六一七年 春の三節
春の三節。斧を持つ怪物の卵を森で発見したと報告された時にはすでに遅く、斧を持つ怪物とその子供が大量発生した。
直ちに女子供は塀の外へ出ないようにとチャルチ警備兵長より指示が下され、警備兵と自警団、そして火の神より加護を賜った者が集められた。その中には当然、カンテ・ユピト親子もいる。
男たちによる〝斧を持つ怪物討伐隊〟が結成されるのと同時に、婦人会による支援も始まった。婦人会は二つの班に分けられた。怪我人の応急処置を担当する救護班と、討伐隊の食事や水を用意する食料班が、男たちを支援する。ユノは食料班に配備された。どちらの班も、季節の祭りに使用する屋台と布張りの簡易な小屋を本部として使用した。
運ばれてくる食材を次々に下ごしらえしていきながら、ユノはことの成り行きが心配で落ち着かなかった。救護班の小屋に誰かが運ばれたと聞くたびに、それがユピトではないかと居ても立ってもいられず、顔を青ざめさせながら運ばれた誰かを確認しに行った。
落ち着かないユノを見て、新たな食材を運び込んだラグが呆れたように笑う。
「こんなに心配するなら、救護班に置いてやったほうが良かったかねぇ」
ラグが笑うのを聞いて、ユノと同じく下ごしらえを担当していたリリが「ダメよ!」と声を高くした。
「救護班にいたら、それこそユピトが運ばれてきたと勘違いして倒れるわ。ユノは絶対倒れるわよ! それじゃあどっちが救護班だかわからなくなるじゃない!」
「倒れはしないだろうけど、手元が狂って怪我人の処置を間違えたら大変よね」
リリの隣で小さい子たちに皮剥きを教えていたルルが苦笑しながら同調する。ユノは青かった顔を赤くして「そんなこと」と否定しかけたが、リリに「あるの」と睨まれ、黙った。荒い動作で下ごしらえを再開したリリを見て、ラグは困った顔で笑いながらユノに助け船を出した。
「そんなに落ち着かないなら、ユノ、あたしたちを手伝うかい? 水を運ぶのに人手がほしくてね」
ユノが「え」と声を上げるのとルルが嬉しそうに「そうしなよ」と大きくうなずいたのは同時だった。
「この子たちが皮剥きできるようになったら、私も下ごしらえやるから。リリの機嫌を取ってちびちゃんたちの面倒見るの、大変なんだよね」
「は!? 別に機嫌なんか取ってもらわなくてもいいんですけど!?」
「リリもこんなカリカリしてるし。ね、ユノ。助けると思って」
ルルにこう言われ、ユノは遠慮がちにリリを見る。リリはふんと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。おろおろするユノと無視するリリを見て、ラグとルルは苦笑いを浮かべるしかできなかった。
結局、ユノはラグとルルの気遣いに甘えて調理ではなく水の運搬に携わることになった。
怪我人を医者の元まで担架で運ぶのは、討伐に駆り出されなかった男たちの仕事だった。ほかにも彼らはウィリデに掘られた井戸から水を運び、広場へ運ぶ仕事も任されていた。水を運ぶ男たちの中に、ダナンの顔もあった。日々ユピトやカルウィンと鍛錬に励むダナンは、木こりたちに混じって大きな水瓶を運んでいても、何の違和感もなく馴染んでいた。
ダナンに気づいたユノが思わず「ダナン」と声をかけると、ダナンは「あれっ」と声を上げて水瓶を肩から体の前へと下ろした。
「ユノ、食料班じゃなかった?」
「そうだったんだけど、あの、こっちの仕事させてもらうことになって」
「ああ、ユピトが心配で料理に集中できなかったんだ?」
すべてを話す前に言い当てられ、ユノは顔を真っ赤にして声を詰まらせた。ダナンは笑いながら「大丈夫だよ」とユノに水瓶を手渡した。あらかじめ覚悟していなければ落としてしまいそうな重さだ。
ダナンから受け取った水瓶を落とさないよう抱きかかえながら、ユノは風にかき消されそうな小さな声で反論した。
「だって、ダナンが言ったんだよ。斧を持つ怪物は、人も食べるって……」
ぽそぽそと呟かれた心配の理由に、ダナンは垂れた目を丸く見開いた。そして、お腹を抱えて笑い出した。大笑いするダナンを、ユノは信じられないものを見る目で見つめる。その顔がさらに赤くなったのを見て、ダナンは慌てて「ごめんごめん」と謝った。
「うん、そうだね。俺が言った。何年も前のことだけどね。いやぁ、まさかユノが覚えてるとは思わなかった」
「覚えてるよ。私、斧を持つ怪物の眷属が大嫌いだもん。それなのに斧を持つ怪物が人を食べるって聞いたら、忘れられない」
「いやぁ、でもさぁ。ユピトだよ? 鋏を持つ怪物を一人で倒したユピトにそんな心配するの、ユノくらいだよ」
鋏を持つ怪物とは、顎にあたる部分に鋏のような部位を持つ怪物のことだ。
当時十四歳だったユピトはカンテに連れられ、初めて怪物討伐に参加した。このとき討伐する予定だったのは跳ね足の怪物だった。跳ね足の怪物はフラウスのような平原に現れ森には滅多に現れないが、この年は風の流れの都合か、ウィリデにもやってきたのだ。
ウィリデは木を売って外から鉱石や金銭を得る。財源である木をまりまりと食べる様を見て、このまま食い尽くされては困ると討伐隊が結成されたのが経緯だ。
