六〇七年 冬
冬が来た。火祷祭が執り行われる季節になった。
火祷祭は火の神に凍死者が出ないこと、火による事故が起きないことを祈る祭りだ。それと同時に、酒で寒さを忘れようとする祭りでもある。
大人たちは酒が飲める祭りの再来に浮かれており、子供たちよりも火祷祭を心待ちにしていた。
そうやって大人たちが浮かれる一方、ユピトはずっと夜の中にいるような顔で過ごしていた。
ルベルでの一件以来、ユピトは以前のような元気がない。普段は何も変わらないように遊び回り、剣術教室では相変わらずカルウィンを負かし続けている。
だが、ふとした瞬間に影が差す。
その影は、瞬きほどの短い時間にしか見られない。だがユノは、何度も見てしまった。
落ち葉を数える最中に、追いかけっこの最中に、かくれんぼで息を潜めている最中に、ユピトはすっと目を伏せる。地面を見つめる目には、ユノが魅了されて止まない輝きがなかった。
ユピトが落ち込んでいる様子に気づくたび、ユノはかける言葉が見つからず、ユピトの目を見つめて手を握るしかできなかった。
小さな手で、同じくらい小さな手を包むように握る。ユピトの小さな手は、ユノよりもずっとずっと硬い。同じ大きさなのにまったく柔らかくない手だが、ユノはユピトの手が大好きだった。
ユノの柔らかな手で包まれるたび、ユピトは驚いて目を瞬かせた。けれどいつも、すぐに照れ笑いを浮かべた。
「ありがとう、ユノ」
首を振り、ユピトの手をさらに強く握りながら、ユノは早く火祷祭の日が来ますようにと祈った。
火祷祭が来れば、町のあちこちに篝火が灯される。広場では
篝火の中で、竈の中で、焚き火の中で、ウィリデの民の心にある不安と不幸を燃やして回る。残るのは、あたたかな安堵感と高揚感だ。
ここへ酒が加われば、大人たちが抱える冬への不安は灰も残さず消し飛んでしまう。大人たちの陽気さにつられて、酒を飲んでいない子供たちも楽しくなり、火祷祭は夜通しみんなで踊るのだ。
だからユノは、火祷祭の日になればユピトに元気が戻ると思った。火の神に不安を燃やしてもらえば、金色の目にあの輝きが戻ると思った。
季節の祭りは町によって異なる。日にちも違えば祀る神も違う。フラウスで執り行われる冬の祭がどんな様子か、ユノは知らない。
だがウィリデの火祷祭が一番楽しい祭りだと思っていた。ユピトにもそう思ってもらえたらと、ユノは火祷祭の日になるのを待ち遠しく、焦れったく思いながら冬の一節を過ごした。
そしてとうとう、火祷祭の日が訪れた。広場に三役が
広場の中央に焚かれた火が一際高く燃え上がったかと思うと、あちこちの火の中に小さな火の神の姿が現れた。火の粉を散らしてくるくる踊る姿は、小ささも相まって、妖精のようだった。
だがそんなことを口にしては、機嫌を損ねた火の神に呪われる。ウィリデの民は余計なことなぞ言わず、みんなで楽しく踊った。
この日の夜も、三役から酒が振る舞われた。秋の収穫祭よりも酒の量が多い。一人ひとりに酒を振る舞いながら、商人フェオが「まだまだあるぞ!」と磊落に笑う。
「今宵は隣町アキルスより酒が届いている。我々の財布が傷まない酒だ、さぁみんな飲め飲め!」
酒を振る舞って回る役回りを浮かれた若人に譲ると、広場の片隅に落ち着いたフェオもアキルスからの酒を楽しみ始めた。その隣に、フェオ同様酒を振る舞う役を誰かに押しつけたヤラィが落ち着く。
杯を片手に、真っ白な泡を髭につけたヤラィが低い声で疑問を口にする。
「隣町から酒が届くなんてことは初めてだな」
「ああ、何でも泡の酒を量産するのに成功したとか。味を見てくれとわし宛てに届いてな」
よれよれの格好になった医者エオロが、ヤラィの隣に落ち着いた。酒を振る舞うはずが逆に「医者先生ももっと飲め!」と杯を満たされることに辟易し、逃げてきたのだ。半分ほど満たされた杯を片手に「フェオさんのお知り合いからでしたか」と納得した声を上げた。
