六一七年 夏の一節

 夏が来た。日差しが強まり、木陰での休憩が何より心地いい気候になった。外で鍛錬する警備兵は休憩時にこぞって木陰に集まり、休憩する警備兵らにユノは水を配り歩いた。そのユノの額にも、汗が輝く。そんな季節だ。

 くつろげたシャツを摘まんでぱたぱたと空気を送り込むのはチャルチだ。日陰である執務室にいてなお暑がるチャルチは、窓を開け放し風を取り入れようとしていた。執務室の掃除をしていたユノは、チャルチの暑がりようについくすっと笑ってしまった。


「ウィリデの夏はそんなに暑いですか?」

「いいや、どこの町も似たようなもんだ。俺が特別暑がりなだけ」


 椅子によりかかってだらんと姿勢を崩したチャルチは「こんなことなら風の神様の加護を選べば良かったなぁ」と罰当たりなことを言って笑う。加護を得ていないユノはどう返していいかわからず、苦笑いを浮かべた。

 は、とチャルチが何か思い出したように書類を探す。引き出しから見つけた書類を机に置くと、チャルチは真剣な顔でユノを見た。


「ちょっと聞きたいことがあるんだ。椅子がなくて悪いが、掃除の手を止めて聞いてくれるか?」


 何事だろうとユノが姿勢を正して机の前へ行くと、チャルチは机に置いた書類にとんと指を置いた。書面にさっと目を走らせたユノは、そこにカンテとユピトの名前を見つけた。


「聞きたいのはな、カンテさんとユピトのことだ。あの親子が本当に親子なのか。ユピトの素行に奇妙なところはないか。ユノは……二人が隠してることについて知ってるかどうか、だな」


 ユノが警戒しているのを見て取ると、チャルチは表情を緩め、気さくな青年の顔で「そんな顔するなよ」と笑った。


「これは尋問じゃないし、聞いたことを上に報告するつもりもない。ウィリデの新入りが抱いた疑問だと思って、気軽に答えてくれよ」

「思ってくれなんてわざわざ付け足すってことは、確信なんですね。カンテさんとユピトが、何か悪いことをすると思うんですか、チャルチさん」


 ユノの切り返しに、チャルチは肩を揺らした。「意外と揚げ足取りなんだな」と笑う声は軽いが、表情に険しさが混じる。鳶色の瞳に狂気に似たものが宿っているように見えて、ユノは七歳の冬を思い出した。ウィリデに降り立ったチャルチを見た日に感じた既視感が、あの襤褸の男を思い出したせいだと悟った。

 怯えるユノを見て、チャルチは「悪い悪い」と表情を緩めた。だが、ユノの怯えは消えない。チャルチはユノを逃がさないよう、優しい声で宥める。


「言い方が悪かったな。二人があのフラウスから移住してきたって書いてあるから、何か問題でもあったのかって気になった。そんだけだ」


 チャルチがと付け加えるには理由がある。フラウスという町は、平原にある。土地が広く寒暖差も穏やかで、よその町との往来も多い。ウィリデより遙かに暮らしやすい町だ。


「言っちゃあ何だが、ウィリデは田舎だ。加えて森があるのに狩猟もろくにできない。特別な理由もなくこんな田舎に引っ越すなんて思えないんだよ」


 それでもユノが口を閉ざしたままなのを見て、チャルチはため息をついた。ガシガシと黒髪をかき混ぜると「昔話をしてやるよ」と言って、十七年前の〝事件〟について話し始めた。


「ある男が、妻を神獣に攫われた。ああ、前に話したか? あれは作り話じゃない。本当の話だ。俺が九つになった頃……ユノたちが生まれる前の年だな。神獣は、ある男の妻を攫った。男は半狂乱になって神獣を追いかけた。たった一人の息子すら放り出して、属する隊の隊長命令も聞かず、神獣を探した」


 男が属していたのは、王国兵団の部隊だった。その部隊は王より命を受け、神獣討伐に駆り出された。妻のために部隊を飛び出した男を捜しながら、部隊は神獣の足取りを追い、追い詰めた。とどめを刺したのは隊長だった。男が追いついたときには、妻はすでに死んでいた。

 チャルチは「隊長命令を聞いてれば、自分の手で神獣を殺せたかもな」と低く笑った。


「物語は、何て締めくくってたかな。『討伐隊の隊長により、神獣は倒されました。めでたしめでたし』か。そこに付け加えられてなかっただろ。『神獣が攫った女は、神獣の仔を産んだのです』なんて一文は」


