来訪者(一)
「おお、よく似合っておるぞ。茜」
そう言って酒気の含んだ息を吹きかけてくるのは黒姫だ。今日の黒姫は公家の男が着るような衣を身に纏い、腰まで伸びた黒髪を緩くまとめている。大の男嫌いだという話だったが、自分が男装するのはいいようだ。黒姫は昨晩、桔花達が受け取りそびれた着物を届けに来てからずっと、この神社に居座っているらしい。
桔花の傍らにはテンコがおり、黒姫が次々と渡してくる着物をせっせと桔花に着せていく。
桔花はかれこれ数刻ほど、こうして黒姫達にされるがまま、ただの着せ替え人形と化している。テンコの方はあくまで黒姫の道楽に付き合っているだけだと言わんばかりに取り澄ましているが、彼女の四つの尾は振り切れんばかりに揺れているのを桔花は見逃さなかった。
(それにしても着物多くない?)
桔花が選んだのは、比較的地味な柄の生地だったはずだ。だが実際に出来上がったのは、普段の桔花ならば避けるようなやたら煌びやかな着物ばかりだった。
様々な着物が立ち並ぶずっと奥の方に、桔花の選んだ着物の柄がちらりと見えるのだが、黒姫が持ってくる気配はない。今のところ黒姫が持ってくるのは、全く見覚えがない柄の着物ばかりだ。
桔花はなかなか終わる気配のない着せ替えごっこに辟易して、ため息をついた。ため息を吐くと幸せが逃げると言うが、今の桔花からは幸せとともに魂も逃げていきそうである。
早く解放されたいと切に願う桔花の念が届いたのか、ふとテンコが手を止める。
「どうした? テンコ」
「お客様が来たようです。どうやら桔花さまに用があると」
客人はすでにテンコの分身が居間へ通しているようだった。
(黒尾の地に知り合いなんていないはずだけど)
居間へと向かいながら、桔花は狐の面をつける。先程、テンコから渡されたものだ。境内の外のシヅキの神通力を養分に育った森の木で彫ったもので、変化の術を使わずとも好きに姿を変えられる代物らしいが、今回はこれで人の気配を誤魔化せばよいとのことだった。
桔花が居間に着くと、そこにいたのは知らない男だった。三十半ばの人間の姿をした人のよさそうな男は、「
「粗茶ですがどうぞー。さあ、桔花さまも座ってください」
分身に促されるまま卓についた桔花だが、面をつけているせいで茶を飲むことができない。面をずらしてなんとか茶を飲み一息ついたところで、やっと本題を切り出した。
「それで玖磨さんは私に何のご用でしょうか? 私たちどこかでお会いしましたっけ?」
「俺です、俺! 黒猫亭で穢れを祓っていただいた! あの時は獣の姿でしたが……」
そこまで聞いて桔花はポンと手を打った。
「ああ! あの時の熊!」
「そうです! 九番目に生まれた熊の玖磨です!」
あの時は本当にありがとうございましたと、玖磨は深々と頭を下げる。
「それからこれはほんの気持ちですが」
そう言って玖磨が取り出したのは、小さな包みだった。包みを広げると、金色に輝く小判が出てくる。桔花の口から思わず感嘆の声が漏れる。普通ならばこういう時、「こんなにたくさん受け取れません」「どうぞ遠慮なく」などの押し問答をしばらく続けてから受け取るものだろう。しかし、桔花の傍らで茶を啜っている分身は違った。
「わーい、お小遣いもらったー」
分身はまるで台本でも読まされているかのような情感の欠片もない口調で、小判の入った包みを搔っ攫っていく。桔花も玖磨も口をあんぐりと開けながら、ただ呆然とその様子を眺めることしかできなかった。
しばらくしてハッと我に帰った桔花は、包みを掲げて飛び跳ねるテンコから包みを取り上げた。
「ちょっとテンコ様、何やってるんですか!」
するとテンコは、途端に澄ました表情になる。
「黒姫さまが余分にあつらえた着物の料金を上乗せしたので予定より出費が増えました。これはその分の補填に充てます」
「あ、はい……」
なんだろう。こんな大金をもらっても桔花に使い道はないし、別に構わないのだが、いつもふざけている分身が至極真面目に話すと、何とも言い難い気分になる。
桔花が悶々としていると、突然ガラリと襖が開いた。
「茜、もう話は終わったか? 早くわらわと先程の続きをしようぞ」
居間に入ってきたのは黒姫だった。その姿を見て、玖磨の顔からさあっと血の気が引いていく。
「く、くく黒姫様……」
「なっ、なぜここに男がおるのじゃ! わらわの茜に近づくでない! 早う帰れ!」
黒姫はしっしっ、と玖磨を追いやるように手を振る。途端に、玖磨はがたがたと震え出した。
「で、でででは、おおおお俺はもう帰りますので!」
そして転げるように居間から出ていく玖磨。しかし玖磨が向かったのは玄関とは全く別の方向である。見送りに行った分身と逃げ回る玖磨の追いかけっこがしばらく続いたが、無事玖磨は帰ることができた。
これでめでたしめでたしとなれば、どれほど楽であっただろうか。
結局、桔花は夕方まで黒姫の着せ替えごっこに付き合わされる羽目になった。帰り際、「また来るぞ」と黒姫は言っていたが、正直もう来てほしくない。
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