「こんなにたくさん、太っ腹な方ですね」
「気に入ったらわしの伝で
踊り疲れて広場をぶらぶらしていたユノは、三役のこの会話をたまたま耳にしてしまった。隣にはユピトもいたが、ユピトはこの会話内容を半分程度しか理解できていないようだった。
「アキルスでお酒を造ってるって、初めて聞いた」
「酒って、作るの難しいのか?」
「うーん。あんな風に泡立つお酒は、難しいのかも。初めて見たもん」
ユピトは首を傾げながら「ふーん」とうなずいた。語尾が上がっていることから、理解していないことがうかがえる。ユノはくすっと笑うとユピトの手を引き「あったかい飲み物もらいに行こ!」と走り出した。
目指すのは卵屋のラグおばさんを筆頭にした〝お母さん連合〟による屋台だ。そこでは、子供も飲める〝お酒風飲み物〟が振る舞われる。果実がたっぷり入ったものが一番人気を誇っている。
屋台へ行くと、珍しく〝お母さん連合〟の面々も泡立つお酒を飲んでいた。
「はぁ、お酒に泡なんて妙ちきりんな……と思ってたけど、うまいもんだねぇ」
こう言って杯を傾けるのは、卵屋のラグおばさんだ。
「本当ですねぇ。とっても美味しい」
こう言って一息に飲み干したのは、ユノの母オセルだ。
ユノとユピトが屋台の前に立つと、上機嫌の〝お母さん連合〟が二人分の飲み物を振る舞ってくれた。湯気の立つ器を受け取り、二人はお礼を言って広場へ戻った。
寒空の下、ふぅふぅと息を吹きかけ飲みやすい温度まで冷ましながら、二人は広場をぐるぐる歩き回った。
大人も子供も踊り疲れた頃なのか、それぞれに振る舞われた飲み物を楽しんでいる様子が目立った。カルウィンとダナンは「眠い」「喉がかわいた」とぐずる子供たちをあやすのに忙しそうだった。
ルルとリリも、二人を手伝って小さな子たちを背負ったり抱き上げたり忙しそうにしている。
ユノたちは手伝いを申し入れたが、喜ぶカルウィンたちを押しのけたルルたちに「邪魔しないで!」と言われ、仕方なくまた二人で広場を歩き回ることにした。
火の勢いは衰えない。火の神に不安を吹き飛ばされ、酒でいい気分になった大人たちが踊る足も休む気配がない。もう一度あの輪に加わって踊ろうかと相談するユノとユピトの前に、泥酔したカンテがぬうっと現れた。
「ユピトぉ。愛してるぜぇ俺の息子ぉ!」
「うわっ! やめ、くせえ! 親父やめろ! やめろって! くさい!」
カンテはユピトを抱き上げ、嫌がられるのも構わず頬にキスをする。酒のにおいとちくちくと刺さる髭の感触が不快で、ユピトは必死にもがいてカンテの腕から逃げた。
カンテはユピトを抱き上げようとまた腕を伸ばす。ユピトはカンテの腕を掻い潜ると、ユノの手を取り「逃げるぞ!」と走り出した。
逃げれば追いたくなるのが人間の
カンテから逃げ切った二人は、三役が集まる一角に戻ってきていた。息を切らせる二人を見て、フェオが「ちょうどいいところに」と手招いた。
また何か厄介な〝お手伝い〟を頼まれるのかと警戒しながら近寄ると、ユノの父エオロが、石畳の上でひっくり返っていた。驚くユノに、フェオがエオロの妻オセルを呼ぶよう頼んだ。
「酒に弱いエオロ先生に、この酒は少々強過ぎたようだ。奥方を呼んできてはくれないかね、ユノ嬢」
ユノとユピトは、急いでオセルを呼びに〝お母さん連合〟の屋台へ走った。
驚いたことに、屋台の〝お母さん連合〟はまだアキルスからの酒を楽しんでいた。普段滅多に酒など飲まないオセルも、顔を真っ赤にしてくすくす笑い通しだ。
こんな状態で介抱なんてできるだろうかと不安がるユノの心配もよそに、オセルは二つ返事で「私の夫を助けに行きましょう!」と立ち上がった。広場の一角へ向かう足取りは危なっかしく、ユノとユピトは、よろけるオセルを何度も支えなくてはならなかった。
