不浄のあやかし

 玖磨が訪れた次の日、桔花はいつも通り庭で舞の稽古をしていた。うっかり池に落ちて以来、池の近くでは稽古をしないようにしている。


 汗ばんだ肌をなでる風が心地よい。吹き抜ける風を断ち切るように箒を振り下ろせば、ヒュッと小気味の良い音が鳴る。


 ふと背後から視線を感じたので振り向くと、縁側でくつろぐシヅキと目が合った。桔梗色の瞳は何の感情を浮かべるでもなく、ただ桔花の稽古の様子をじっと見ている。


(やりづらい……)


 桔花は持っていた箒を近くに立てかけ、基本的な舞の型を練習する。人に見られている中、なお箒を振り回して踊り狂うのは、桔花としても恥ずかしいのだ。


 桔花は、桔花はシヅキの視線をなるべく気にしないようにして、しばらく稽古を続けていた。


 すると突然、背後からどさりと音がした。今度は何だと振り向けば、先程までくつろいでいたシヅキが倒れている。


 胸を押さえ、苦しそうに呻くシヅキ。それを見て、桔花は慌ててシヅキに駆け寄った。


「シヅキ様、大丈夫ですか!?」


 桔花はシヅキを抱き起そうとして、ぞくりとした。冷たいのだ。桔花の熱が奪われたのかと錯覚するほどに。


(とりあえずテンコ様を呼ばないと)


 桔花はすっと立ち上がる。先程奪われた熱がまだ戻っていないような気がする。


 一見、落ち着いているようだが、桔花はひどく混乱していた。落ち着いているように見えるのは、混乱して頭の中が真っ白になっているからだ。


 桔花が呆然と立ち尽くしていると、突然何もない場所からポフンと煙を立ててテンコが現れた。手には湯呑みを持っている。


「シヅキさま、ヨモギ茶でございます」


 テンコは湯呑みをシヅキの口元に持っていく。口元からわずかに茶がこぼれたが、シヅキは問題なく嚥下したようだ。


 そこで桔花は、やっと落ち着きを取り戻した。


「テンコ様、これは一体……」

「結界内に穢れを持つ者が大勢入って来ました。二の鳥居の前で立ち往生しております。そして皆、緋さまを出せとのことで」

「私を……?」


 桔花が問うと、テンコは静かに頷いた。桔花が黒猫亭で玖磨の穢れを見事祓ってみせた時、大勢の客がその光景を見ていた。大方、あの時のように穢れを祓ってほしいのだろう。


「わかりました。行きましょう」


 そう言って、桔花が境内に向かおうとしたその時だった。桔花の腕をがしっと掴む者があった。


「行くな。危険だ」


 いつも通りの冷ややかな物言いに表情。しかし、今は桔花の身を案じているのだとわかる。


「すみません。テンコ様、シヅキ様をお願いします!」


 桔花はシヅキの腕を振りほどくと、本殿へと続く渡殿へ走った。本殿の手前まで行くと、欄干を越えて地面に飛び降りる。少々はしたない行為だが、誰も見ていないのでいいだろう。


 昼間だからか、参拝者の数は少ない。渡殿を越えて境内の方に来るのは初めてだったが、そこまで広くもないため、桔花は迷うことなく鳥居までたどり着くことができた。


 鳥居の手前には二人の分身がいる。桔花が声を掛けると、二人の分身は同時に振り向いた。


あけさま……」


 分身達はいつものようにはしゃいでおらず、どこか困った様子だった。桔花は鳥居の向こうに目をやり、ぎょっとした。


 立ち込める黒い靄。それが、先が見えぬほど遠くまでずらりと続いている。おそらくこれは、あやかしが発している瘴気だろう。大勢とは言っていたが、よもやこれほどまでとは思うまい。


「おい、やっと来たのか!」

「早く俺たちの穢れを祓ってくれよ!」


 黒い靄からくぐもった咆哮のような声が聞こえる。桔花は呆然と黒い靄を眺めた。


「何人ですか?」

「わかりません。少なくとも二百はいるかと」

「二百……」


 桔花はぎゅっとこぶしを握り締め、うつむいた。


「申し訳ありません。私には無理です」


 小さく消え入りそうな声が、桔花の口から漏れる。


 龍神の加護もなく、花楽師が桔花一人しかいないこの地ではこれほど大勢の穢れを祓うことは難しい。一人ずつ穢れを祓ってやることはできなくもないが、それでは全員の穢れを祓い終えるより先に桔花の霊力が枯渇するだろう。


「何だよ! できねえってのか!」

「聞いてた話とずいぶん違うじゃねえか!」


 あやかしたちは口々に桔花を罵る。結界が張られているのか、鳥居よりもこちら側に来ることはないが、今にも襲いかからんばかりの剣幕である。


(……返す言葉もない)


 桔花が花楽師であるためには、役者として市井の舞台に立つ代わりに神事として花楽を捧げるしかない。それなのに、己の力量不足でその務めさえも果たせないことが、ただただ悔しい。


 桔花はうつむいたまま、顔を上げられないでいた。顔を上げ、前を向いてしまえばあやかしたちの恨みに満ちた顔が見えてしまいそうで。桔花は唇を噛みしめ、己の無力さに打ちひしがれていた。


 不意に、ひんやりとした空気が桔花の頬をかすめる。すると、あやかしたちの怒号もぴたりと止む。ふと顔を上げれば、美しい銀髪が目に入った。


「シヅキ様……」

 

 そう呟けば、シヅキはこちらを振り向く。凍てつくほどに冷ややかな桔梗色の瞳が、一瞬ふわりと和らいだ。


 あやかし達はといえば、なぜシヅキが来たのかと何やらひそひそ話している。助けを求めに神社まで来たものの、まさか神が御自ら姿を現すとは思っていなかったのだろう。シヅキはそんなあやかし達に向き直ると、凛と通る声で告げた。


「三日待て。それまでに私が何か策を考えよう」


 シヅキが言った途端、ざあっと雨が降り始めた。しかし雨にしてはどこかおかしい。鳥居よりもこちら側には何も降っていない。そのうえ、辺りは雨特有の湿っぽい臭いの代わりに、酒の匂いが漂っている。


 空を見上げれば、樽を咥えた大きな四尾の白狐が、樽の中身を辺り一面にぶちまけていた。


(テンコ様……? 咥えているのはまさか、酒樽?)


 桔花は突然の出来事に状況をうまく飲み込めずにいた。


 しばらくすると、二匹目の白狐が上空に現れた。今度の白狐は大きな風呂敷包みを咥えている。白狐が風呂敷を開くと、中から葉の付いた枝が雨のように降り注いだ。瘴気に覆われたあやかしたちからぎゃあぎゃあと叫び声が聞こえる。あんなに高いとこから無数の枝が落ちてくるのだ。痛くないはずがない。


「神酒とさかきの枝だ。次は最低限のみそぎを行ってから鳥居をくぐるように」


 淡々と告げるシヅキの表情は、いつもの何倍も冷え切っていた。


 この場に居る誰もが、――少なくともシヅキの姿が見える位置にいる者は、彼の氷雪の如き怒りを感じ取っただろう。


 桔花でさえも身が凍りつく思いをした。


 ――かくして、この騒動は一旦幕を下ろしたのであった。

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