 ユノは息を呑んだ。チャルチの鳶色の瞳に、暗い影が差す。


「神獣の仔は無害だなんて言えるか? その確証は?」


 答えられないユノに、チャルチは暗い声で続ける。


「俺はな、罪もない〝誰か〟を傷つけようだなんて思っちゃいない。民の安全を害する〝害獣〟を駆除したいだけなんだ」


 教えてくれ、とチャルチが静かに尋ねる。だがユノは、ユピトに秘密などないと首を振った。


「ユピトは……私の、です。穴に落ちた私を引き上げてくれて、が放った火から私を助けてくれました。ユピトは今までも、これからも、誰より優しい私の友人です」

「へぇ。恩で友か」


 何か言いたげに笑うチャルチを、ユノは正面から見据えた。ユノの視線を受け、チャルチもユノに射貫くような視線を向ける。チャルチを正面から見つめ、ユノは気づいた。


「チャルチさん……ユピトと、顔立ちが似てる」


 その指摘にチャルチはハッと息を呑んだ――ように、ユノには見えた。だが一瞬のことで確信は持てない。チャルチは「他人の空似ってやつだろ」と顔を逸らしてしまったからだ。背けられた横顔をまじまじと見つめ、ユノはユピトと似た部分を探そうとした。

 それを邪魔したのは、駆け込んだ警備兵だ。


「チャルチ兵長、子供が水祷祭の祭場を探すと言って森へ入り、行方がわからなくなっているそうです!」

「おっと、こんな時期に森に入ってったのか? わかった、すぐ行く」


 立ち上がったチャルチは、ユノに「掃除、邪魔して悪かったな」と言い残して執務室を出て行った。詰め所内が緊張感を孕んだざわめきで満たされるのを聞きながら、ユノは自分の胸に嫌なものが残されたのを感じた。

 嫌な何かは、ユノの心に灰色の不安を植え付ける。


 ――もしもユピトが、神獣だとして。ユピトもいつか、人々に害をなす獣になってしまうの? 誰かを傷つけるようになるの?


 そんなことない、とユノは首を振った。だがチャルチの言葉は、トゲのようにユノの心に刺さった。




 行方不明になった子供を見つけたのは、護衛の仕事へ出る直前のユピトだった。十年前、畑近くの塀から抜け出した子供を見つけたときと同じ方法で子供たちを探し当てた。だがユピトは「偶然だ」と言うだけで、礼を言う親たちからも、どうやって自分たちを見つけたのかと尋ねる子供たちからも逃げ、アキルスへ帰る商人と一緒に出て行ってしまった。

 子供たちの件をきっかけに、自警団は塀の強化を、警備兵たちは見回りの強化を掲げた。水祷祭は、もう来節に迫っている。

 水祷祭の準備に向け、ウィリデはざわつきだした。

 二役は水祷祭に向けて祭具や捧げ物の手配を始め、自警団に所属するカルウィンは塀の修繕と強化の指示に当たっている。警備兵たちは森の見回り強化のため、森に籠もりきりになることが決まった。


「しばらく森に籠もってっから、ユノはその間、長期休暇ってことで」


 あのやり取りなんてなかったように軽い調子で休みを言い渡され、ユノは戸惑った。掃除くらいと言ったが、ほかの警備兵たちからも「たまにはのんびり休め」「こんな時期だからこそ体力温存しとけ」と言い含められ、ユノは渋々詰め所へ通うのをやめた。期限は来節、止の週までだった。

 今年の水祷祭は止の週か――と考えながら、ユノは与えられた休みをどう使うかで悩んだ。ラグの家に戻り休暇を与えられたと伝えると、ラグは「じゃあゆっくりしな」と言って手伝いをさせなかった。だからといってウィリデ中をふらふらする訳にもいかず、困り果てたユノはダナンに助けを求めた。家にいないかもと不安だったが、運良く畑へ行く直前に会うことができた。


「へえ、休みをもらったんだ。でも仕事がしたい? じゃあ、畑を手伝ってもらえるかな。父上は水祷祭で忙しいし、母上は腰を痛めてるから」


 仕事を与えられてホッとしながら、ユノは喜んで畑へ出た。

 ダナンがユノに頼んだのは、土集めだった。畑のあちこちから親指の爪ほどの量を、と指定したダナンは、ユノに白い板を渡した。この上に載せろということだ。そんなちょっぴりの土を、場所ごとに分けて集めるなんて何に使うのか。首を傾げながらもユノは言われた通りに畑の端から指定された区域ごとに土を採取した。ダナンも、ユノと反対方向から集めている。だがダナンは板を持っていない。