駆けつけたオセルを見て、フェオもヤラィも不安そうな表情を浮かべた。ヤラィがやんわりと自分の妻を呼んで一緒に介抱させようと言ったが、オセルは頑として聞かなかった。
「私は三役の妻として頼りないかもしれませんが、それでもエオロの妻です! エオロの介抱は、私がします!」
ふらふらのエオロを、同じくふらふらのオセルが支えて家へと向かう。フェオは肩をすくめ、ヤラィは困った顔をする。その困り顔のまま、ヤラィはユノたちを見た。
「祭りを楽しんでいる最中にすまないが、見てきてやってはくれないか」
ヤラィに頼まれなければ、今すぐに追いかけていたくらいだった。ユノとユピトはうなずくと、頼りない足取りで寄りかかり合って歩く夫婦に向かって駆けていった。
「あら、ユノ。あなたも帰るの?」
くるりと振り向き尋ねるオセルに、ユノは悩みながら「うん」と答えた。オセルはユピトに向き直ると「あなたも?」と尋ねた。思わず「えっ」と声を漏らし言い淀むユピトに、オセルは「泊まっていきなさいな」と笑った。
驚き声も出ないユピトに、オセルはくすくす笑って「この前も泊まったじゃない」と言って、今夜も再び泊まるようユピトに迫る。
「今夜はカンテさんもうちのエオロもべろべろだもの。
上機嫌のオセルは、歌いながら足を速めた。歌うことに夢中で足下に気を配っていないオセルを気遣うのは、ユノとユピトの役目だ。二人がハラハラしているとも知らず、オセルは寒空を見上げ歩き続ける。
ユノはこっそり、ユピトに話しかけた。
「ユピト、今日はうちに泊まる?」
「でも、エオロさんがまた機嫌悪くするから……」
「気にしなくていいよ! お父さんもお母さんもこんな風だし、カンテさんだってすっごく酔っ払ってたんだもん。おうちに帰ったらきっと大変だよ」
「親父は……たしかに、すごく酔っ払ってる。帰ったら、すっごくめんどくさい」
「でしょ? それに、泊まっていきなさいって言ったのはお母さんだもん。ユピトはお客さんだよ!」
「でも……」
「大丈夫、怒られそうなら今度はわたしが怒るから!」
悩むユピトに、ユノは胸を叩いて約束してみせた。頼もしく見えるよう精一杯胸を張るユノを見て、ユピトは「わかった」と微笑んでうなずいた。その表情は
家に入ると、オセルはエオロを椅子に座らせ、ユノとユピトにテキパキと指示を出した。ユノはお椀に水を汲む係、ユピトはたらいに水を汲む係だった。
ユノが汲んだ水を飲み、ユピトが汲んだ水で冷やした布で体を拭き、エオロの青い顔に少しばかり血の気が戻った。周りを見る余裕すらなかったエオロは、ここでようやくユピトに気がついた。
ユピトの黒髪と金の瞳を認め「あっ」と声を上げるエオロを取り成したのは、オセルだ。
「まあまあエオロ。今晩くらいはいいじゃない。カンテさんが酔っ払って大変なのよ。あんな髭面でしつこくキスされたら、いくら実子のユピトでも可哀想だわ。うふふ!」
うふふ、うふふと楽しそうに笑うオセルの様子に、エオロはぽかんとした。エオロから説明を求める視線を向けられ、ユノは身振りと手振りだけでオセルも同じ酒を飲んだことを伝えた。エオロはそれだけで納得したようで、まだまだ話そうとするオセルを宥め始めた。
――今日のお母さんはご機嫌だなぁ。お酒って人を弱らせることもできるし、人の気分を良くすることもできる。良い面も悪い面も両方あるって、薬みたい。
大人になったら自分も飲めるかな、とユノが考えていたそのときだ。玄関で、静かに扉が叩かれる音がした。エオロが振り向くより前に、酒のせいでご機嫌なオセルが「はぁい」と返事をする。扉の向こうから返事はないが、ガチャリと、把手が回る音がした。
「どちら様ですか」
