祓の儀(二)
それから三日後の朝。祓の儀の当日。
普段は簡素な佇まいの神楽殿は、今日の祭祀のため飾り立てられていた。紅白の垂れ幕に、四方にはしめ縄、舞台の四隅には
祭殿に藤を供えるというのはなかなか珍しいので、もしかするとシヅキの好きな花なのかもしれない。
まだ朝だというのに神楽殿の周りはあやかしたちでごったがえしていた。
穢れを身に溜めた者は境内に入れないので、今いるあやかしは全員ただの野次馬だろう。
(これじゃあ、まるで
社務所の陰から様子を窺っていた桔花は、大きなため息を吐いた。幾重にも重ねた衣がさらに重く感じる。
桔花が一番上に纏っている衣は、群青色をしていた。
――群青色。それは花楽の演目「
今日はこの群青を纏って舞台に立つ。
たった一人で舞台に立つ。
(それでもやり遂げなければ)
此度の儀の成功は桔花にかかっているのだから。
「
不意に後ろから声を掛けられた桔花は、びくりと肩を揺らした。振り向けば、いつも通り冷え冷えとした表情をたたえたシヅキがいる。
目が合った瞬間、桔花はぐるんと背を向けた。
「シ、シヅキ様! いきなり声を掛けないでください! 驚くでしょうが!」
「す、すまない……」
シヅキからは見えないが、桔花の顔は赤く火照っていた。
あれ以来、シヅキを前にするとどうも調子が狂う。声を聞けば鼓動が早鐘を打ち、まともに目を合わせることもできない。
「緋」
再び名を呼ばれ、桔花の心の臓はドクンと跳ねた。
「なんですか?」
桔花は背を向けたまま応える。振り向かねばシヅキの表情は分からないが、どうせいつも通り不愛想な顔をしているのだろう。
「巫役、今からでもやめて構わない」
刹那、あれほどうるさく鳴っていた心臓が、止まったような気がした。
――なぜ? 何か失望させるようなことをしただろうか? それとも私の粗末な舞では駄目だと思い直したのか?
色々なことが桔花の頭を駆け巡る。
「は、花楽師として一度引き受けたことを放り出すわけにはいきません」
桔花は動揺を悟られぬよう、気丈に言葉を返す。
「やはり、怒っているのか?」
(は……?)
シヅキがあまりにも突拍子のないことを言うので、つい心の声が漏れてしまいそうになったが、なんとか喉のあたりで留めた。
「怒っていません」
いや、これではまるで桔花が本当に怒っているみたいではないか。
「怒っているじゃないか」
「怒ってません」
桔花にそのつもりはないのだが、これだと尚更桔花が本当に怒っているみたいだ。
「では、なぜあれから目を合わせないのだ?」
桔花はやっと得心が行った。
どうやらシヅキは、桔花が嫌々巫役をやらされてへそを曲げているのだと勘違いしているらしい。
とりあえず桔花に失望しているわけではないようなので、桔花はほっと胸をなでおろした。
桔花はくるりと振り向くと、思い切ってシヅキの桔梗色の瞳をじっと見つめる。
数日ぶりに見たシヅキの瞳は、微かに揺れていた。
「巫役が嫌なわけではないんです…… むしろ、シヅキ様に舞を認めてもらえて嬉しかったんです……」
しどろもどろになりながらも、桔花はなんとか言葉を紡いだ。
シヅキは黙って桔花の話に耳を傾ける。
「目を合わせられなかったのは…… その…… なんとなく顔を合わせづらくて…… とくに深い意味はないのですが、あの…… 申し訳ありませんでした……」
話し終えた桔花の顔は、先程よりも赤く火照っていた。
まさかこの年にもなって、喧嘩後の仲直りのように自分の胸の内を吐露しなければならないとは……。
「そうか。ならいい」
「はい。あ、私はまだ準備があるので」
そのまま立ち去ろうとしたところで、「待て」とシヅキに呼び止められた。
(まだ何かあるのか?)
桔花が怪訝に思っていると、不意に頭の上に手が置かれた。すると、手が触れたところから、何か温かいものが流れ込んでくる。その感覚がなんとも心地よく、桔花は思わず目を瞑った。
しばらくすると、シヅキの手は桔花の頭から離される。もう少しあのままでいたかったと、桔花は少し残念に感じた。
「今のは何ですか?」
「まじないのようなものだ」
「まじない……?」
「武と芸術の加護を授けた。君ならば、この儀をやり遂げられると信じている」
シヅキの言葉が、桔花の胸の内で波紋のように広がっていく。
桔花はなんだか泣きそうな気持になった。それを誤魔化すように、桔花は無理やり口角を上げ、はにかんだように笑う。
「惜しい。芸能の加護なら今回の儀にぴったりだったのに」
神からすれば、せっかく加護を授けた人間にそんなことを言われては、たまったものではないだろう。怒りの雷を桔花の真上に落とされても、文句は言えない。
だが、シヅキは困ったように、わずかに眉を上げただけだった。
「……でも、ありがとうございます。シヅキ様のおかげで、なんだか上手くいきそうな気がしてきました」
そう言い残すと、桔花は準備をしに走って戻って行った。先程までずっと胸の中にあった
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