六〇七年 春の三節
春も三節に入り、雨期が到来した。
カンテは二節半ばに帰ってきて、ユピトはヤラィ宅から小さな借家へと戻っていた。居候から借家暮らしへ戻ったユピトだが、ヤラィ宅で家事や畑の手伝いをするのは変わらなかった。それでも時間を見つけては、ユノを誘い、時に二人きりで、時にカルウィンたちも交えて遊んだ。
ウィリデに来たばかりの頃と比べると、ユピトはずいぶん明るくなっていた。ユノはそれが嬉しかった。
その日、雨期とは言え雨の降らなさそうな空模様を見て、二人は森へ遊びに行こうとした。塀の外へ出るまでは叶ったが、すぐマナズに止められた。
「雨の匂いが近づいてっから、ユノ坊連れて帰んな」
マナズは風の神の加護を得ており、風からにおいを集めるのを得意とする。そのお陰で、誰より正確に天候占いができるのだ。
未練がましく空と森を見比べる二人に、マナズは苦笑いしながら「目のない怪物が出るぞ」と付け加えた。
「雨期は目のない怪物が出やすいだろ。今は討伐準備で警備兵も自警団もぴりついてんだ。万が一でも怪我されちゃ困るんでね」
雨期が終わるまで出入り禁止、とマナズは二人の背を押し塀の向こうへ戻らせた。ウィリデの町に戻った二人は、仕方ないねと言い合って、何をして遊ぼうかと相談しながら歩き出した。
ほかの子たちの遊びに入れてもらおうか、それともカルウィンを探して遊びに誘おうか、どうしようか。
そんな相談をして歩いていたら、二人はユノの家を通り過ぎ、中央広場を通り過ぎ、畑へ向かう道へと出ていた。
「このまま畑に行ったら、お手伝いさせられちゃうかな」
「んー……。親父が、耕してるかも」
「カンテさんなら、わたしたちを言い訳にお仕事の手を止めちゃいそうだね」
嬉々として手を止め口を動かし体は休むカンテを想像し、二人はふふふと笑い合った。その二人を、大急ぎで走る誰かが追い抜いていった。すぐそばを駆け抜けていったのは、ダナンだった。
ユピトが反射的に「ダナン!」と声をかける。気のいいダナンは、自分を呼ぶ声に足を止め「なに?」と優しい声で振り向いた。さすが、息づかいは荒かった。
「ユピトに、ユノか。二人とも、相変わらず仲良しだね」
仲良しと言われ、二人は照れてしまった。その照れを誤魔化すように、ダナンに急ぐ理由を問いかける。
「そんなに急いでどこ行くの、ダナン?」
「畑の手伝いか? おれも行ったほうがいいか?」
ユノとユピトの問いに、ダナンは「畑には行くけど」と眉を下げ足を前へ向けた。
「今うちにお弟子さんが来てて、父上が畑で講義をしてるんだ。おれも、聞こうと思って」
「こうぎって何だ?」
「説明するより見たほうが早いかな。ユピトも来る?」
一も二もなく「行く!」とうなずいたユピトは、ユノの手をぎゅっと握ると「急ごう!」と走り出した。
ユピトに手を引かれ、ユノは転びそうになりながら走った。ダナンも一緒に走り、走るだけで精一杯のユノに「いいの?」と尋ねる。
「誘ったのは、おれだけどさっ。正直、面白い話じゃ、ないと思うんだっ」
息を切らせながらの質問に、ユノも息を切らせながら「うん!」とうなずいた。
「森で遊べなくなっちゃったから、いいのっ。それより、雨期なのに、畑、大丈夫っ?」
雨の日は、目のない怪物が地面から出てくる。なのに畑へ行って大丈夫なものなのか。
ユノの質問に、ダナンは「大丈夫なんじゃないかな」と少し自信のなさそうな声で答えた。
「父上もだけど、お弟子さんたちもみんな、土の神の加護を授かってるから。怪物の眷属は許しても、たぶん、怪物が近づくのは土の神が許さないと思うよ」
それを聞いて、ユノは大いに安心した。ホッとしたところで、ヤラィの講義に間に合うよう、三人はさらに急いで畑へ走った。
息を切らせてたどり着いた畑では、ヤラィが五人の男に向かって講義をしていた。この五人の男たちが、ヤラィの弟子のようだ。ダナンが男たちの最後尾に並んだのに続き、ユピトとユノも列に加わる。