エオロが立ち上がる。
外から冷気が入り込んだ。立ち上がったエオロ越しに、ユノとユピトも玄関の様子をうかがう。
暗闇の中に、襤褸を着た黒髪の男が立っていた。
鳶色の目をカッと見開き、その目でエオロを捉えると、襤褸の男は大股で中に入ってきた。
「どこだ。獣の仔をどこに隠した!」
ユノたちがいる部屋に到達するまでに、男は手に触れるものすべてに拳を叩きつけた。襤褸をまとった風体は怪力と無縁の体格に見えるというのに、男の拳が叩きつけられた物や壁には、拳の形がくっきりと刻みつけられていた。
叩きつけた拳から血を落としながら、男はユノたちがいる部屋に近づいてくる。
突然現れた男の暴力に、部屋にいる誰もが動けなかった。男が部屋に入ってきて、再び「獣の仔はどこだ!」と叫び椅子を壊したことによって、最初にエオロが動けるようになった。
「いったいあなたは誰なんだ? そうか、あんたがルベルでユノたちに掴みかかった男だな!? 捕まったとは聞いていなかったが――まさか僕らを追いかけてきたのか!?」
負けじと声を張り指を突きつけるエオロに、男は手を伸ばし胸ぐらを掴み上げた。
「貴様が獣の仔を隠してるんだな!? どこだ、俺の妻はどこだ! 貴様が神獣か!?」
「話は通じないようだな……!」
襤褸の男にエオロも手を伸ばし、負けじと胸ぐらを掴んだ。二人はもみ合いになり、取っ組み合い、床を転がった。酔いも覚めたオセルがユノとユピトを背中に庇う。
ユノはユピトにしがみつき、ユピトもユノを抱えるように抱きしめた。
近くで見ると、男はエオロより遙かに上背があり、体格も良かった。エオロが負けるのは目に見えている。
このままでは子供たちにも被害が及ぶだろう。そう考えたオセルは、ユノたちを寝室へ走らせた。
「ユノ。ユピトと寝室へ行きなさい」
「で、でも、お母さんはっ? お父さんはっ?」
床ではエオロが男に組み伏せられている。男の拳が振り上げられるのを、ユノは見てしまった。
オセルは「大丈夫よ」と言ってユノたちの視界を自らの体で塞いだ。だが、音までは防げない。
エオロのくぐもった声に、ユノは目に涙を浮かべる。男は声を張り上げる。
「妻をどこへ隠した、言え!! 妻を出せ!!」
再び拳が振り上げられた。オセルで隠れていても、高く上げられた男の拳は見えた。
血にまみれた拳が、よく見えた。
見知らぬ男に夫が殴られ、子供たちにも被害が及ぶかもしれないという状況に、オセルの思考は混乱を極めていた。ただ「大丈夫」と繰り返し、ユノたちを寝室へ走らせることしか、浮かばなかった。
「大丈夫よ、大丈夫だから行って。早く!」
オセルに押され、ユノとユピトはもつれる足で家の奥へ走った。男が「待て」と怒鳴るのが聞こえた。
ユノもユピトも足を止めなかった。エオロとオセルの声が聞こえた。ユノは幾粒も涙を落としながら、寝室目指して暗い廊下を走った。
部屋に飛び込み、ユノは急いで扉を閉めた。鍵はない。二人は小さな体を寄せ合い、扉に押しつけることで鍵の代わりとした。扉越しでも、男の声は聞こえる。父エオロの声もユノの耳に届いている。扉を押さえている時間は永遠にも感じたし、一瞬にも思えた。
二人はオセルが短い悲鳴を上げるのを聞いた。
エオロの苦悶の声を聞いた。
男のひび割れた声を聞いた。
「燃えてしまえ。獣も獣の仔も、俺の妻を隠すお前たちも、
ユノたちがいる寝室にたどり着いたのは、焦げたにおいが先だった。続いて、黒い煙が扉の隙間から入り込む。
変だよ、とユノが震える声で呟いた。
「焦げてるにおいがする。煙が出てる。でも、でも、こんなに早く火が回るなんて、変だよ」
世界には、二種類の火が存在する。
一つは人が、生き物が、自然が熾す火だ。それは世界に存在する決まりに倣い、自然の速度で広がる。
