花見酒
月明かりが照らす中、桜の花びらと桃の花びらは風を受けてひらひらと舞い、交じり合う。
縁側に腰かけその様子をただぼうっと見つめながら、シヅキは酒を飲んでいた。盃が空になると、シヅキが何も言わずともテンコが酒を注いでくれる。辺りは葉の擦れ合う音以外何も聞こえない、静かな
しかしその静寂も、突如桜の木の下に現れた来訪者によって破られることとなる。
「花見酒をしておるのか」
そう言ってこちらに歩み寄ってくるのは、桔花と同じ緋色の瞳を持つ男だった。その容貌はどこか中性的であり、すらりとしていて美しい。
「楽しそうだな。わらわも混ぜてくれ」
男はシヅキとテンコの間に割り込むように座る。そしてテンコの持っている徳利を奪うと、豪快に酒を煽った。その様子を見て、シヅキは不快だと言わんばかりに眉を顰める。
「その姿はやめろ、黒姫」
シヅキが言うと、男の赤い唇は弧を描いた。
「我が君の姿が美しくないとでも?」
そう言ってしなを作ってみせる様は、まさに黒姫であった。
黒姫の言う我が君とは
黒姫の男嫌いも実のところ、紅華以外の男を男とは認めないというはた迷惑な思考が原因なのだが、それはまた別の話だ。
黒姫はテンコから二本目の徳利を奪うと、また豪快に酒を煽る。
「美しいならばよいではないか。なに、たまには我が君の美しいお姿をみなに知らしめようと思ったまでよ」
シヅキは黒姫から視線を逸らした。風が止んだのか、先程まで優雅に舞っていた桜と桃の花弁も今は地面に落ち着いている。
「用が無いなら帰ってくれ」
「つれないのう。せっかくそなたらがうちに忘れた着物を持ってきてやったというのに」
黒姫がぱちんと指を鳴らすと、何もない場所から煌びやかな着物が現れる。それを見て「助かる」とだけ言い残し、シヅキはその場を立ち去ろうとする。このまま黒姫の相手をするのも面倒なので、部屋で晩酌の続きをしようと思ったのだ。床に散らばった着物はテンコが片付けてくれるだろう。
だが、少し進んだところで後ろに体を引っ張られる感覚があった。振り返ると、黒姫が徳利片手にシヅキの着物の裾を掴んでいる。
「待て。わらわの話はまだ終わっていないぞ」
こちらを見上げる
シヅキは仕方なくもう一度縁側に座り直した。すると、黒姫はずいっと顔を近づけてくる。その目は黒姫にしては珍しく、至極真剣なものであった。
「シヅキ、あの娘をわらわに寄越せ」
予想外の言葉に、シヅキは耳を疑った。
「……なぜだ?」
「そんなもの決まっておろう」
黒姫は恍惚とした表情を浮かべる。それは恋しい人を思い浮かべた時の顔というよりは、最高に美味な食べ物を目の前にした時のものに近かった。
「わらわを前にしたときのあの顔、実に美しかった。毎日着飾らせてそばに置きたい」
シヅキは、黒姫がなぜ今日よりによって紅の君の姿でシヅキの元へやって来たのかようやくわかった。黒姫はシヅキが紅の君の姿に弱いということを知っていて、自分の頼みごとを聞いてもらうためにあえてこの姿で来たのだ。
「駄目だ」
「生きている状態の方が望ましいが死んでいても構わぬ」
「尚悪い」
つまりは桔花を人形のように愛でていたいということだ。相変わらずあやかしの考えることというのは、突飛で恐ろしい。中でも黒姫の突飛さは群を抜いている。
それでも黒姫を桔花に近づけたのは、ひとえに黒姫を信頼していたからだ。黒姫は眷属の猫又たちでさえ手を焼く変わり者だが、一応彼女なりに分を弁えているらしく、
「とにかく駄目なものは駄目だ」
シヅキはなるべく黒姫と視線を交わさぬようにしながら、冷ややかに言い放った。すると頑として要求を受け付けないシヅキに痺れを切らしたのか、とうとう黒姫は憤慨した。
「そもそも
突然、辺りを風が吹きすさんだ。風は庭の花々を散らし、シヅキの元へむせかえるような甘ったるい香りを運んだ。今まで気配を消していたテンコが「まあ」と声を漏らす。
「くどい」
シヅキはそう言うと、さっと立ち上がって踵を返す。今度は黒姫に引き留められることはなかった。
***
風を受けて後ろの障子戸がカタカタと鳴っている。
(黒姫さま、やってくれましたね)
散らばった徳利を片付けながら、テンコはため息を吐いた。近頃はあれだけ有頂天だった
普通のあやかしならばここで帰るところだろうが、黒姫に普通を求めてはいけないのかもしれない。この様子だと一晩中居座る気である。
「黒姫さま、お店の方は良いのでしょうか?」
「化け猫共に全て任せておるゆえ、心配するな」
言外にもう帰ってほしいとほのめかすが、通じないのが黒姫である。テンコは仕方なく替えの酒を取りに行くことにした。
(それよりシヅキさまは大丈夫でしょうか……)
(出てくるまで何年かかるのやら)
今もなお縁側でくつろいでいるであろう黒姫を、テンコは恨めしく思うのだった。
黒姫の世話に機嫌を損ねた
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