六〇七年 秋の三節
秋の三節。港町ルベルでは収穫祭を行わない代わりに、水、風、海の神三柱への感謝祭が行われる。
ルース唯一の港町ルベルは、小国らしい小さな町だ。だがルースが神獣を討伐した唯一の国として地位を築いて以来、町は人であふれかえるほど栄えている。ひっきりなしにやってくる商船の無事を祈るため、ルベルでは水の神と風の神、そして海の神を信仰して祀っていた。
ルベルの感謝祭に、まず商人フェオが出店することになった。同日、農学者ヤラィと医者エオロの学会がルベルで開かれる予定だった。これにより、三人の送迎と護衛を兼ね、カンテもルベルへ同行することになった。
子供を連れて行くと言い出したのは、フェオだ。
「後学のために息子も連れて行きたいんだがね。それなりの額は払うし、マナズさんとこの部下にも護衛を頼む。だめかね、カンテさん」
渋い顔をするカンテに、では自分もと言い出したのはエオロだった。
「娘のユノは薬学に興味があるようなんです。今回、ルベルの町で〝古の民〟も露店を出すと聞きました。彼らの薬学を教えてもらうことはできないでしょうが、見るだけでも学びはあると思うんです。お願いします、カンテさん」
普段は自分にいい顔をしないエオロに頼み込まれ、カンテはますます難しい顔をした。最後の一押しをしたのは、カンテの雇い主であるヤラィだ。
「ケントラムへはダナンを連れて行けなかった。今回は季候もいいし、鍛えられたお陰でダナンの体調もいい。私からもお願いする、カンテさん。我々の子供三人も同行させてくれないか」
三役三人に頼み込まれ、カンテは頭を抱え唸った。しかし、悩んだのは数秒だった。
「報酬は倍額。それからマナズさんの部下で〝使い物〟になる兵二人追加。あと……俺の息子ユピトも連れて行く。それならいいぜ」
「決まりだな。マナズさんには私から頼んでおこう」
「いやぁ良かった! 商談はいつしてもハラハラする」
「ありがとうございます、カンテさん」
三役それぞれに喜ばれ、礼を言われ、カンテはため息をつきながら短い黒髪をかき回した。
西へ南へと馬車を走らせ、三役ご一行は四日目にしてルベルの町にたどり着いた。長旅に慣れたフェオが元気に馬車を降り、同じく旅に慣れたヤラィが堂々と降車し、そして疲れた顔のエオロが最後に出てきた。カンテは、御者として馬を操っていた。
大人たちが降車したのを見て、子供たちももう一台の馬車から降りた。一番はカルウィン、その次がダナン。次にユピトが降りて、ユノが馬車から降りるのを手伝った。
潮風を浴び、カルウィンは興奮した声で「見ろよ!」と人で賑わう町を指さす。
「海だぜ、海! 海ってほんとにあるんだな!」
「話には聞いてたけど、ほんとにこんな匂いなんだね」
はしゃぐカルウィンの隣で、ダナンも物珍しげに人混みの向こうの海を見る。ユピトは少し上を向き、風の中に何かを探すように鼻を突き出した。
「フラウスとも、ウィリデとも違うにおいだ」
「ウィリデはどんな匂いがするの?」
「ウィリデは、優しいにおいがする。土と、木と、水のにおいだ」
「じゃあフラウスは?」
「フラウスは、土と花と、薬のにおいがしてた」
「それじゃあ、このルベルは?」
ユノが問いに、ユピトはもう一度風の中にあるにおいを確かめた。ふんふんと一人うなずいたユピトは、にかっと笑ってユノを見た。
「水と、生き物のにおいだ!」
ユピトが言う〝生き物のにおい〟を、ユノは何となくだが理解できた。海にはたくさんの生き物が溶けている。そんな話を聞いたことがあった。ユピトの鼻は敏感にそれを察するのだろうと、ユノは納得した。
「カルウィン、こっちだ。まずはルベルの商会に挨拶をせんとな」
「お、早速か? おれの名前も売っとかねーとな!」
