花楽師の娘(三)

 琥珀色の瞳に映る己の姿を見た瞬間、もうおしまいだと桔花は思った。 


 思えばそこまで悪くない人生であった気がする。花楽座の座長は厳しくおっかないが、桔花を一人前の花楽師になるまで育ててくれたし、決して多くはないが仲のいい同僚もいた。理不尽にも牢にぶち込まれたがシヅキが助けてくれたし、テンコの分身たちは愉快で面白い。


 いままでの記憶が一瞬のうちに駆け巡る。これが走馬灯か、と桔花は思った。


(いや、こんなところで死んでたまるか)


 桔花が花楽師として生きることを捨ててまでこの地に来たのは、生きるためだ。ただ生きるためだけに己の存在意義を捨てたのだ。


 それなのに抗いもせず、簡単に死を受け入れてなるものか。

 

 眼前に迫るのは剝き出しになった鋭い牙と爪。琥珀色の瞳には怒りがにじんでいる。その迫力に怯むことなく、桔花は三尾の黒猫をまっすぐと見据えた。やれるものならやってみろ、とでも言うように。


 すると黒姫の鋭い爪は、桔花の顔の肉を切り裂く寸前でぴたりと止まった。その一瞬のすきに、桔花と黒姫の間にふと何かが飛び込み、視界一面が銀色で覆われる。それから間を置かずに、建物全体を揺らすほどの轟音がした。


 桔花の前には、襲い来る黒姫を阻むかのようにシヅキが立っていた。黒姫はというと吹っ飛ばされた勢いで壁を突き破り、店の外で伸びている。


 気づけば、桔花はシヅキの腕の中にいた。桔花の羽織っている衣と同じ、甘く清涼な、藤の香りがする。


 桔花を抱き寄せるシヅキの腕はごつごつとしていて、女の細腕とは違うたくましさがある。ふと顔を見上げれば、シヅキは変化の術を解いていつもの姿に戻っていた。


「もう大丈夫だ」


 そう言って慰めるように桔花の背をぽんぽんと優しく叩いた。そこで桔花は初めて自分がぽろぽろと涙を流していることに気づき、慌ててシヅキを突き放す。


「いや、これはその…… ただの塩水です!」

「塩水……」

「ええ本当に! 全然お気になさらずとも大丈夫ですから!」


 そのしかし何も悪くない、むしろ感謝すべき相手であるシヅキを突き飛ばしてしまったことに気づき、桔花は流れるように土下座をした。


「も、申し訳ありません」


 シヅキはいつも通り無表情のまま立ち上がる。桔花も立ち上がろうとしたが、腰が抜けてうまく立ち上がれない。シヅキを見ると、なぜいつまでも座り込んでいるのかとでも言うように小首をかしげている。


「あの、シヅキ様……」

「何だ?」

「腰が抜けました」


 シヅキは呆れたようにため息を吐くと、桔花に手を差し出した。



***



「本当、何から何まですみません……」

「構わない」


 腰が抜けて真っ当に歩けなくなってしまった桔花は、シヅキに負ぶわれながら暗い夜道を行く。大股開きになると着物の前がめくれて嫌なのだが、文句は言うまい。


 あの後、魔物となる寸前のあやかしを祓ったうえに黒姫を鎮めるなんて一体何者だと少々騒ぎになった。押し寄せたあやかし達になんとかもみくちゃにされずに済んだが、おかげで着物を受け取るどころではなくなってしまった。そのうえ網代車の止めてある場所までかなり遠回りせねばならぬとくれば、なんとも言い難い脱力感が桔花を襲う。


 まあ、桔花はシヅキに負ぶわれているので大変なのはシヅキだけではなのだが。


 明かり一つない道を、シヅキの灯した鬼火を頼りに進んでいく。お互い言葉を交わさぬまましばらく歩いているうちに、桔花の中に気まずさが募ってきた。


「い、いい夜ですね」


 なんとか絞り出した言葉は、今夜の星一つ見えない曇り空には似合わぬものだった。桔花も口に出した後でそのことに気づき、つい額を押さえたくなった。


 シヅキも一度夜空を見上げてから少し眉根を寄せ、「そうだな」と返す。桔花はさらにやるせない気持ちになった。


 こんな時にテンコがいればうまく場を持たせてくれるのだろうが、桔花が気づいた時にはテンコはいなくなっていた。薄情なお狐様め、と桔花は心の内で毒づく。


あけ……」


 ふいにシヅキがぼそりと呟いた。


「何か言いましたか?」


「黒姫が契約の際に使った真名は呼ばない方がよいと言っていただろう。だから代わりに呼ぶ名を考えていた」


「ああ、なるほど」


 契約とは、桔花が知らぬ間に知らぬ人と結ばれていたものである。本来はあやかしを式に下すときに結ぶものらしい。シヅキがこんなにも真面目に考えているのに、まさか桔花本人は今の今まですっかり忘れていたとは口が裂けても言えまい。


「黒姫は茜と呼んでいたが、君の瞳の色はもっと鮮やかで明るい」


 だから「あけ」という名はどうだとシヅキは言う。たしかに良い名ですと桔花は答えた。


「それにしても他人の瞳の微妙な色の違いなんてよくわかりますね。自分でも茜色なのかあけ色なのかよくわからないのに」


 それを聞いて、シヅキの歩みはぴたりと止まった。桔花は何かまずいことでも言ってしまったかと不安になったが、シヅキはすぐにまた歩き始める。


「昔、君と同じように緋色あけいろの瞳を持つ知り合いがいた」

「あやかしの方ですか?」

「いや、人間


 ――人間。何やら含みのある言い方だ。桔花の脳裏にふとある人物がよぎった。「鬼比売御子」にも出てくる紅の君だ。


(いや、そんなはずはないか)


 あほらしい邪推はやめようとかぶりを振る。第一、紅の君はその名の通り瞳も紅色であったという。


 ふと道の先に見覚えのある網代車が見えた。


「シヅキ様、そろそろ自分で歩けそうです」


 そう言うと、シヅキは桔花を地面に下ろしてくれる。桔花は礼を言うと、即座に着物の前を整えた。着物が乱れているというのは、乙女に取って死活問題である。


 しかし、呑気なことにこの時の桔花はすっかり頭から抜けていた。桔花を待ち受ける網代車は、行きと同じいわくつきのものであると……。

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