祓の儀(一)

 あやかしたちを帰らせた後、シヅキは真っ先に湯殿へ身を清めに行った。一度は堕ちた存在であるシヅキにとって、穢れは極力触れてはならぬものだ。常に身を清く保っていなければ、すぐに向こう側に引っ張られてしまうのだと、桔花はテンコから聞いた。


「――というわけで本来ならば不浄の者と縁を持つことすら厭わしいのです」


 一通り話し終えると、テンコは火桶に薫物たきものをくべた。しばらくすると、藤の甘い香りが居間中にふわりと広がる。テンコは鼻孔をひくつかせると、満足げに尻尾を揺らした。


「しかし、シヅキさまが皆の前で宣言してしまった以上、何もしないわけには参りません。そこであけさまにはかんなぎ役をお願いしたいのです」

かんなぎ役……ですか?」


 桔花が聞き返すと、テンコはこくりと頷いた。


かんなぎとは神と民とを繋ぐもの。つまり、シヅキさまに代わって儀をしていただきたいのです」


 それを聞いて、桔花は顔を曇らせた。


「申し訳ありません。私では役不足かと存じます」

「どうしてですか?」


 テンコは不思議そうに首を傾げる。

 黒く丸い双眸が桔花をまっすぐ見つめている。その視線に耐えきれなくなり、桔花は思わず目を伏せた。


「テンコ様もご存じの通り、私の霊力ではあの者たち全員を祓うことができないのです」


 黒猫亭では己の役目だなんだと散々偉そうに啖呵を切っていたくせに、結局は力が及ばず匙を投げる。しかもその尻拭いを、今まさにシヅキたちにさせようとしている。それが桔花にはたまらなく恥ずかしく、また悔しかった。


「いいえ、そうではなく、緋さまにはシヅキさまの神力をお借りして儀を行う巫となってほしいのです」


 「へっ?」と桔花の口から間抜けな声が出る。


「この神社に伝わる神楽も一応ありますが、三日で覚えるというのはさすがに酷でしょう。ですので儀式の際の舞は何でも構いません。楽の音も霧ノ国のものならばなんとかなりそうです。向こうに分身を置いているので……」


「ちょ、ちょっと待ってください」


 テンコがあまりにもとんとんと話を進めていくので、桔花は慌てて話を遮った。


「シヅキさまから神力をお借りするというのは……?」


 霧ノ国で花楽師をしていたとき、龍神に楽や舞を奉納し、その見返りとして恩恵を授けてもらうことならばあった。しかし神から直接神力を借りるというのは聞いたことがない。


「楽や舞の見返りとしてシヅキさまから神力をお借りし、その神力を操って代わりに祓の儀を遂行していただきたいのです」


 事も無げにテンコは言う。


「緋さまは人の子です。人の力が及ばぬことに神が手を貸すというのは当然の道理でしょう」


(いや、たしかにそれは当然かもしれないけど!)


 さも簡単なことのように言わないでほしい。神から神力を借りるだけではなく、それを桔花自身が操ってあやかしたちの穢れを祓うなんて芸当、そうそうできるはずがない。


 しかもそんな儀を行うならば、相当大仰なものになるはずだ。テンコが楽の音を奏でてくれるとはいえ、花楽師が桔花一人しかいない状態でなせるのだろうか。


 桔花が頭を悩ませていると、湯浴みを終えたシヅキが居間に入ってきた。美しく長い銀髪はまだ湿っている。シヅキが腰を下ろすと、テンコがさっとシヅキの側まで火桶を運び、湿った髪を乾かし始めた。


「話はどこまで進んだ?」


 不意にシヅキが口を開いた。


 桔花はてっきりテンコに問うているものだと思い黙っていたが、待てど暮らせどテンコが答える気配はない。不思議そうにテンコを見遣ると、テンコは早く答えろというようにこちらに目配せしてきた。


「私が巫としてシヅキ様の神力を借り、儀を行うところまでは聞きました。しかし――」

「なんだ?」

「私なんかに巫が務まるかと……」


ではない」


 それを聞いて、桔花は目を丸くした。テンコは「まあ」と口元を押さえている。


「私は緋以外の者に神力を貸すつもりはない」


 シヅキの言葉は、優しく、しかし確実に桔花の心を穿った。

 桔花の頬は自然と緩んでいく。


(いやいや、流されるな)


 悔しいが、桔花にこの大役は務まらない。己の力量を見誤れば大きな失敗に繋がるのだ。


「やっぱり私には無理です。第一、このように大仰な儀をやるふさわしい演目は私ひとりでは……」


 その先の言葉は飲み込んだ。なぜなら――。


「私は、緋がいつも庭で練習している舞が見たい」



 それを聞いた瞬間、桔花はすっくと立ちあがった。そして、「舞の稽古をしてきます」とだけ言い残し、足早に居間を去る。


 後ろ手に襖を閉めた桔花は、その場にへたり込んだ。

 桔花の頬は、秋の紅葉のように赤く染まっている。


 ――私は、緋がいつも庭で練習している舞が見たい。


 先程のシヅキの言葉を反芻する。


(あんなお粗末な舞を見たいだなんて、目が腐ってるんじゃないか?)


 そう心の内で毒づくものの、嬉しさがこみ上げるのを抑えられなかった。

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