ヤラィは三役の中でも一番の年嵩であり、中年から高年へ足を踏み入れている。しかしその声には張りがあり、三役の中で最も聞き取りやすい。
「ウィリデは森に囲まれている。木材には恵まれたが、反面、怪物が多く猟をすることはできない。だが我々は飢えない。なぜか。土壌が豊かだからだ。怪物の眷属――特に目のない怪物の眷属がもたらす恩恵は大きい」
ヤラィの声は聞き取りやすいが、使う言葉は子供には難しい。ユノもユピトも、難しい言葉が出るたび首を傾げている。ユピトにいたっては、金色の目をきょどきょどと泳がせてもいた。
二人の様子に気づいたダナンが、ぽそぽそと低い声で二人にわかるよう解説し直す。
「おれたちが住んでる町がウィリデっていうのは、わかるだろ? ウィリデは見ての通り、森に囲まれてる。だからおれたちは家を作ったり家具を作ったりするのには困らない。だけど、森には怪物が多いんだ」
「目のないやつか?」
「目のない怪物もだけど、斧を持つ怪物が一番厄介かな。あれは動物を食べるから。人が食べられることもあるって聞いたよ」
斧を持つ怪物。気性の荒さは有名だが、ユピトもユノも、人を食べるというのは初耳だった。だが動くものなら何でも襲うという性格を思い出し、人だけが食べられない理由はないだろうと納得した。震え上がったユノは、無意識にユピトにぴったりとくっついた。震えが伝わったのか、ユピトはユノの手をぎゅうと握った。ユピトの手は、子供の手だというのにマメだらけだった。
ぴったりと寄り添い合う二人を見て、ダナンは苦笑しながら「続けるよ?」と解説を続けた。
「怪物が動物を食べてしまうから、おれたちは動物から肉や毛皮が得られない。だけどおれたちは飢え死に――ええと、食べ物が足りなくて、そのせいで死んだりしない。その理由が、目のない怪物の眷属のお陰なんだ。何でかって言うと……」
突然、よく通る大きな声が「ダナン!」と呼んだ。その場にいる全員の背筋が伸びた。ヤラィは、ダナンがひそひそと話しているのを私語と判断したのかもしれない。息子であるダナンに、ヤラィは目のない怪物について問うた。
「目のない怪物の眷属は、何を以て土を豊かにするか。答えよ、ダナン」
「はい、父上!」
目一杯背筋を伸ばしたダナンは、言い淀むことなく正解を口にした。
「目のない怪物の眷属は、土を食べて排泄することで肥料とし、土の中を移動することで耕します。これにより、目のない怪物の眷属がいる土壌は豊かになります。私たちが住まうウィリデが今まで不作になったことがないのも、この恩恵と土の神のご加護によるものです」
「よろしい」
ヤラィはうなずくと、講義の続きを話し始めた。答え終えたダナンはホッとしたように息を吐いたが、姿勢を崩すことはしなかった。ヤラィに聞こえないよう、ユノとユピトはひそひそ声でダナンを褒めた。
「すごいね、ダナン。大人みたいだったよ」
「すげえな、ダナンはやっぱりかしこいんだなっ」
照れたダナンはほんのりと赤らみながら、ジョリジョリ頭を照れくさそうに掻いた。
「そんなことないよ。まだまだ、父上にもお弟子さんたちにも及ばない。もっともっと勉強しなきゃ」
「でもダナン、すぐ答えられただろ?」
ユピトは金色の目を尊敬の念で輝かせた。
「さっきおれに教えてくれた言い方も、すごくわかりやすかった。おれでもわかるように言えるダナンは、すごい」
「わたしもダナンの説明、すごくわかりやすかった」
二人に褒められてさらに照れたダナンは、二人だけに父ヤラィにも話していない夢を教えた。
「実はおれ……大人になったら父上みたいになりたいんだ。自分の持つ知識を、いろんな人の役に立たせたい。土の神のご加護が少ない土地でも、農作がうまくできるようにしたいんだ」
それは立派な考えで、素晴らしいと呼べる〝夢〟だった。感心するユノの隣で、ユピトはしゅんとしょげ返った。どうしたの、とユノが尋ねると、ユピトはもごもごと小さな声で呟いた。
