難しい顔で書類を見下ろしていた。

 チャルチを気にしながらも夕飯の用意は着々と進み、残すところ煮詰めるだけとなった頃だ。うつむいて書類を睨んでいたチャルチが、突然顔を上げユノに話しかけた。


「なぁ。ユピトの親……カンテっていったよな?」

「そうです。カンテさんが、どうかしましたか?」


 書類をめくったチャルチは、綴られた字を目で追いながら確認を取るように読み上げる。


「用心棒に怪物討伐、それから町民への剣術指導……手広くやってるみたいだな。一人でよくやるよ」

「今はどれも、息子のユピトと一緒ですからそんなに大変でもないそうですよ」

「ふーん。息子なぁ……」


 ぺらぺらと書類をめくったチャルチは、手を下ろすと再びユノに顔をむけ、にかっと笑いかけた。


「案内してくれ!」

「えっ。い、今からですか?」

「いやー腕が鳴るなぁ」


 文字通り、腕をぐるぐると回して音を鳴らしてみせるチャルチに、ユノは夕飯の準備中であることをわたわたと伝えた。


「あの、せ、せめて夕飯を作り終えてからじゃいけませんかっ?」

「おっと、そうだよな。じゃあ準備してくるから、それまでに終わらせといてくれよ」


 そんな無茶なとユノは思ったが、チャルチは鼻歌交じりでさっさと執務室へ戻ってしまった。その背中に待ってと声をかけることもできず、ユノは一度ため息をつくと、大急ぎで夕飯を仕上げにかかった。

 ユノが調理器具まで洗い終える様子を見ていたかのように、チャルチはちょうどいい頃合いで戻ってきた。外へ出るからか、それともカンテと一戦交えるつもりなのか、警備兵が身につける簡素な鎧をしっかり着込み、見回りには必ず身につけるナイフまで腰に差している。夕飯の支度が終わっているのを見て、カンテは「よし」と笑った。


「出るついでだ、帰り支度もしておけよ。案内し終えたら上がっていいからさ」

「でも、全部お鍋に入ったままですよ」

「盛り付けくらい、たまにゃあ自分でさせりゃいいって! 俺が前にいた町なんて、そもそも飯は自分たちで作ってたんだぜ?」


 チャルチはそう言って笑うと、ウィリデの前に赴任していた町の話をしながら歩き出した。

 帰り支度と言われても、ユノが詰め所に持ち込んでいる私物は身につけている前掛けのみだ。ほかの仕事道具はみな、詰め所で用意されたものだった。蓋をした鍋とチャルチとを忙しなく見比べ――ユノは諦めた。前掛けを外し、畳んで腕にかけながら、先を行くチャルチを追いかけた。


 チャルチに抜かりはなく、詰め所の出入り口で入退場を管理する警備兵にユノを退勤させる旨を伝えた。警備兵は快くそれを聞き入れ、口髭の生えた顔に柔和な笑みを浮かべ「お疲れさん」と手を振ってくれた。ユノは気恥ずかしさに小さくなる声で「お疲れ様です」と返し、さっさと歩いて行くチャルチの後に続いた。

 さらに詰め所裏に回ったチャルチは、指導している警備兵にユノを退勤させる理由と夕飯はできあがっていることを伝えた。身を縮め「すみません」と謝るユノに、皺の目立つ指導役の警備兵は「いやなに」と眉を下げて笑った。


「兵長を道案内するんだろ? お疲れさん。気をつけてな、ユノ」

「ありがとうございます。皆さんも、怪我のないようお気をつけて」

「さー行くぞユノ。カンテさんのとこまで案内頼むぜ」


 からから笑ってまたさっさと歩き出すチャルチの後ろを小走りで追いかけながら、ユノはチャルチに感心していた。仕事が速い上に、ユノの退勤する理由が自分にあると伝えて回る。今のユノと同じ年で兵長に抜擢される理由も窺えるというものだ。

 感心して一人うなずくユノを振り返り、チャルチは「どっちに行くんだ?」と石畳の道をひょいひょいと指で差した。カンテ宅へ繋がる道を教えながら、ユノはふとユピトの顔を思い浮かべた。


