花楽師の娘(二)

 白狐は桔花の襟を咥え直すと、桔花の体をひょいっと持ち上げ背中に乗せた。そして地面を蹴り、二階まで一気に飛び上がった。桔花は振り落とされぬよう、白狐の上質な毛にしがみつく。


 白狐はふわりと地面に降り立つと、桔花が降りやすいように身をかがめた。それでもかなりの高さがあるので、地に足がつくかどうか探りながらゆっくりと背中から降りた。すると、白狐は煙を立ててまだ年端もいかぬ少女へと変じる。


 絹糸の如く美しい白髪に、ぴんと立った獣の耳。四つに裂けた尾を持つその少女は、紛れもなくテンコであった。


「間一髪……でございましたね」


「テンコ様…… なぜここへ?」


「境内に満ちるシヅキさまの神気が揺らいでおりましたので。まさか桔花さまが斯様かように命知らずなことをなさっているとは思いませんでしたが。人のように言葉を話すとはいえ、あやかしを人間の常識に当てはめぬことです。特に黒姫さまに至っては何をしでかすかわたくしでさえも計りかねますので」


 なかなか辛辣なテンコに対し、桔花は笑ってごまかすしかない。ふと桔花頬の傷に何かが触れ、思わず桔花は声を上げた。誰かと思えばシヅキだった。


「二度とこんなことをするな」


 シヅキはいつもの冷ややかな目で桔花を見下ろし、傷を撫でる。しかし今はその桔梗色の瞳にはわずかに悲愴な色が滲んでいた。


「……申し訳ありません。次はちゃんと上手くやります」


「次はない」


 ばっさりと切り捨てるようにシヅキは言う。その物言いに、桔花は若干の苛立ちを覚えた。


「花楽師はただの楽師にはあらずと申します」


 桔花は苛立ちを抑え、努めて冷静に言った。


 桔花は己が花楽師であることに誇りを持っていた。だが突然花楽師としての生活をやめねばならなくなった。もう諦めがついたとは言っても、やはり花楽師としての己を忘れることはできないのだ。


 だからこそ、もう一度花楽師として何かできるかもしれないと思った時、わずかに高揚を覚えた。結局、桔花は才がないとはいえ、花楽でしか己の存在意義を示すことができないのだ。


「私は花楽師として、神官としての役目を全うするだけにございます。御心配には及びません」


 緋色あけいろの瞳が、まっすぐとシヅキを捉えている。シヅキはため息を吐くと、自身の羽織を脱いで桔花の肩に掛けた。


「これは魔除けのしゅが刻まれている。気休めだが着ていけ」


「あ、ありがとうございます……」


 予想外のシヅキの反応に、桔花は目を瞬かせた。肩に掛けられた羽織からは、ほのかに藤の香りがする。


 桔花は己の花楽師としての有り様をシヅキに否定されたように感じた。だからこそ憤りを覚えたのだ。だがシヅキの言葉は、ただ桔花を心配してのものだった。


(馬鹿みたいだ……)


 勘違いして勝手に腹を立てるなど、我ながらひねくれているにもほどがある。羽織に腕を通しながら、桔花はつい先程までの自分を思い出して恥ずかしくなった。


 気を取り直してもう一度階下へ向かう。


 桔花は神官。見習い時代には、神祇官から派遣された官人から札の書き方や簡単な術を習ったこともある。


 目の前では、依然として黒姫たちが激しく争っている。桔花の腕は小刻みに震えていた。さっきは殺されそうになる寸前まで冷静でいられたのに、目の前の光景をまじまじと見るとやはり怖気おぞけを感じてしまう。


 桔花は拳をぐっと握り、無理やり震えを抑え込んだ。手のひらに爪が食い込み、血がにじむ。


(うん。少し冷静になれた気がする)


 さて、あの二匹のあやかしをどうやって止めようかと考えた。


 黒姫は今まで桔花が今まで祀ってきた神や精霊の類とは全く違う。礼を尽くしても鎮まるどころか虫か何かのように叩き潰されるだけ。


 ならば力で押さえつけるしかない。だが牢の中でシヅキに向けて失敗した指笛はやめた方がいいだろう。あれは黒姫たちだけでなく、音を聞いた他のあやかしやシヅキにまで害が及ぶ恐れがある。


 しばしの間逡巡した後、桔花はあることを思いついた。


 わずかに残った黒姫の妖力が、桔花の霊力と共に体内を巡っている。おかげで普段より霊力の流れがわかりやすい。 


 桔花は循環する霊力をてのひらに集める。すると集約した霊力は大きな水の塊に変じた。いつもは霊力の流れを掴むまでに少々時間がかかるのだが、手間が省けて丁度良かった。


(やはり混じり気があると術も安定しないか)