「まだまだわしのオマケのくせに何を言うか」
呵々と笑うフェオに連れられ、カルウィンが一番に馬車を離れた。
「ダナン、ついてこい。発表の前に、お前に会わせる学者がいる」
「はい、父上!」
その次はダナンだった。引きずりそうな黒衣をはためかせ、ヤラィの後を追って走って行った。
「ユノ。父さんは学会に出るけど、その間に露店を回って買い物をしてきてくれるかい? ほしいものは、ウィリデを出るとき教えたから覚えてるね?」
「大丈夫。覚えてるよ、お父さん」
エオロから硬貨が入った小さな革袋を手渡されたユノは、受け取りながら「ユピトと行ってもいい?」と尋ねるのを忘れなかった。可愛い一人娘がユピトと一緒にいることを好まないエオロは「うぐ」と言葉を詰まらせたが、榛色の目を輝かせて見つめられると否とは言えなかった。
「カンテさんか、マナズさんの部下が一緒ならね」
「わかった! お父さん、頑張ってね」
「ありがとう。それじゃあまた宿で」
頬にキスを交わし合い、エオロも人混みに消えた。
感謝祭の期間は五日。三役一行は、五日の間ルベルに滞在する。当然護衛のカンテたちもルベルに残り、子供たちもルベルで過ごす。目的は父たちの仕事のお手伝い、そして後学のためだったが、子供たちは空いた時間を見つけてはそれぞれにルベルを楽しんだ。
カルウィンは、フェオの息子として顔と名前を売った。生意気と言われることも多かったが、商人としてはそれもまた良しと名前を覚えられた。
ダナンはヤラィの息子として、そこそこに顔を売った。だが大半の学者たちは、ヤラィの弟子として彼を認識した。ヤラィの身の回りの世話をあまりにも完璧にこなす彼の姿は、ただの子供として映らなかったようだ。
ユノは、何かとユピトと一緒に行動していた。父エオロに頼まれた薬草や薬を買っては、買った品物を抱えたまま、露店の店主と話をした。
〝古の民〟と呼ばれる彼らの服装は奇妙だった。顔を覆い隠すほどの長い外套に、衣服の端という端にぶら下げられた色とりどりの石という格好は、彼らがそこにいるだけで目立った。だが変わっているのは格好だけで、彼らの気性は穏やかで、気さくだった。
しかし、いくら優しい彼らでも薬の煎じ方や薬草の育て方までは、ユノが目一杯の愛嬌を見せても教えてはくれなかった。
手を繋いで買い物をするユノたちを、〝古の民〟たちは何度も兄妹――もしくは姉弟――と間違えた。そのたび「違うもん」と拗ねるユノと「似てるか?」と嬉しそうにするユピトを見て、〝古の民〟たちは愉快そうに笑った。
間違えたお詫びとして、彼らはたくさんのオマケをくれた。そのオマケは、エオロが驚き大喜びするような珍しいものばかりだった。
ユノと露店を回っていたユピトは、屋台で売られる食べ物を気に入ったようだった。その中でも一番のお気に入りは、揚げ菓子だった。揚げ菓子を売る店主は火を使わず油を熱し、からりと揚がった菓子を素手で摘まみ上げた。砂糖をまぶした揚げ菓子をユピトたちに差し出す手には、火傷の一つも見られない。驚き声も出ないユピトたちを見て、店主は得意げに胸を張った。
「いやぁ、この領域に来るまで苦労したもんだよ」
「ど、どんな修行したらっ、油に手を入れても平気になれるんだっ?」
揚げ菓子を手に興味津々といった目で尋ねるユピトを見下ろし、店主は「修行じゃあないんだ」と鼻を高くした。
「俺ぁ火の神様の加護を授かってる。坊主の父ちゃんも授かってるだろ? 神様の〝子〟になるとな、ご神託を受けるんだ。その時々によって何を頼まれるかは変わるが、まあ大概はお遣いみたいなもんだ。一つこなせば次のご神託はちょっと難しいものになる。それだって、こいつならできるだろうと信じて頼んでくださるんだ。その信頼に応えなきゃあ、男じゃないだろう?」