 気になったユノがダナンを見ていると、ダナンは土を口元に近づけ――ほんのわずかな量だが、それを口に入れた。驚いたユノは白い板ごと土を落っことした。板が落ちる音で気づいたダナンが、驚いているユノを見て「あれっ!?」と声を上げた。


「俺、言ってなかったっけ? 土の神様の加護でさ、土の具合がわかるようになったんだ」


 未熟だから口に入れなきゃいけないけど、と平気な顔で付け加えられ、ユノは目を白黒させた。土の神からの加護が土に関するものだとは知っていたが、土を食べても平気になるなんて初耳だった。

 板を拾い上げ奇異の目でダナンを見るユノに、ダナンは「好きで食べてるわけじゃないよ!?」と言い訳する。本当だろうかと疑いながら、ユノはダナンの指示通り、再び畑のあちこちから土を集めた。

 集めた土をダナンに渡しながら、ユノは訝しげにダナンを見る。


「……土って、美味しいの?」

「美味しくないよ。美味しくないけど、土の状態を知るには口にしなきゃいけないんだよ。ほ、本当だって。嘘じゃないって!」


 珍しく大きな声で言い訳するダナンを見て、ユノはつい、くすっと笑ってしまっていた。

 それから二人は、しばらく畑に肥料を撒いたり草を抜いたりと〝普通の〟畑仕事をしていた。抜いた草で小さな山ができる頃、ダナンの母が「水くらい飲みなさいな」と休憩を促した。二人はずいぶん長く畑仕事に没頭していたことに気づき、ばつが悪そうに顔を見合わせ、休憩を取った。

 家の陰に入って壁に寄りかかり、二人はそれぞれよく冷えた水で喉を潤した。日差しに熱された体に水が染み渡っていく。その心地よさに息をつくユノを見て、ダナンは「ちょっとは元気出た?」と尋ねた。ユノが「え?」と尋ねると、ダナンは目尻と同じくらい眉を下げた。


「何だか元気がなかったように見えたけど、違った?」

「ううん……違わない」


 ユノはユピトがチャルチに疑われていることを伏せ、チャルチが語った物語に書かれていなかった神獣の話をダナンに聞かせた。それを聞いて、神獣の子もやはり人に害をなすか心配になったことも。

 ダナンは決して口を挟まず、ユノの話に耳を傾けた。ユノが話し終えると、ダナンは腕を組み唸った。


「ユノは、神獣が悪い生き物だって考えてるけど、神獣の子は良い生き物だって思いたいんだね」

「そ……う、なの、かな」

「じゃなかったら、そうやって悩まないって」


 そう言って笑うダナンの顔や声音は、優しい。ユノの悩みを笑ったりせず、ユノが納得する答えを出そうと真剣に考え込む。


「神獣についての文献って、あんまりないんだ。王都には多少詳しい内容のものがあるらしいけど、並の学者じゃ書庫にすら入らせてもらえない。だから、俺は神獣のことどうこう言えないんだけど……」


 ダナンはすっと指を伸ばすと、畑を示した。


「目のない怪物ってさ、眷属も子も、同じ卵で産むみたいなんだ」


 突然目のない怪物を引き合いに出され、ユノはダナンの言いたいことがさっぱりわからなかった。「そうなの?」と尋ねるユノにダナンは「そうなんだ」とうなずく。


「目のない怪物が産んだ卵から、眷属も子も孵る。結構な数が孵るらしいけど、その中から怪物に育つのはごく一部だって、最近の研究でわかったんだ。たくさん生まれる中で、本当にごく一部だけなんだ」


 ダナンはそう言うと、不安そうな目で「俺が言いたいこと、わかってくれる?」とユノに尋ねた。ユノはうなずいた。大きく、しっかりと、うなずいた。ダナンは安心して微笑んだ。


「人間だって、農家の子が学者になって三役に選ばれたり、貴族の子が商人になって三役に選ばれたりしてるんだ。どんな生き物だって、親と同じ生き方をするかどうか、わからないよ。……どうかな、これで少しは元気になれた?」

「なれたよ。神獣の子が人を襲ったり、攫ったりしないって、思えるようになった。ダナンはやっぱりすごいね」

「すごくなんかないよ。俺なんてまだまだ、父上どころか姉上の足下にも及ばないんだから」


 謙遜し照れるダナンに笑みを返しながら、ユノは胸の中の不安がすっかり消えたのを感じた。ダナンの言葉のお陰で、ユノの不安の霧は晴れた。今ユノの胸にあるのは、ユピトを信じようという強い思いだけだった。

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