 今、桔花の中には自身の霊力だけではなく黒姫の妖力もある。それが術の妨げとなっているのか、水の玉は綺麗な球体ではなくグニャグニャと歪みながらもなんとか形を保っているという状態だ。それに思ったより小さい。桔花一人だけなら十分覆える大きさではあるが、獣の本性を露わにした黒姫の巨体を覆うには小さいだろう。


(まあこれでいいか)


 黒姫には、これで文字通り頭を冷やしてもらおう。


 桔花が手を大きく後ろに振りかぶると、巨大な水の塊もついてくる。重さで後ろに体を引っ張られそうになるが、桔花はしっかりと足を踏ん張ると、水の塊を黒姫めがけてえいっとぶん投げた。


 水の塊はまっすぐ黒姫の方へ飛んでいき、見事黒姫の顔に命中した。水の塊ははじけずに、大きな黒猫の頭をすっぽりと包み込む。突然吸う空気を失くした黒姫は、その場を転げ回りながら鋭い爪で水の塊の表面をひっかき、なんとかしてこの頭に纏わりつくものから逃れようと必死でもがいている。


 桔花の使った術は、見習い楽師時代に神祇官の官人に教わったものだった。


「決して他人に向けて放ってはならぬ」


 そう言われたそばから、人間の頭ほどの大きさの水の球体を桔花の顔めがけて放った阿呆がいた。


(あれ結構苦しいんだよね)


 「少しの間すみませんね」と言いながら、桔花は黒姫に手を合わせた。経験者であるだけに、この術の苦しさは身に染みてわかる。身構えていないところに突然空気を奪われるのだ。その苦しさは並大抵のものではない。


 見習い時代の桔花は、神祇官の官人が救出するまでのしばしの間もがき苦しむ羽目になったが、大妖怪たる黒姫ならば自力でなんとかできよう。


 さて、と今度は瘴気の源である妖に向き直る。先程までは暴れる黒姫に果敢に立ち向かっていたのが嘘のように、店の隅で大人しく縮こまっている。


 桔花が一歩妖に近づくと、あやかしに纏わりつく黒いもやがびくりと揺れた。大した術ではないものの、一瞬で黒姫を鎮めた桔花を恐れているらしい。


「今から御身についた穢れを祓います。どうかこちらまで来ていただけますか?」


 桔花はあやかしの警戒が解けるよう、なるべく優しく声を掛けた。


 妖はおそるおそる桔花に近づいてくる。桔花は野良猫を相手にするときのようにかがんで目線を下げた。


 あやかしが近づくたびに、あたりの瘴気が濃くなっていくのがわかる。腐敗した汚泥のような鼻がひん曲がるほどのひどい臭いだ。


 ある程度近くまであやかしが来たのを認めると、今度は掌から小さな水の塊を出し、ふっと息を吹きかける。すると霧散した水が辺りに広がり、簡易的な結界を築いた。これで準備は万端だ。


 桔花はすうっと息を吸い込むと、朗々とうたい始めた。うたに合わせて、蝶のようにふわりふわりと舞う。


 桔花が舞っているのは花楽の舞の型の一つ、「胡蝶の舞」であった。


 今では「鬼比売御子」のような芝居ありきの演目をやることがほとんどだが、これは本来の花楽ではない。本来の花楽とは巫女舞に近いものであったが、それがだんだんと形を変えていき今の大衆芸能としての花楽になったのだ。「胡蝶の舞」は古来より受け継がれた伝統的な型の一つで、本来の花楽に最も近いうたと舞だけでなるものである。


 桔花が袖をひらめかせるたび、内からこぼれた霊力が蝶の形を成し、ひらひらと飛び立っていく。蝶が飛んだ軌跡は光の筋となり、淀んだ空気を浄化した。


 そうして桔花たちの周りを埋め尽くさんばかりの蝶々が飛び交うようになったその時、あやかしを覆う黒い靄がぱっと消えた。すると今まで靄に隠されていたあやかしの姿がはっきりと見えるようになる。ずんぐりむっくりとした熊のようなあやかしだった。


 舞が終わるころには目の前の妖も、店内に満ちた瘴気も、きれいさっぱり浄化されていた。


 桔花がほっと息を吐くと霧の結界もぱっと消える。


 だが、それがいけなかった。簡易的とはいえ、桔花の張った霧の結界はきちんと役割を果たしており、結界の内に押し入ろうとするものを阻んでいた。


 結界の外には大きな三尾の黒猫が一匹。前足を曲げて背中を丸め、今にも飛び掛からんとする黒姫と目が合った。

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