話に聞き入ったユピトが、こくこくとうなずく。店主はさらに熱の入った弁で続けるが、ユノは置いてけぼりを感じ、もぐもぐと揚げ菓子を食べ始めた。
「最初はどこにでも売ってるような魚の干物だった。その次は、沖に出なきゃ釣れねえ魚の塩焼きだった。次は貝柱を香ばしく焼いたもの。俺は何度でも、火の神様が食べたいと仰るものを用意した。それこそ、地の果て水底どこへでも行って食材を調達した。神様は俺の頑張りを認め、料理の腕を認め、加護を強くしてくださったってぇわけさ」
「すげぇ……すげぇ、おっさんすげぇ!」
「ふふふ。おっさんは余計だな」
目を輝かせ褒め称えるユピトと、満更でもない様子で賞賛を受け入れる店主を少し冷めた目で見ながら、ユノは湧いた疑問を店主にぶつけた。
「でも、どうして火の神様は海のものばかり食べたがるんですか?」
「そりゃあお嬢ちゃん、決まってら」
店主は腰に手を当て、当然と言いたげな顔で答えた。
「まず神様たちは、自分に捧げられたものしか口にできない。これは知ってるな? 火の神様と水の神様は祭りの時期がずれてる。これも知ってるだろう? 水の神様は漁師からの信仰が厚い。火の神様は、自分が食う物が少ない時期に水の神が海産物を上手そうに食ってらっしゃるのを見るってわけだ」
「ひとが食ってるものって、うまそうに見えるもんな!」
「お、坊主わかってんなぁ」
どうも揚げ菓子の店主とユピトの気は合うようで、二人は終始通じ合っているようだった。ユノは最後まで、二人のやり取りについていけないままだった。
ルベルで過ごすのも残すところ一日となった頃。フェオの露店を手伝うカルウィンの自由時間、子供たち全員が手すきとなった。それぞれで感謝祭を楽しみはしたが、全員では楽しんでいない。カルウィンを先頭に、四人は一緒に感謝祭へ繰り出した。
すっかり感謝祭の露店に詳しくなったカルウィンが「あの店は焼き菓子を売ってる」「あの店はうまい包み焼きを売ってる」「あの店は石を売ってる」と露店ひとつひとつの説明をする。まともに店を回っていなかったダナンが感心しながらうなずき、ユノとユピトは知っている店が出ると「わたしたちも行ったよ!」「おれたちも行った!」と嬉しそうに店の感想を述べた。
四人はそれぞれの親からお小遣いをもらっていた。少額だが、何に使ってもいいと言われて渡されたものだった。
四人はまず同じ焼き菓子を買った。焼き菓子は外が香ばしく、中はふわりと甘かった。
次に買ったのは揚げ焼きだった。香辛料の利いた揚げ焼きは衣こそ子供の舌には辛かったが、中身はふわふわと柔らかい魚の白身で、同時に食べると程よい辛みが食欲を刺激した。
美味しい物に舌鼓を打って満足した四人は、今度はウィリデへ持ち帰るお土産を探し始めた。
ユノは何度か通った〝古の民〟の露店で、薬草の種を買った。「ウィリデの土地で育つかわからんよ」と言われたが、何事も挑戦だと思って代金を支払った。
ダナンは石を買った。暗闇でも光る石だが、猫の目石とは違う石だ。それは昼の間太陽の光を吸い込み、夜になると小さな太陽のごとく光るという話だった。隣で見ていたカルウィンが「ほんとに光るのかよ」と胡散臭げに見ていたが、露店の店主が「裁きの神に誓えるよ」と宣言してみせるので納得したようだった。
カルウィンとユピトは、これといったものがなかなか見つけられなかった。カルウィンは理想の高さから、ユピトは物欲の無さが原因だった。
「おれ、うまいもん食べるほうがいい」
「それも使い道の一つだし、おれはいいと思うよ」
「腹膨れるのもいいけどよ、何か一つくらい『ルベルに来た』って思い出せるもん買っとけよ」
「うーん……」