 ――夕方だから、ユピトもカルウィンたちと鍛錬してるかな。会えるかな。


 先の節のタマリの週から、カンテとユピトは護衛の依頼を受けてウィリデを出ていた。帰ってきたのはこの二節になってからだ。帰ってきてからも、ユピトは子供への剣術指導や畑の手伝いで忙しそうだったため、ユノはまともに会話もできていない。

 久しぶりに会って話ができるかもしれない。

 そう思うと、ユノの足は羽のように軽かった。


 カンテ宅前の開けた場所は、この十年でずいぶんと鍛錬所らしくなっていた。そこに屈強な――時に貧相な――成人男性らがひしめき木剣を振るっている。夕方の鍛錬は、とうに始まっていたようだ。そこにはユピトの姿ももちろんあった。カルウィンがユピトに負けまいと必死に腕を振り、ダナンは競うことなく自分なりの速度を保っている。

 カンテは、彼ら一人ひとりに姿勢を正したり助言を与えたりと歩き回っていた。チャルチがカンテを指で差し「あの人か?」とユノに確かめる。ユノがうなずくと、チャルチはにぃっと笑った。


「おーい。そこのあんた。カンテさん」


 カンテは「あ?」と振り向き、チャルチを見た。この十年で、カンテの顔に皺が刻まれ、髪には白いものが混じるようになった。それでも、気迫は衰えない。チャルチが列に入りカンテに近づこうとするのを手で止め、カンテは自分がチャルチの前まで移動した。


「何か用かい、警備兵長さんよ」

「王国兵団東支部元部隊長さんと手合わせしたくてな。ユノに案内してもらった」


 突然チャルチの口から『王国兵団』の名が出て、その場にいた全員が手を止めカンテを見た。ユノも、ユピトも驚いた顔でカンテを見る。

 当の本人は白けた顔で「何言ってんだ、あんた」と白髪交じりの黒髪をガシガシとかき混ぜた。


「俺がそんな大層なご身分に見えるか?」

「ちゃんとってつけただろ? 今は……そうだな、身分も何もかも隠して偽ってるおっさんに見えるな!」


 愉快そうに笑うチャルチに、カンテは口の端だけに浮かべた笑みを返し、ユピトを手招いた。おろおろしながら駆け寄ったユピトの頭を掴むと、カンテは息子のユピトをチャルチの前へ押し出した。


「このウィリデに来てからな、俺ぁ息子の相手も務まらん奴とは剣を交えないと決めてる。相手がどんな奴だろうとそれは変わらねえ。ってことで、息子に勝てたら相手してやってもいいぞぉ」


 ユピトがぎょっとした顔で「親父!?」とカンテを見るが、カンテは口笛を吹き明後日の方向を向いてしまった。チャルチは気を悪くした様子もなく「じゃあ先にそいつで」とうなずいた。ユピトは困った顔をしていたが、チャルチに向き直るとその目から困惑は消えた。

 カンテが「カルウィン、木剣!」と指示を出す。素振りをしていたカルウィンは「何で俺が」とぼやいていたが、素直に自分の手にあった木剣をチャルチに渡しに来た。カルウィンから木剣を受け取り、チャルチとユピトが向かい合う。ぐんと背が伸びたユピトに比べてもチャルチの背は高く、その差は拳一つ半ほどある。

 列を作っていたみなが、広がって輪になる。輪の中心はユピトとチャルチだ。ユノはカンテに手を引かれ、中心から外れて輪に加わっていた。

 ユノは十年前を思い出した。あの日ユピトの前に立っていたのはカルウィンだった。あの日のようにユピトが勝つだろうと、ユノは疑いもしなかった。チャルチの構えを見ても、ユピトの真剣な横顔を見ても、ユピトの勝利を信じていた。

 しかし、ユピトとチャルチはなかなか決着がつかなかった。普段は軽々と相手の剣を避けるユピトが、今日は受けることが多い。だがチャルチの目に楽しむ様子はなく、ユピトの目は楽しさで輝いている。


「強いなぁ、強いなぁお前!」

「お前じゃなくて、チャルチさんな!」


 鬱陶しげにチャルチが剣を払う。ユピトは崩されかけた体勢を即座に直し、またチャルチに向かっていく。段々と、ユピトがチャルチを押し始めた。誰もがユピトとチャルチの対決を呼吸すら忘れて見入っている。ただ一人、カンテだけを除いて。