もう一つは火の神による火だ。火の神による火は人の心にある不安を焼き、先の見通せない不安によってできた暗闇を明るく照らす。
どちらの火にも、悪意や害意は存在しない。だが今この家を、ここにいる命を燃やそうとする火には悪意があった。害意があった。傷つけてやろうという意思が感じられた。そんな火をユノは知らない。ユピトは火に種類があることすら知らなかった。
どうしてと呟き、ユノは一層強く扉を押さえつけた。理由を聞かれても、ユピトには答える知識がない。
ぽろぽろ涙を落とすユノを慰めることもできず、ユピトは一緒になって扉を押さえることしかできなかった。
足音が聞こえた。
荒い息づかいが聞こえた。
駆け寄る相手が見えるかのように、ユピトが相手の目の高さを見上げた。
「ユノの、おかあさんだ」
その通りだった。扉の前に立ち「開けなさい」と切羽詰まった声で言ったのは、オセルだった。ユノたちが扉から離れると、オセルは勢いよく扉を開けた。そしてユノたちを抱え上げた。扉の外、廊下では、めらめらと炎が揺れていた。炎は床を、壁を、オセルを舐め上げる。
「この火はね、人の火でも、神様の火でもないわ。決して触ってはだめよ」
火の勢いが強過ぎて、引き返すことはできない。細腕で子供二人を抱え、オセルは廊下を進んだ。奥へ進めば、エオロの事務室兼書斎がある。そこの窓から子供たちを外へ出すつもりだった。だがオセルの足は執拗に炎に炙られ、限界を迎えていた。
オセルの足を伝い、スカートを伝い、炎は子供二人をも飲み込もうと這い上がる。触れさせまいと、オセルは残る力を振り絞って子供たちを高く抱き上げ、足を進めていく。オセルをあざ笑うように、炎はオセルを追い越し先へ先へと舌を伸ばし、家のあちこちを飲み込んでいく。
高く抱き上げれば煙を吸い、子供たちは涙ぐみながら咳き込む。かといって下ろせば、火に飲み込まれる。
オセルは何度も謝りながら、思い通りにならなくなる足で書斎を目指した。
ユノは咳き込み、涙ぐみながら「下ろして」と訴えた。
「お母さん、下ろして、お願い。わたしたちを抱いてたらお母さん、焼かれちゃう!」
オセルは返事をしなかった。煙で喉を痛め、もう咳すらできない。返事代わりにユノを強く抱き、また一歩、強く足を踏み出した。
書斎の扉は、すでに炎によって消し炭になっていた。塞がった両手では扉を開けることなんてできなかっただろう。焼かれながら、オセルはたった一つ、扉を焼いたことだけは炎に感謝した。
だが、炎は書斎の床を、壁を、窓を飲み込んでいた。それらを飲み込んでおきながら、炎は意地悪くそこに残り続けている。扉のように消し炭にせず、形を残したまま燃え続ける。まだ炎に侵されていないのは机だけだ。
「あの机を仕上げてくれたのは、どの職人さんだったかしら。その人は、火の神様の加護を受けた人だったかしら」
ひび割れた声でそう呟くと、オセルは痛みしか感じない足で机に近づいた。机の天板に二人を立たせ、オセルは二人の顔を目に焼き付けた。
煤けてはいるが、火傷ひとつない。
自分は子供を守り切ったのだと、オセルは安堵した。
炭化した足が崩れ、オセルは火の海に沈んでいく。
「ユピト」
最期に、オセルはユピトへユノを托した。
「私とエオロの子を、守って」
火の海に沈んだオセルを、炎は容赦なく飲み込んだ。オセルは悲鳴すら上げられず、炎に貪られ、灰すら残さず燃え尽きた。
ユノは見た。母が安心したように目を閉じた様を。
ユノは見た。母が燃える様を。
ユノは見た。炎が自分たちをも飲み込もうと迫る様を。
精神の限界を迎えたユノは、ふつりと意識が途切れる間際、獣の咆吼を聞いた。
ユノが目を開けると、見えるのは金色だけだった。ユノを覗き込むユピトの目だった。ユノが瞬きをすると、金色の目がたちまち涙で揺らいだ。