悩むユピトに、カルウィンは並ぶ店を指で差しては店主のように品物を説明する。ユピトはますます悩んでしまい、その様子を見ていたダナンは苦笑し、ユノは「慌てなくていいんだよ」と一緒に店の品々を見て回った。
ある露店に、人だかりができていた。その店では〝神獣の角〟が売り出されていたのだ。そしてその店の前で、ボロボロの格好をした男が店主に出所を詰め寄っていた。伸ばし放題の髪と髭は黒く、身にまとっている外套はほとんど襤褸と化していた。その姿を見て、ユノはケントラムで聞いた〝神獣に妻を奪われた男〟を思い出した。
「この角は、どこで手に入れたんだ。教えろ。教えてくれ。いったいどこで、神獣の角を手に入れたんだ。どうやって手に入れたんだ」
男は黒い髪を振り乱し、店主に掴みかかろうとした。男の手をいなしながら、店主は「それを言っちゃあ商売にならんでしょう」と口角を上げる。
「まあ旦那が、この角を倍の値段で買うってんなら話してやってもいいかな」
男は手を離し、外套のかくしに手を突っ込んだ。だがその手に握った物を男が出すことはなかった。カルウィンが止めたからだ。
「それ、偽物だろ。本物でもないのにそんな値段で売っちゃあ呪われるぜ、おっさん」
伸ばし放題の髪に隠れた目が、見開かれた。その目は鳶色をしていた。店主の目も一瞬丸くなったが、すぐ笑みの形に細められる。
「なぁにを言うかね坊主。じゃあ本物とどこが違うか言ってみろ」
「本物は知らねーけどよ、別の角は見たことあんだよ」
カルウィンは並べられた角の一本を手に取った。神獣の角は黒く、ねじれながらまっすぐに伸びている。先端は鋭く、これで突き刺されれば大けがをするだろう。手に持った角をもてあそび、カルウィンは「やっぱり偽物だ」と不敵に笑った。
「これは海に住む一角の獣のもんだろ。こうやってねじれてるのが証拠だ」
「し、神獣の角も、ねじれてるんだ。知らないだろ、坊主。なあ旦那、あんたは知ってるんだもんな? 神獣の角はこうやってねじれてんだろ?」
「おれは神に誓ってもいい。〝判じ所〟に行くか? 裁きの神様は真実を知ってらっしゃるぜ」
神に誓ったカルウィンに対し、店主も神に誓わなくてはならない。
神は嘘を嫌う。虚偽を述べれば、今まで受けた加護はたちまち呪いに転じる。
店主は黙らざるを得なかった。
長い長いため息をついた店主は、自分の〝嘘〟を認めた。神獣ではなく遠い海に住む一角の獣から取ったものだと、白状した。人だかりからカルウィンへ拍手が送られた。カルウィンは得意げに、照れくさそうにそれを受けた。
ユノは、襤褸を着た男が肩を落としうなだれているのを榛色の目でしっかりと見た。しかしすぐ、角が並ぶ露店へ視線を戻してしまった。
カルウィンに嘘を見抜かれた店主が、好きな物を持って行っていいと言ったからだ。
「やるな、坊主。ジョリジョリ頭のくせに……」
「ジョリジョリは関係ねーだろ!」
「ジョリジョリ坊主の仲間たち。〝判じ所〟に突き出さないでくれるなら、好きな物持って行っていいぞ」
「おいジョリジョリって言うのやめろよおっさん!」
店には角以外にも、奇妙な品や不思議な品が所狭しと並べられていた。ユノはユピトと一緒に露店の品々を眺め、これがいいあれがいいとあれこれ手に取った。
気づくと影が差していた。二人の背後に、襤褸の男が立っていたのだ。男はユピトの黒い髪と金色の瞳を、長い髪に隠れていた鳶色の瞳でじっと見つめ、口を開いた。
「その髪……王都でしか、見ない、黒髪だ……」
「お……おじさんも、王都でしか見ない、黒髪でしょう?」
襤褸の男はユノに目もくれず、ユピトだけを見ていた。鳶色の瞳に射竦められたように、ユピトは動けず、口を開けることもできなくなった。