 カンテは大きな欠伸をすると、突然ユノの肩を抱いた。


「おぉい、ユピトぉ。そんなかったるい勝負じゃユノちゃんが飽きちまうぞ」

「あっ!? 親父っ、ユノに触んな!!」


 ユピトはチャルチから目を逸らし、カンテたちを振り向いた。カンテに肩を抱かれ硬直していたユノが「ユピト!」と声を上げる。ユノの声で対決中であることを思い出したユピトが慌てて向き直るが、もう遅かった。

 ユピトの木剣が、空高く弾かれた。木剣はくるくると回転しながら高く飛び、また回転しながら落ちてきた。からん、と乾いた音が響く。

 その場がしんと静まり返った。ユピトはぽかんとしてチャルチを見る。輪になっていた観衆も、チャルチを見る。急に注目を浴びたチャルチは木剣を杖のように地面に突き立て、照れながら首を傾げた。


「何だよ、俺が男前だって気づいたのか?」


 チャルチに駆け寄ったのはユピトだった。ぐっと握った拳から乱闘が起きるかと予想し周りは空気を硬くしたが、予想は外れた。ユピトは金色の目を輝かせ、チャルチを見上げた。


「チャルチルだったか!? 強いなぁチャルチル! 俺、ウィリデで誰かに負けたのは初めてだ!」

「はは、チャルチな。俺二十七だからな」

「チャチャチャさんか!」

「その頭、殴れば俺の名前もちゃんと覚えられるか?」


 ユピトに悪気はなく、初めて現れた好敵手を喜んでいる。それをわかっているのかいないのか、笑いながら拳を作るチャルチを見て、硬直していたユノは慌ててユピトの前へと走った。


「あのっ、ユピトに悪気はないんです。チャルチさんに負けたのがほんとに初めてで、珍しくて、だからあの、怒らないでくださいっ」

「ユノの言うとおりなんだろうけどな、金色の目で言われると……気に障るんだよ」


 チャルチの目が剣呑に細められる。ユピトの背筋が伸び、ユノは怪物を前にした小動物のように固まった。二人が怯えたのを見たチャルチは「悪い悪い」といつもの気さくな好青年の表情に戻った。


「二人の顔見てたら、なーんか気が削がれたな」


 はぁ、と気の抜けた息を吐くチャルチは、突き立てた木剣に体を預けた。いつもの雰囲気をまとったチャルチにホッとしたユノの隣に、ぬうっとカンテが現れた。木剣を担いだカンテが面倒くさそうにため息をつく。


「ユピトに勝ったし、相手してやってもいいぞぉ」


 あからさまに面倒くさがっているカンテに苦笑いし、チャルチは「んー」と短く唸った。


「あんたのの相手したら、腕前もだいたいわかったしなぁ。でもなぁ、せっかく来たしなぁ。相手してもらうか、悩みどころだな」


 さほど悩んでいなさそうな顔で悩んでみせるチャルチに、遠くから誰かが声をかけた。鎧をまとっていなくても、それが警備兵の一人だとユノはわかった。詰め所の裏手で鍛錬の指導をしていた、皺の目立つ警備兵だ。


「チャルチ兵長、鍛錬中の若いのが怪我をしまして……」


 チャルチは「怪我ぁ?」と声を上げ、大きなため息をついて黒髪をかき混ぜた。


「あー、わかったわかった。んじゃ、帰るか」


 屈強な体を申し訳なさそうに縮める警備兵に慰めの言葉をかけながら、チャルチはユノを振り向いた。


「じゃあな、ユノ。詰め所でも言ったけど、今日はもう上がっていいからな」

「は、はいっ。ありがとうございます」


 チャルチはにっと笑って手を振り、そのまま去って行った。

 詰め所で怪我人が出たと聞いたせいか、自分たちでは足下にも及ばない対決を見たせいか、その場にいるほとんどの青年が鍛錬をする気を削がれていた。誰よりも、指導役のカンテにやる気がなくなっていた。


