六一七年 夏の二節

 夏も二節を迎え、水祷祭の時期となった。

 例年ならば十七歳は成人として祭りに参加するが、この年は違った。十七歳以下は全員二役の一人ヤラィ宅近くに集められていた。十七歳未満の子供たちの面倒を見る――そして森へ入ろうとしないよう、見張るためだ。

「これは大役である」と言ったのはヤラィだ。

「未来ある若者を守る大事な務めだ」と言ったのはフェオだ。

 十七歳の面々はろくに反論する隙も与えられず、畑周辺から子供たちを逃がすなと仰せつかり、ウィリデに残された。

 〝大役〟に不平不満を漏らすのは、カルウィンとリリだ。


「今まで散々見張ってきただろ、今年からは次の奴に見張らせりゃいいだろ!!」

「何だって十七歳になってまで子供の面倒見てなきゃいけないの? 十六歳の子たちにやらせればいいでしょ? は? 十六歳もまだ子供? 今までから子供の面倒は子供に見させてたじゃない!」


 それを宥めるのはダナンとルルの役目だった。


「いいじゃないか、カルウィン。来年こそ水祷祭に参加するための引き継ぎ期間だと思おうよ」

「今までから面倒見てきたんだし、今年も子守りを押しつけられたって変わらないでしょ? 今年のうちに、水祷祭の期間中に森に入ったらどれだけ怖いか教え込んでおけばいいじゃん」


 ほかにもうんざりした顔の十七歳はいるが、カルウィンとリリほど苛烈に表現したりしなかった。ダナンとルルは宥める相手が増えず、ホッとした。

 その一方で、ユノはしょんぼりしていた。ユピトから未だに避けられているからだ。話しかけようとしても、ユピトは獣のようにユノの気配を察し、子供たちの輪に加わってユノが話しかけられないようにしてしまう。嫌われるようなことをしただろうかと、ユノは落ち込んでしまった。

 落ち込むユノに、五つになった子供たちがわらわらと集まる。


「ユノねーちゃん、木のぼりできる? じょうず?」

「木登り? できないことはないけど……どうして?」


 突然木登りができるか問われ、ユノはしゃがんで目線を合わせながらその理由を尋ねる。子供たちは自分たちの靴を指差し、そして靴を片方履いていない子供を差した。


「くつ投げて遊んでたら、木に引っかかっちゃった」

「かたぐるましてもね、とれないの」

「ユノのおねーちゃん、とって!」


 ユノは子供たちに手を引かれ、靴が引っかかったという木の下へ行った。子供たちが言うとおり、葉が茂る枝に靴の片割れが引っかかっている。枝の位置は高く、木の幹に凹凸は少なく、確かに子供では靴を取ることは難しそうだ。

 期待に目を輝かせる子供たちに苦笑し、ユノは履いていた靴を脱いだ。木の幹に触れると、少しだけ、十年前のお転婆ユノに戻った気になれた。しかし年頃の娘が木登りなんかしては、眉をひそめられる。特にユピトには、お転婆な部分を見られたくなかった。ユノはきょろきょろと辺りへ視線をやると、声を潜めて子供たちに見張りを頼んだ。


「お姉ちゃんね、木登りしてるところを見られたくないの。ほかの人が来ないように、見張っててくれる?」


 〝見張り〟という言葉に大人の響きを感じた子供たちは、目を輝かせ頬を紅潮させ、何度もうなずいた。ふんふんと鼻息を荒くして木に誰も近づかないよう散らばる子供たちを見て、ユノは自分の子供時代を重ねた。胸に湧き上がるあたたかくもくすぐったい微笑ましさを、父エオロと母オセルたちは感じていたのだろうか。

 そんなことを考えたら、涙で視界が滲んだ。いけない、と頭を振ったユノは頭上へ顔を向けた。今は靴を取ってやることに集中すべきだ。感傷に浸っている場合ではない。木の幹の凹凸に足をかけ、少しずつ、下を見ないように、ユノは靴が引っかかった枝を目指した。

 見張りに飽きた子供たちが「まだー?」と三回ほど尋ねた頃、ユノは靴を捉えて放さない枝まで登り詰めた。やや低い位置にある枝を足がかりとし、目的の枝に移動する。跨がるには頼りない枝が折れないかヒヤヒヤしながら腕を伸ばし、指で何度も靴をかすめる。子供たちが「がんばれ!」「あとちょっと!」と声援を送ってくるのを聞きながら、ユノは懸命に靴へ手を伸ばした。