男の手が素早く伸びた。爪が伸び放題の手がユピトの胸ぐらを掴み、小さな体を宙に浮かせる。ユノが叫んだのと、通りかかった誰かが叫んだのは同時だった。締め上げられ、ユピトはうめき声すら上げられない。
「お前の目、その獣の目をよく見せろ。なぜ包帯で額を隠す? 角を抉ったのか? お前の母親の名は何だ。言え、答えろ、獣の仔!」
すかさず動いたのはカルウィンだった。見ていた品物を店主に押しつけると、襤褸の男に向かって体当たりをした。年の割に大きな体は勢いがあり、男はよろめいた。その隙を突き、ダナンが男の手をユピトから引き剥がす。倒れ込み咳き込むユピトの手を、ユノが掴んだ。
そのまま、ユノは人混みの中を走り出した。
襤褸を着た男の喚き声が、二人の背中に追いすがる。
「母親の名を言え、父親の名を言ってみろ、獣の仔め!」
「おれの友達を獣扱いすんじゃねえ!」
カルウィンが思い切り襤褸の男の頭を殴りつけた。騒ぎを見ていた大人たちが、カルウィンと一緒になって男を押さえ込みにかかる。ダナンが二人に向かって叫んだ。
「走れ、二人とも!」
ダナンの声に背を押されるように、ユノは走った。いつも自分の手を引くユピトの手をしっかりと握り、当てもなく走る。ユピトの手は、呆けたように力なくユノに引かれていた。
走って、走って、走り続けた。
行き交う人たちに何度もぶつかった。大人たちに眉をひそめられながら、ユノは足を止めなかった。
だがその足も、やがて疲労によって動かなくなった。
ユノは息を切らせ、立ち止まった。話すこともできないほどに呼吸を乱しているユノとは正反対に、ユピトは息切れ一つしていない。しかし、表情はユノよりも暗い。
カンテさんに鍛えられてるだけあるなぁ、とユノが感心していると、ユピトの金色の両目から、転がるように涙が落ちた。
驚くユノの前で、ユピトは幾粒も涙を落とす。
「お……おれ……」
絞り出すような声は、ユノがユピトに向き合っていなかったら聞こえなかっただろう。雑踏にかき消されそうなほど弱々しい声が、母親の名を知らないと打ち明ける。
「ははおや、の、名前……知らない。親父が、言わなかった。教えてくれなかった。知らなくていいって……」
ユピトの心がどれだけ傷つけられたか、ユノは痛いほどわかった。泣かないで、なんて言葉は口が裂けてもかけられない。ユノはそっと、ユピトの涙を拭った。拭っても拭っても、新しい涙がユピトの頬を濡らす。知らず、ユノの目からも涙がこぼれていた。
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか。ユノ自身も、よくわかっていなかった。けれど、そう言わずにはいられなかった。
「ユピトは獣じゃないよ。ユピトはユピトだよ。大丈夫。大丈夫だからね」
ユピトはぎゅうと目を閉じた。閉じていても、涙は生まれては落ちていく。
しばらくの間、ユピトとユノは往来の真ん中で立ち尽くしたまま、ぽろぽろと涙をこぼし合っていた。
これではいけないと涙を止めたのは、ユノだった。カルウィンたちが止めてくれているからと油断してしまった。あの襤褸の男が、いつまた追いかけてくるかわからない。
袖でぐいぐい涙を拭うと、目元を赤くしたまま、ユノは再びユピトの手を取った。
「宿に帰ろう、ユピト。カンテさんはヤラィさんと一緒だろうけど、一緒に来てくれた兵士さんがいるはずだから」
論文の発表会だというのに、ヤラィたちが参加する学会は野次ではなく拳が飛び交う。最近頭角を現してきた若造に殴られ気を失ってもすぐ起き上がれるようにと、カンテは気付け役として学会へ同行するよう依頼されたのだ。
宿にユピトの父カンテはいないが、ヤラィが手配した警備兵の二人が待機しているはずだった。彼らに助けを求め、場合によっては襤褸の男を追い払ってもらおうと、ユノはユピトの手を引き大急ぎで宿へ走った。