「あー、何かもう今日はやる気出ねえな。今日はこれで終わり。解散! 散れ散れっ」


 唯一カルウィンが「金取ってんだから指導してくれよ」と食い下がったが、カンテのやる気がどうあっても戻らないとわかると渋々家路についた。ダナンもカルウィンとともに帰ってゆく。ほかの面々も、ぞろぞろと歩き始めた。カンテは伸びをしながら家の中に入っていく。

 残ったのは、ユノとユピトだけだった。

 帰って行く面々の背中をぼんやり見ていたユノは、ふと、ユピトが遠くを見ていることに気づいた。ユピトが見ているのは、東の方角だった。ユノはそろりと近づき、驚かせないようそっと声をかけた。


「最近、よく東を見てるね」


 ユピトは驚いたように振り向き、「そうか?」と首を傾げた。ユノに言われてもう一度東を向き、それが事実だと気づいた。どうやら、無自覚のようだった。

 ここ数年、ユピトは東の方角をぼんやり見るようになった。去年からその頻度が増え、怪物討伐の際も、休憩中に東を向いてぼんやりしているとカルウィンたちから聞いた。

 ユノは、嫌な予感がしていた。ざわめく胸に静かにするよう願いながら、ユノはユピトに尋ねた。


「東に……何かあるの?」

「……呼ばれてる、気がする」


 そう言ってユピトは、また東に顔を向けた。ユノの心臓が嫌な跳ね方をした。胸元をぎゅっと握り、ユノは再び尋ねる。


「何が、ユピトを呼んでるの?」

「……わかんねえ」


 ゆっくり首を振るユピトを見て、ユノは泣きたくなった。


 ――いつか、ユピトはいなくなる気がする。


 ユノにはもう、父も母もいない。父のように世話をしてくれていたマナズもいない。その上ユピトまでいなくなったら――そう考えて、ユノは呼吸まで苦しくなった。

 手を伸ばし、そっとユピトのシャツを摘まんだ。ほとんど力の入っていなかったというのにユピトは気づき、心配そうに「どうした?」とユノを覗き込む。ユノは喘ぐように「行かないで」と訴えた。


「誰に……何に呼ばれても、東になんて行かないで。お願い、ユピト」

「行かない」


 今にも泣きそうなユノの手を、ユピトの硬い手が握った。


「ここが俺の住む場所だ。俺の帰る場所はウィリデだ。だから、どこにも行かない」


 ユノの呼吸が楽になった。こぼれそうな涙をそっと散らし、ユノは少しだけうつむいた。


「……ありがとう、ユピト」

「ん!」


 ユピトが笑っていると、ユノは頭上で感じていた。金色の目が穏やかに自分を見ていると、ユノはわかっていた。

 ぐう、とユピトのお腹が鳴った。顔を上げずとも、ユピトの顔が真っ赤であるとユノにはわかった。ふふ、とユノの口から笑いが漏れた。うつむくのをやめたユノの顔にはもう、不安の影すらない。


「ご飯、作って行こっか。台所借りていい?」

「いい! ユノの作る飯、好きだ」

「本当? 嬉しい!」


 十年前なら、ユピトはためらいなくユノの手を取り歩き出す。だが十七になった今、ユピトは浮かせた手を慌てて体の横へ戻した。ユノはそれが、少し寂しかった。

 ユノが感じた寂しさを知らず、ユピトは顔を輝かせてラグから卵をもらったことを話し出した。


「今日の昼な、ラグおばさんがユノに何か作ってもらえって、卵くれたんだ」

「そうなの? ラグおばさんは気前がいいねぇ」


 久しぶりに話せることを喜ぶように、普段口下手なユピトはあれやこれやと今まであったことを次々話し出した。脈絡もなく急に違う話題に変わることもあったが、ユノはユピトの話一つひとつに丁寧にうなずいた。ユピトと話せることが、ユピトの声を聞けることが、ユノは嬉しくてたまらなかった。

 二人そろって家に入りながら、ユノはこの時間が長く続くことを祈った。


 ――いつまでもこんな風に過ごせたらいいのにな。ずっとずっと、ユピトと、みんなと笑っていられたらいいのに。


 その願いを聞き入れたかのように、穏やかな春風がユノの頬を優しく撫でた。

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