 ユノの指が引っかかり、靴は真っ逆さまに落ちていった。軽い音を立てて着地した靴に子供たちが駆け寄る。靴を引っかけてしまった子供が、そろりと足を差し入れた。当然、靴は子供の足をすんなり受け入れる。靴を取り戻せた子供たちは、わっと歓声を上げた。

 子供たちの喜びようにホッとしたユノは、自分も下りようと足がかりにした枝へ再び足を伸ばした。だが、枝はユノが体重を乗せきる前に折れてしまった。ユノは慌てて先ほど跨がった枝にしがみついた。足がかりになりそうな枝を探しても、ユノの足が届く範囲には見当たらない。下りるには、遙か下に感じる枝へ、勇気を出して飛ぶ必要がある。

 枝にぶら下がったユノを見て、子供たちは顔を青くして駆け出した。子供たちは口々にほかの十七歳たちへ助けを求める。


「にーちゃあーん!」

「ユノおねーちゃんがおりらんなくなったぁー!」

「ま、待って! 自力で頑張るからもうちょっと待って!」


 ユノの必死な声は子供たちに届かず、木の周りからは誰もいなくなった。ぶら下がったまま、ユノは必死に祈った。助けに来てくれるのがカルウィンかダナンでありますようにと。馬鹿にされても構わないからリリやルルが来てくれますようにと。もう二度と木登りなんかしないと誓うからユピトが来ませんようにと、祈った。

 ユノの祈りを聞き届ける神は、ウィリデどころか、この世界には一柱もいないらしい。子供たちに案内され血相を変えて走ってきたのは、ユピトだった。ユノは恥ずかしさに今すぐこの場を離れたかったが、手を離しては木から落ち大怪我を負う未来が目に見えている。ユノは真っ赤になった顔を伏せ、ユピトが身軽にするする登ってくるのを気配で感じていた。

 軽々とユノがぶら下がる枝のそばまで来たユピトは、心配そうな声音で「大丈夫か?」と尋ねた。怪我の有無ならば、ユノは〝大丈夫〟と言える状態だ。だが心の中を言うならば、決して〝大丈夫〟ではなかった。ユノは今にも消えそうなか細い声で答えた。


「今すぐ鳥になって、どこか飛んでいっちゃいたい……」

「それは、困る」


 本当に、心の底から困っている声だった。顔を赤くしたまま、ユノは伏せていた顔を上げた。ユピトは笑いもせず、真剣な顔で、ユノに「困る」と繰り返した。


「ユノがいなくなったら困る。考えただけで泣きそうだ」


 金色の瞳に涙の気配はない。けれどユピトが本気でそう思っていると、ユノには伝わった。ユノは真っ赤な顔のまま、小さな声で囁くように「ごめんね」と謝った。ユピトは「泣いてないから大丈夫だ」とどこが大丈夫なのかわからない返事をすると、片腕をユノへ伸ばした。

 片腕で幹に体を固定し、もう片腕でユノを自分のそばへ引き寄せる。ユピトはユノに触れる直前、「ごめん」と謝った。ユノは首を振り、自ら飛び込むようにユピトの体にしがみついた。ユピトは片腕でしっかりユノを抱きしめると、登ってきたときと変わらない速度で下りていく。ユピトにしがみつきながら、ユノはぽつりと呟いた。


「ユピトに、嫌われちゃったのかと思った」

「な、何でだ?」

「だって……ユピト、ずっと私のこと避けてたから」

「それは……」


 ユピトはもごもごと何か答えたが、ユノの耳にはっきりとは届かない。ユノが「なぁに?」と尋ねてようやく、ユピトはユノの疑問に答えた。


「か……顔が、赤くなるから……かっこ悪いとこ、ユノに見られたく、なかった」


 見上げたユピトの顔は、ユノに負けないくらい赤い。それから二人は地面に降り立つまで、黙りこくっていた。

 地面に足が着くと、ユピトは丁寧にユノを地面へ下ろした。靴を履いていないことに気づくと慌ててまた抱き上げ、おろおろと靴を探した。また抱き上げられたことに驚き、そしてユピトが軽々と自分を抱き上げていることにまた驚いた。

 十年前、穴に落ちたユノを助けるとき、ユピトは人ではない姿に変身した。だが今、目の前のユピトは人の姿を取ったままだ。獣の姿を選ばなくても、ユピトはユノを助けられるまでに成長した。十年の年月を思い、ユノは感慨深くなった。

 おろおろするユピトとしみじみしているユノのところへ、子供たちが駆け寄り、ユノの靴を掲げ持つ。ユピトはユノを横向きに抱え、ユノに靴を履かせるよう子供たちに頼んだ。子供たちはおとぎ話の登場人物のように、恭しく、丁寧にユノの足に靴を履かせた。

 ユピトはようやくユノを地面へ下ろした。地に足をつけたユノを見て、子供たちは腕を後ろで組み、満面の笑みを浮かべている。子供たちの一人、特にませた女の子が口を開く。


「ユノおねーちゃんが鳥になって飛んでかなくてよかったね、ユピトおにーちゃん!」


 はたと、ユノは思い出す。

 子供たちが木の下で自分たちを見守っていたのに、何て恥ずかしいやり取りをしてしまったのか。

 ユノは後悔する。

 子供たちが見ているのも忘れて、どうしてあんなやり取りをしてしまったのか!