待機していた警備兵二人は、泣き濡れた顔のユノたちを見て驚いた。そしてユノの話を聞き、一人は憤慨して剣を携え宿を飛び出し、一人は気の毒がってユピトを慰めた。
「金色の目が獣の目なんて、ここ数年言われ始めたことなんだ。気にしなくていいんだよ、ユピト」
「ん……。気にして、ねえ」
泣き腫らした目でそう言われても、にわかには信じられない。そう言いたげな顔で苦笑する警備兵を見上げ、ユピトは「平気だ」と言い切った。
「おれの目は、獣の目じゃない。朝を連れてきたお日様の目だって、ユノが言ってくれた」
ユノの顔がカッと熱を持った。警備兵は「そうか」と優しくうなずき、ユピトの黒髪をわしわしと撫でた。
ユピトは照れくさそうにうつむいたが、すぐにまた元気をなくした。
「目のことは、気にしてない。でも……おれ、ははおやの名前、知らない。生きてるかどうか……」
項垂れるユピトにどう声をかけたものかと空気が重くなったそのとき、宿の扉が蹴破られた。
「ユピト、いるかっ!?」
扉を蹴破り駆け込んできたのは、カンテだった。腰には、ぶら下がるようにカルウィンとダナンがしがみついている。男を押さえた二人は、カンテに助けを求めたのだろう。雇い主を放り出して息子を探しに来たカンテは、肩で息をしながらユピトに近づいた。
「大丈夫かっ? 怪我させられてねーだろうな!?」
近づくカンテを見上げ、ユピトは「怪我なんかしてねえ」と首を振った。掴み上げられたせいで襟首がよれた程度で、怪我はない。
カンテはユピトの体のあちこちを検分し、ユピトの言う通りだとわかると、安心して力なく座り込んでしまった。そのまま、太く逞しい腕でユピトの小さな体を抱きしめる。
「これだから人の出入りが多い町は嫌なんだよ、まったくよぉ……」
父の弱々しい声に、ユピトは戸惑った。カンテから離れたカルウィンたちも、顔を見合わた。カンテがこんなにも弱った様子を見せるなんて、ウィリデを訪れて一度もなかったのだ。
カンテたちから遅れて、ヤラィとエオロも宿へ戻ってきた。カンテを呼びに走った二人から事情を聞いたのだろう。特にエオロは、カンテと同じくらい息を切らせて宿に飛び込んできた。
「ユノ! 襤褸を着た男が突然襲ってきたんだって? 怪我はないか? 触られてないか? ああ、やっぱりオセルの言う通り、家で料理の勉強をさせていれば良かった!」
「お父さん、落ち着いて。わたしは大丈夫だよ。怪我もしてないし、触られてもないよ」
頬を挟まれた状態でどうにか「大丈夫」と訴えると、エオロはぼろぼろ涙を落とした。
二人の父親が、子を心配し弱り切った様子を見せている。それも、宿の入り口で。
戸惑う子供たちを見て、ヤラィと警備兵はカンテとエオロを立たせて部屋へ戻らせた。部屋へ戻るまでは警備兵が付き添い、蹴破った扉などの後始末はヤラィが請け負った。
「やれやれ。修理代は報酬から引く必要があるな」
冗談めかしてヤラィがそう言うと、カンテは小さな声で「そうしてくれ」と返した。ヤラィは珍しく、気まずそうに「冗談だ」と呟いていた。
部屋へ戻るなり、エオロがウィリデへ帰ろうと提案した
「学会の予定は今日までです。感謝祭は明日一日残っていますが、フェオさんに今日あったことを説明しましょう。フェオさんだって、カルウィンもその襤褸の男に関わってしまったと聞けばうなずいてくれます」
「あんたらがそうしていいと言ってくれるなら、俺は今すぐにでもルベルを出たいくらいだぜ」
「フェオさんを探して、話してきます。カンテさん、ユノのことも頼みます。襤褸の男がこの宿を見つけないとも限らないですから」
言うが早いか、エオロは部屋を飛び出していった。警備兵は部屋に残るべきかエオロを追うべきかでおろおろしている。カンテが「追いかけてやってくれ」と頼んだ。