「よかった。ユノ、起きた。起きてくれた」
ユピトが遠くなった。覗き込むのをやめ、椅子か何かに座ったようだ。
ユノは体を起こし、自分が知らない誰かの寝台に寝ていたことを知った。ユピトの全身を視界に入れて、ユピトが体のあちこちに火傷を負っていることを知った。自分の体に火傷がないことを知った。
「……ユピトが、守ってくれたんだね」
「おれじゃ……ない。おれじゃないんだ、ユノ。ごめん、ごめんな」
ユピトはぼろぼろと涙を落とし、何度も何度も謝った。火傷の治りきらない手であふれては落ちる涙を拭う。
ユノは手を伸ばし、ユピトの手に触れた。ユピトは涙を拭うのをやめ、ユノの手をぎゅうと握った。ユノの目から、涙はこぼれなかった。
「夢じゃ……ないんだね。昨日のことは、本当のことなんだね」
扉が開く音が聞こえた。扉を開けたのはヤラィだった。後ろにその妻とダナンが心配そうな顔で立っている。さらにその後ろには、神妙な顔のフェオがいた。ダナンがいることから、ここはヤラィの家だとユノは知った。
髭に包まれてもわかるほど沈痛な顔で、ヤラィはユノが寝る寝台に近づいた。重々しく、ヤラィの口が開かれる。
「隠してもきみのためにならないと、我々は判断した」
ユノはユピトの手を強く握りしめた。ユピトもユノの手を強く握り返す。
ヤラィはためらうように口を閉じた。ヤラィがためらうのを見るのは、ユノもユピトも、ダナンすら初めてだった。
ヤラィは深く息を吸い、長く長く息を吐き出すと、寝台のそばにしゃがんだ。ユピトが遠慮するように横へずれる。体を起こしたユノと目を合わせ、ヤラィは、昨夜の出来事は事実だとユノに告げた。
「きみのご両親は、亡くなられた」
ユノは目を閉じた。瞼がくっつき二度と開けられないのではと思うほど強く目を閉じ、脳裏に浮かぶ昨夜の出来事を振り払おうとした。
だが消そうとすればするほど、燃え上がる母が浮かび上がる。父のくぐもった声が蘇る。男のひび割れた怒鳴り声が、すぐそこで聞こえるような気になる。
ヤラィは静かに、ユノのこれからについて話す。
「きみの両親のそのご両親も、今は土のゆりかごで眠っておられる。ユノ、きみにはもう肉親がいない。きみのご両親を弔うことも重要だが――きみの身の振り方が最重要だと、我々は結論づけた」
どうする、とヤラィの目が語っていた。だがどうすると尋ねられても、まだ子供のユノにはわからない。どうすればいいか、どうすべきか、道しるべを失ったユノにもっともな答えが出せるわけもない。
ああ、とユノは息を吐いた。
――わたし、もう子供じゃいられなくなるんだ。
悟ると同時に、寄る辺のない身で大人になることへの不安がどっと押し寄せた。そして、深い深い悲しみも。
ユノの榛色の目からぽろぽろと涙が落ちる。耐えきれずヤラィは目を逸らした。ヤラィの妻が部屋に駆け込み、ユノの体を抱きしめた。ヤラィの妻は香油を使っているのか、優しい香りがした。だが、その香りこそがユノに現実を突きつけた。
――お母さんと、違うにおい。
母に抱きしめられた感覚と、ヤラィの妻に抱きしめられている感覚が、勝手に比較される。ヤラィの妻の香りと母オセルの香りが比較される。そして、もうあの香りは二度と感じられないと認識する。
ユノは声を上げて泣いた。大人たちは哀れみを込めてユノを見つめていた。もう子供でいられないユノに、これで最後になるだろうからと、好きなだけ泣かせた。
その間もずっと、ユピトはユノの手を握り続けていた。金色の目から涙を落としながら、それを拭わず、ユノをじっと見つめていた。泣き続けるユノも、ユピトの手を決して離さなかった。
こうして、ユノたちの少年時代は終わりを迎えた。
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