やっとの思いで粗方の怪物を倒した帰り道。疲れ切った討伐隊の前に鋏を持つ怪物が現れた。誰も彼もが疲れ、腕が石のように硬く重くなっていた。こんな状態で戦えまいと死を覚悟した討伐隊の中から、誰かが飛び出した。それが、ユピトだった。
まだ小柄だったユピトは鞘を投げ捨て、剣を引きずるように怪物に飛びかかった。ユピトの剣は、怪物の体の節と節の間を的確に貫き、切り裂いた。誰かが加勢しようと考える隙もないほど短い時間で、ユピトは鋏を持つ怪物をバラバラにしてしまった。
十四歳の少年の早業に、討伐隊の面々はぽかんと口を開けた。カンテがすかさず「さすが俺の息子だぜ!」と褒めなければ、誰かはこう言ったかもしれない。
「まるで化け物だ」
だが、そんな言葉を口にする者はいなかった。カンテにつられ、討伐隊の誰もが口々にユピトを褒めた。その場で拍手さえ沸き起こった。
その場にいる全員から喝采を受け、賞賛され、ユピトは真っ赤になった。もごもご何か言ったかと思うと、鞘を拾い剣を納め、ウィリデに向かって走り出した。ウィリデの門から中へ駆け込んだユピトを見たウィリデの民は、討伐隊から話を聞くまで、ユピトが怪物に恐れを成して逃げ帰ってきたのだと思っていた。
こんな逸話を、ユピトは持っていた。そのユピトを心配するから、ダナンは笑ったのだ。だがユノにしてみれば、どんな逸話を持っていようがユピトはユピトだ。ユピトは、人だ。悲しみ、照れ、喜ぶ心があるように、危害を加えられれば怪我をする体を持っている。怪我をさせられれば、流れる血を持っている。心配しないほうがおかしいと、ユノは思っていた。
頬を小さく膨らませるユノに、ようやく笑いを納めたダナンが「心配いらないよ」と励ます。
「加護持ちの人が今までより多いんだ。怪物は日を嫌うから、すぐ片がつくよ」
水汲みへ戻る青年たちの集団が、ダナンを呼んだ。ダナンは「今行く」と返し、青年たちの元へ走っていく。最後に一度、ダナンはユノを振り返った。
「少なくとも、ユピトは怪我なんかしない。身のこなしが獣みたいだから大丈夫だよ」
「獣みたい」とダナンの口から出たことで、ユノは一瞬身を固くした。それに気づかないまま、ダナンは水汲みへと戻っていく。
抱えた水瓶を強く抱き、ユノはわずかな時間、そこに佇んでいた。
討伐隊が帰ってきたのは、三日後のことだった。若い警備兵が駆け込み、広場に入るなり「親である怪物とその卵を焼き尽くした」と広場中に聞こえる声で報告した。歓声が上がり、誰もがウィリデの門へと走る。その先頭はユノだった。
門をくぐり、ぞろぞろと討伐隊がウィリデに戻ってくる。泥や怪物の体液で汚れた討伐隊の中に、なかなかユピトの顔が見えない。家族や恋人の帰還を喜ぶ人々の隙間から、ユノはユピトの顔を探した。
ユピトはほとんど最後尾に近かった。ようやくユピトの顔が見えたとき、その隣でカルウィンが何かがなっているのも気づかず、ユノは飛びつくようにユピトの前へ出ていた。泥だらけだろうが、体液にまみれていようが、ユノはためらわなかった。
「ユピトっ、おかえりなさい!」
突然真正面に現れたユノを見て、ユピトはびくっと肩を揺らした。金色の瞳が揺れる。ユピトはみるみるうちに耳まで赤くなった。
「た……ただいま……」
「照れてんじゃねーよ今更よぉ!」
隣にいたカルウィンが、鬱陶しそうにユピトを小突く。小突かれてもユピトは反応せず、ユノを見たり目を逸らしたりと忙しそうに視線を泳がせる。様子のおかしいユピトを見て、ユノは怪我でもしたのかと心配になった。
「ユピト、どうしたの? 怪我したの?」
「だ、だい、だいじょーぶだ……」
「切り傷でも、化膿してたら熱が出るんだよ。ねえ、本当に怪我してない? そんなに真っ赤になって」
何度聞いても、ユピトは「怪我なんかしてない」と繰り返すばかりだ。ではなぜ赤いのかと尋ねるユノに、ユピトは口を閉ざして答えない。困り果てるユノの肩を、討伐隊に参加した数人の壮年男性らが叩いた。
「聞いてやるな、ユノ」
「ユピトもな、お年頃ってやつだよ」
「そもそもオッサンたちが始めた話だろーが!」
戻ってきたかと思えば、壮年男性らは訳知り顔で去って行く。カルウィンは「くっだらねー話しやがってよ」とぶつくさ言いながら、付き合いきれないという風に帰って行った。ユピトもユノに「本当に大丈夫だ」と言って、逃げるようにカルウィンの後を追う。
残されたユノは、何だかユピトに突き放されたように感じ、その場にしょんぼりと立ち尽くした。様子を見守っていた婦人会の面々は、うふふと楽しそうに笑っている。
「若いわね」「青春ってやつだわね」「私も若い頃はああだったわぁ」
一方リリはイライラして腕を組んでいる。
「何よ、何であの二人あんななのよ!」
イライラするリリをルルは呆れ顔で宥める。
「しょうがないんじゃない? ユピトとユノだもん」
時に呆れられながら、微笑ましそうに見守られているとは知らず、ユノは明日またユピトに話しかけて鬱陶しがられたらどうしようと心配していた。
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