「あの人には武器も腕力もなさそうだ。怪しい男を見て突っかかってったら、返り討ちに遭う」
「そ、そうですよね。カンテさん、二人をお願いします」
警備兵もエオロを追って出て行き、部屋にはカンテ親子とユノの三人だけになった。
元気のないカンテを前に、ユノとユピトは困ってしまった。慰めるにも、どう声をかけていいかわからない。顔を見合わせてはカンテへ視線を戻し、困り果ててはまた顔を見合わせて、を繰り返す二人に、カンテは話しかけた。
「これからなぁ、ユピトといると、ああいう奴が次から次へと来るかもしれねえ」
「ああいう、やつって……」
「ユピトを、獣扱いしやがる奴らだよ」
獣なもんか、とカンテは吐き捨てるように言った。腕を伸ばし、ユピトを抱き寄せ同じ黒髪をがしがしと撫でる。
「獣だったら俺を親父なんて呼ぶかよ。獣なら、こんな父親さっさと捨ててらぁ。そうだろう、ユピト?」
「親父、泣いてんのか?」
「ばか、誰が泣いてんだ? よく見ろ、この乾ききった目。涙なんか浮いちゃいないだろうが」
カンテの目に涙はない。だがユピトにも、ユノにも、カンテが泣いているように見えた。
「親父。獣扱いされても、おれは気にしない。ユノが、おれの目は朝を連れて――」
「ユピト! 言わないで! 言いふらさないで!」
「何でだ? ユノがああ言ってくれて、おれ、すげえ嬉しかったのに」
「で、でも、でもねっ、あんまりいろんな人に言われると、わたし、わたしっ!」
「朝を連れてきたお日様――だろ? ウィリデに着いた日に聞かされたし、何なら毎日聞かされてるから知ってるぜ、ユノちゃん」
ユノの顔は音を立てる勢いで赤くなった。ユピトは悪びれた様子がないどころか得意げだ。思わず「ばかぁ!」と怒ってしまったユノを見て、ユピトは理由がわからずただ首を傾げ、カンテは愉快そうにゲラゲラと笑っていた。
三役一行は、その日のうちにルベルを発った。フェオは商売の機会を一日失い残念がるかと思いきや、あっさりと了承して馬車の手配をした。一番驚いたのはカルウィンだった。
「親父、いいのかよ?」
「何がだ? ああ、明日の商売を言ってるのか」
フェオは呵々と笑い、カルウィンの頭をジョリジョリと撫でた。
「お前に何かあったら、わしは商売をする理由をなくすからな」
カルウィンは訳がわからないという顔でフェオを見上げた。ツリ目に浮かんだ困惑の色を見て、フェオはまた楽しそうに笑った。
行きは三役の馬車をカンテが、荷物と子供たちが乗る馬車を警備兵が操っていたが、帰りは逆になった。荷物と子供たちをカンテが護衛し、警備兵が三役を守っている。荷台を覆う幌から身を乗り出し、ユピトがカンテに尋ねた。
「親父、雇い主ちゃんと守らなくていいのか?」
「雇い主の荷物も大事だろ?」
振り向きもせずそう言ってカンテは笑った。ユピトは納得していない顔つきだったが、ダナンがカンテに聞こえないよう納得させた。
「カンテさんは、ユピトを心配してるんだよ。あの男がまた追いかけてきたら、自分で守りたいんだ」
「何でだ? 今は護衛の最中だろ? 雇い主守らなきゃ、仕事にならない」
「ユピトの言う通りだけどさ。うーん、つまりこういうことだよ。仕事より、ユピトが大事」
ユピトは「わかんねえ」と唇を尖らせた。だがユノは、そこにほんのり照れが混じっているのを感じ取った。ダナンも同じく、ユピトの照れをわかっているようだった。
「親ってさ、おれたちが思ってる以上に、おれたちを愛してくれてるものだよ」
「……〝愛〟って、変だな」
ユピトはそれだけ呟くと、ごそごそと外套を脱ぎ、それを頭から被って顔を隠してしまった。
