来訪者(二)
そういえば、今日は一度もシヅキ様を見ていないが、どうしたのだろうか。テンコに聞けば、どうやらシヅキは昨晩から自室に籠っているらしい。
「シヅキさまがお部屋に持って行った盃を回収しないといけないので、一度様子を見に行っていただけますか?」
そうテンコに言われてシヅキの部屋の前まで来たはいいものの、襖越しに何度呼びかけても返事はない。
(寝ているのかな)
仕方がないので、桔花は勝手に入らせてもらうことにした。案の定、シヅキは畳の上で寝ていた。部屋中には盃と共に、半紙が散らばっている。
(何を書いたんだ?)
無粋だとはわかっていても、つい半紙に手が伸びてしまう。半紙に描いてあったのは絵だった。花や風景、すべて黒一色で書かれているが、素人目に見ても上手なことがわかる。
(すごい。意外な特技だ)
とりあえず、綺麗に重ねて部屋の隅に置いておく。そのまま盃を回収してすぐに戻ろうとしたが、硬そうな畳に寝そべるシヅキの姿が目についた。
このままではシヅキも気持ちよく眠れないだろう。ちょうど押し入れに布団が入っていたので、取り出して畳に敷く。あとはシヅキを布団の上に移動させるだけだが、いかんせん桔花の力ではシヅキを持ち上げられない。しかしこのままではさぞ寝心地が悪かろう。
しばし逡巡した後、桔花はシヅキの頭を自分の太腿に乗せてやった。決して寝心地がいいわけではないが、これでも畳の上よりはましだろう。
(やっぱり寝ているときは幼子みたいだな)
シヅキの寝顔をまじまじと見るのは、初めてここへ来た時以来である。その時と同じく、またもや寝ているシヅキの頬をつつきたい衝動にかられた前はしなかったが、これくらいシヅキならば許してくれるだろうと、衝動に任せてつんつんと頬を突ついてみる。
初めて触れたシヅキの頬は思ったより柔らかかったが、少し冷たかった。
桔花が頬をつついてみても、シヅキが起きる気配はない。本当にぐっすり眠っているようだ。そうしてしばらくシヅキを太腿に乗せたまま、桔花はぼんやりとしていた。
しかし、正座でじっとしているというのもなかなかきついものだ。なんとか楽な態勢を探っていると、突然シヅキがぱちりと目を覚ました。
「
シヅキはぼうっと桔花を見上げながら、掠れた声でつぶやく。
まだ夢心地なのだろう。シヅキの目は桔花を見ているようで、微妙に焦点が合っていない。
それにしても、真名は桔花、黒姫からは茜、シヅキからは
なんともややこしいものだと思いながらも返事をすれば、途端にシヅキはカッと目を見開き、桔花を押しのけるようにして身を起こした。
いきなり突き飛ばされた桔花は、一瞬何が起きたのか分からず、ただ目を丸くするしかない。
シヅキもひどく動揺しているようだった。何か恐ろしいものでも見るような目で桔花を見つめ、荒い呼吸を繰り返す。
そうしてしばらくすると、シヅキも次第に落ち着きを取り戻していった。
「すまない。少し夢見が悪かっただけだ」
怪我はないかと桔花に尋ねるシヅキは、いつもの冷え冷えとした表情に戻っていた。
「いえ、大丈夫です。こちらこそ勝手に部屋に入ってすみませんでした」
そう言うと、桔花は部屋の隅に重ねておいた盃を拾い、足早に部屋を去る。
(シヅキ様って案外寝起きが悪いんだな)
寝起きが悪い者は、うかつに起こさない方がいい。
それは、桔花の花楽師時代に得た教訓だ。
花楽師時代にも寝起きの悪い者はいた。当時はまだ見習いだったので、毎朝当番制で朝食を作っていたのだが、その日は桔花と、同室の同輩がちょうど当番だった。
時間に間に合わねば、罰として朝食抜きになる。起床時間を過ぎても呑気にいびきをかいている同輩を、桔花は親切心から起こそうとしたのだった。声を掛けてもなかなか起きない同輩に痺れを切らした桔花は、寝ている同輩を激しく揺さぶった。――刹那、
――触らぬ神に祟りなし。
この日桔花は、二度と寝ているシヅキに近寄らないことを誓った。
「シヅキ様はどうされていましたか?」
「せっかくお休みになっていたのに、私が起こしてしまいました」
桔花は着物の袖を捲り、たすきを掛けながら答える。
「そうですか。お目覚めになったならいいんです」
まるでシヅキが寝ていると何か不都合があるような物言いだ。
はて、と首を傾げた桔花だったが、すぐに理由に思い到った。
「ああ、シヅキ様って寝起きが悪いですものね」
おそらくテンコも桔花と同じように、寝起きのシヅキによって痛い目に合わされたことがあるのだろう。それで起こす手間が省けたと安堵しているに違いない。
「いいえ、そうではなくて…… シヅキさまは一度お部屋に籠られると、そのまま長いことお眠りになるんです。以前お部屋に籠られたときは五十年近くお目覚めになりませんでした」
「五十年……」
人の一生と同じくらいの長さだ。あのまま放っておいたら、シヅキが目覚めた時には桔花などとうに死んでいるかもしれない。やはりそこは、人よりも遥かに長い時を生きる者であるがゆえに貪れる惰眠だろう。
「何をしてもお目覚めになる気配がなく、さすがのわたくしも困りました」
そう言うテンコはどこか遠い目をしていた。
見た目は大変可愛らしいのに、桔花には計り知れぬほど苦労を散々してきたのだろう。
千年以上続くテンコの苦労を思えば、桔花の短い生の中で背負う苦労など、ちっぽけなものかもしれない。
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