「おれ、頭悪いから……ダナンがヤラィさんみたいになったら、ダナンが何言ってるか、さっぱりわかんなくなる」
大真面目でそんなことを言われ、ダナンもユノも、思わず笑いそうになってしまった。けれどそれを堪え、ダナンは「だったら」とユピトに勉強会を提案した。
「ユピトも、一緒に勉強しよう。おれが教えるから」
「い、いいのか? おれ、頭良くないのに……」
「教えるのも勉強になるんだ。ユノもおいでよ。そのほうがユピトも気楽だろうし」
「いいの? じゃあわたしも、ダナン先生の生徒だね」
「先生は恥ずかしいな。まだまだそんな身分じゃないよ」
三人は声を潜めていたが、それでも十分、隣にいる弟子たちを苛立たせたようだ。大きな咳払いに、三人はぴたっと口をつぐんだ。
それから三人は、ヤラィの話に耳を傾け続けた。
ヤラィの話は長く、難しく、その長さは雨が降って止むほどだった。
降る気配のない空がにわかに曇りだした頃、講義は中止になると思ったユノたちは帰ろうとした。だがヤラィが話し続けた上に誰も中止を訴えなかったため、雨が降り続けてもその場にとどまらなくてはならなかった。
ヤラィが話し終わる頃には、雨は止み、空には虹が出ていた。
「では、今日の講義はここまでとする」
身動き一つせず聞き入っていた弟子たちは、体をバキバキと鳴らしたりずぶ濡れの服を絞ったりし始めた。三人も、服を絞り髪を絞り風邪を引かないための簡易な対策を採る。
空を見上げた弟子の一人が、虹を見て「不吉な」と眉をひそめた。三人もつられて空を見上げる。空にかかる見事な虹を、三人はきれいだと思った。
ヤラィが畑から出て行く。弟子たちがそれに続きぞろぞろと出て行く。なぜだか三人は、畑に残って虹を見ていた。
「きれいなのに、不吉なんだね」
「虹は神獣が次の場所へ雷を落としに行く橋だって言われてたからね。神獣がいなくなっても、何となく不吉に思うのはしょうがないよ」
ダナンの言葉に、ユノは王都で若い兵長から聞かされた神獣の話が脳裏に浮かんだ。気さくで優しい兵長だったが、神獣の話をする彼は何だか怖かったな、と思い出していたら、ユピトが「しんじゅうって何だ?」と首を傾げた。ユピトの疑問に、ダナンは「知らないの?」と驚いた顔で説明した。
「雷を落とす獣だよ。おれたちが生まれる前に、ルースの神獣は死んだけどね」
ユピトは神獣をまったく知らないようで、ダナンの説明に「そんなのがいたのか」と目を丸くしていた。驚くユピトにダナンは苦笑した。
「おれたちが生まれた年に討伐されてるから、知らなくても無理ないかな」
神獣とは。
神々が世界を作った同時期に生まれ、今もこの世界に雷を落としては楽しんでいるという獣。兵士に討伐された話は他国にも伝わり、子供にもわかるように人形劇にされたり、挿絵付きの〝おはなし〟にされたりしている。
挿絵付きの〝おはなし〟は、ダナンの蔵書としてヤラィ宅の書斎にあるようだ。ダナンが「今度見せてあげるよ」と約束したので、ユピトは嬉しそうにうなずいた。
話し込む三人の足下から、にょろにょろと、目のない怪物の眷属が這い出てきた。声を上げたのはダナンだ。
「怪物が出るぞ!」
珍しくはしゃいだ声を出したダナンが、畑の外へと走る。慌てたユノが「待って!」と駆け出し、ユピトが笑いながらその後に続いた。きゃあきゃあと声を上げ、はしゃぎ、三人は畑から町へと走る。
走り回る三人を見て、大人たちは微笑み、時に呆れながら笑う。走り回る三人の声で、家の中で雨上がりを待っていた子供たちがわらわらと出てきた。三人の追いかけっこに、子供たちが一人また一人と加わっていく。
雨上がりの空の下、ウィリデの町には、日が暮れるまで笑い声が絶えなかった。
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