照れ隠しに自分の顔を隠すユピトを見て、ダナンとユノは微笑み、カルウィンは「へっ」と鼻で笑った。
外套の奥から、ユピトがもごもごと呟く。
「でもおれたちは、その〝愛〟で生かされてんだ」
やっぱり変だ、とユピトは呟き、それ以上は何も言わなくなった。ユノも、ダナンも、カルウィンも、今度は誰も笑わなかった。
――自分たちは〝愛〟によって生かされている。
深い意味を含ませて言ったわけではないだろう。だがユピトのその言葉は、三人の胸に残った。
急に、三人は郷愁の念に駆られた。生まれ育った町へ帰り、母に会い、その腕に抱きしめられたいと思った。
ぽつりと、ユノが呟く。
「早くウィリデに着かないかな」
ダナンが柔らかく笑いながらうなずいた。
「そうだね。帰って、母上のご飯が食べたくなったよ」
カルウィンは拗ねたように「ふん」と鼻を鳴らすだけで、何も言わなかった。
「早く、ウィリデでみんなと遊びたい」
外套を被ったまま、ユピトがもごもご呟いた。ダナンが「何して遊ぼうか」と水を向ける。ユピトは外套の下で遊びの名前を挙げていたが、その声はくぐもっていて、馬の足音や車輪の音に紛れて聞こえない。代わりにカルウィンが「駆けっこ」「木登り」「剣の練習」「怪物討伐ごっこ」と荒っぽい遊びを並べ立てていく。
ウィリデに着くまでの四日間。四人は滅多に馬車から降ろしてもらえなかったが、幌の下に隠れる旅をそれなりに楽しんだ。
身動きの取りづらい幌の下では、ルベルでの思い出を語ったり、ほかの子供たちへの土産話は何を語るか悩んだり、帰ったらどれだけの〝お手伝い〟が溜まっているかを嘆いたりしていた。
降車を許された休憩では、動けなかった分を発散するように駆け回った。駆けっこではユピトが負け知らずで、最下位争いはダナンとユノが常連だった。
四人はこれまでよりもさらに交流を深め、ウィリデに着くまでの四日間を過ごした。
ウィリデに着いたのは、四日目の夕方だった。赤い空の下へ解放された四人は、それぞれの父に付き従った。
カルウィンは馬車と荷物を家へ運ぶため、馬を引いた。
ダナンは自分の荷物とお土産を持ち、自宅へ戻っていった。ユノはたくさんの薬や薬草、その種を大事に抱え、エオロに続いて家の方角へ足を向けた。ユピトは、荷物だけを持ってカンテと一緒にヤラィたちと同じ方角へ歩いて行く。
二人が振り向いたのは、同時だった。
夕日を浴びて、ユピトの金色の瞳が不思議な輝きを放っている。ユノはそれを恐ろしいとは思わなかった。やはり何度見ても、ユノにとってユピトの金色の目は美しいものだった。
ユノは片手を上げ、「また明日」と手を振った。
「お手伝いが終わったら、広場で会おうね」
「いいのか?」
ユピトは両手でぎゅうと荷物を抱き、ユノに自分と遊んでいいのかと尋ねた。
自分と遊ぶのが怖くないのかと尋ねた。
自分がユノと遊びたいと思っていていいのかと、尋ねた。
ユノはうなずいた。
「ユピトはわたしの恩人で、大事な友達だもん」
金色の目がキラッと光ったのは、涙のせいだった。ユピトの片手が上げられ、ぶんぶんと振られる。ユノも力強く手を振った。
カンテがユピトを呼ぶ。ユピトはカンテを追いかけながら手を振り続けた。
ユノもエオロに呼ばれ家路を歩きながら、振り向きながら歩くせいで転びそうになりながら、手を振り続けた。
ユピトが見えなくなると、エオロが物言いたげにユノを呼んだ。しかし、ユノの榛色の目で見つめられると結局、何も言わなかった。
「怪我だけはしないようにね」
それだけ言って、ユノの栗色の髪をわしゃわしゃと撫でた。父の大きな手で撫でられ、ユノはくすぐったそうに笑い声を上げた。
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