 見れば、ユピトも顔を真っ赤にして棒立ちになっている。互いに、互いしか見えていなかったのだ。あまりの恥ずかしさに、ユノもユピトも、言葉に詰まった。

 ぽつりと、ユピトが呟く。


「……俺も、鳥になって飛んでいきてえ」

「だめだよ、ユノねーちゃんが泣いちゃう!」


 ユノは耐えきれず、その場から走って逃げ出した。

 走るユノの背後で、子供たちが沸き立つ。


「ユノねーちゃんにげた!」

「はしってにげた!」

「とんでっちゃう!」


 もうやめて、許してと顔を覆って、ユノはリリたちのところまで一度も立ち止まらずに走った。


 水祷祭から大人たちが帰ってきたのは、日も傾き、空が赤くなった頃だった。水祷祭は酒も料理も振る舞われない。あとは帰るのみだ。「帰ろうか」と促すダナンの声で、子供たちは渋々家路についた。

 家に向かう石畳の上で、靴を引っかけてしまった子供たちの半数がユノにまとわりつく。そのうちの一人がユノの手を取り、ユノに尋ねる。


「ユノねーちゃん、ユピトにーちゃんのこと好き?」


 ユノを見上げ尋ねる瞳は、たった一つの答えを期待して輝いている。期待されている答えは、ユノの本心だ。ユノは周りを見回し、立ち止まってその子と目を合わせた。ユノが口元に手を当てると、子供は察して耳に手を当てた。耳元に口を寄せ、ユノはその子にしか聞こえない小さな声で答えた。


「好きだよ。でも、秘密にしてね」

「わかった!」


 うふふと笑った子供は、大きくうなずいた。聞こえていなかっただろうに、ほかの子供たちもうふふと笑っている。立ち上がり歩き出しても、子供たちはにこにこ笑っていた。

 ふと見ると、ユピトもユノと同じように、子供たちに囲まれている。そして子供たちに笑顔で見守られていた。

 かと思うと、ユピトを囲んでいた子供たちがユノのところへやってきた。入れ替わるように、ユノを囲んでいた子供たちがユピトのところへ行く。ユノのところへやってきた子供たちのうちの一人が、ユノに内緒話をするように尋ねる。


「ユノおねーちゃん、ユピトおにーちゃんのこと、すきぃ?」

「え、ええ?」


 尋ねた子供は、耳に手を当て内緒話で答えるよう手振りで示した。ユノは再びしゃがみ、その子にしか聞こえない声で「好きだよ」と答えた。


「ユピトのこと、好きだよ。だけど内緒にしてね」

「うふふ! わかった!」


 子供は口元に両手を当て、嬉しそうに笑っている。ユノは「ほんとにわかってるかなぁ」と訝しみながら、再び子供たちに囲まれたユピトへ視線をやった。ユピトも子供たちに内緒話をしていたようで、ちょうど立ち上がりながらユノに目を向けるところだった。

 ユノとユピトの視線が交わる。

 ユノは衝撃に似たものが体を駆け巡る感覚に襲われた。せっかく赤みの引いた顔に、また熱が宿る。ユピトも似た状況なのだろうか。ユピトの顔も、夕日のように赤くなっていた。

 カルウィンが「だから今更照れんなって!!」とユピトの背中を思い切り叩いた。そのせいで、絡んだ視線がほどけてしまう。ダナンが「まぁまぁとカルウィンを宥めながら、ユピトの背を押し歩かせた。

 立ち止まるユノに、リリが「後がつっかえるから立ち止まんないでよね」と叱る。子供たちが「にたものどーし!」「にたもんふーふ!」とませたことを言って走っていく。その後ろを「どこで覚えるんだか、あんな言葉」とルルが呆れて笑いながらついていく。

 ユノは今にも心臓が飛び出しそうな左胸を押さえた。燃えるような頬の熱も、周りの人に聞こえそうな鼓動も、しばらく収まりそうにない。せめて心だけでもと、ユノは大きく深呼吸をした。それからゆっくり、最後尾を歩いて家路に就いた。

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