花楽師の娘(一)
女妖たちが悲鳴を上げながら慌てて二階へ逃げていくなか、化け猫女たちは着物や簪に至るまで、回収できるものはできるだけ回収してから冷静に二階へ避難していく。
店内はひどい荒れようだった。
硝子は割れ、商品の置いてあった棚は木っ端微塵になり、破れた着物があちこちに散乱している。
それもこれもあの大きな三尾の黒猫と黒い靄のかかったあやかしがやったのだろう。あやかしの方は三尾の黒猫より一回りも二回りも小さいのに、咆哮を上げながら果敢にも黒猫に突進していくが、いとも簡単に吹っ飛ばされてしまう。そのたびに店内はどんどん荒れていき、今では筆舌に尽くしがたい惨状となっていた。
「また黒姫か」
争う二匹のあやかしを見て、シヅキがそうつぶやいた。
「どちらが黒姫様ですか?」
「あの大きな黒い猫のほうだ」
桔花はもう一度店内の惨状に目を向ける。そこには獣の本性をむき出しにして、あやかしに襲いかかる三尾の黒猫の姿があった。
あやかしの方は黒い靄に覆われていて姿はよく見えない。おそらくあれは瘴気の塊だろう。瘴気は本来、普通の人間には見えぬはずだが、それが当たり前のように見えているということは黒姫の荒療治で桔花の霊力は本当に戻ったようだ。
瘴気渦巻く地で暮らす妖たちは、何気なく過ごしているうちに自ずと瘴気を見に溜めてしまう。普通は
目の前のあやかしは、穢れを身に溜めすぎて魔物となる寸前であり、このあたりで最も力を持つ黒姫に助けを求めに来たのであろう。しかし、男嫌いの黒姫に無慈悲にも突っぱねられ、そこからはくんずほぐれつの大乱闘に発展したのが事のあらましであるらしい。
よくあることだとシヅキは言った。桔花は言われて初めてあのあやかしが男だったのだと知る。
「シヅキ様が穢れを祓ってやることはできないのですか?」
「私は穢れを祓ってやることはことはおろか、あの者に近づくことすらできない」
「なぜですか?」
桔花は純粋に問うただけだったが、シヅキは一瞬たじろいだ。桔花の真っすぐな視線から逃れるように目を背け、シヅキは答えた。
「私は一度堕ちている」
(堕ちている……)
桔花は心の内で反芻する。
桔花はシヅキのことを、神として祀り上げられた力のあるあやかしか、
だが桔花の想像以上に、「堕ちている」という言葉は暗く重い響きを
(あまり触れない方がいいのかもしれない)
桔花は一つ息を吐くと、もう一度階下の惨状に目を向ける。
(私に止められるだろうか……)
桔花のいた花楽座は今でこそ大衆芸能と化しているものの、もとは国の守護たる龍神に舞や楽の音を捧げるために作られた組織であった。そこに属する花楽師たちもまた、みなただの楽師ではなく神官だ。花盛りの乙女しか花楽師になることができないのは、祀っている龍神が男神だからである。
(悪しきものも祀れば神となる。ならば神もあやかしもそう変わらないだろう)
芸を極める者としてはまだまだ未熟な桔花だが、幸い神事としての花楽ならば何度も経験している。何より市井での舞台に立てない桔花には、花楽師として――神官として舞台に立つことが己の存在意義であった。
桔花は深く息を吸っては吐く、吸っては吐くを繰り返す。これは己の仕事なのだと言い聞かせる。階下の惨状に突っ込んでいくことへ恐怖し、わずかに震える己を戒める。もう一度深呼吸をすれば震えも止まり、桔花の心は清水の如く落ち着いたものとなった。
「ではシヅキ様、代わりに私が騒ぎを鎮めて参ります」
「一体何を……」
「行って参ります」
シヅキが止める間もなく桔花は階段に足をかける。途端にむわっと瘴気が立ち上ってくるのがわかった。
(誰かが結界を張っていたのか)
結界というより境界に近いかもしれない。なんにせよ、瘴気が上まで流れ込まないようにしていたという点では同じだろう。
結界の向こうでシヅキが何かを言っていたが、その声は桔花の耳に届かなかった。
一階まで下りると、より一層濃い毒気に包まれる。
(まずは黒姫様の気を逸らさなければ)
桔花はただ冷静に自分のやるべきことだけを見据えていた。黒姫をなんとかして落ち着かせなければ、あやかしの穢れを祓ってやることもできない。
(
桔花は見習い楽師時代に嫌というほど暗唱させられた「花楽師としての心得」の一節を反芻する。そして暴れ狂う黒姫の前に躍り出ると、膝をついて礼をした。
「かしこみかしこみ申し上げます。黒姫様」
桔花の声に、黒姫はあやかしをいたぶるのをやめてこちらに顔を向けた。
「ただいまよりわたくしが花楽師として舞を奉ります。どうか今一度お怒りをお鎮め……」
刹那、桔花の頬を黒姫の鋭い爪が掠めた。頬に一筋の傷が走り、たらりと血が流れる。
普段の桔花ならば、すでに腰を抜かしているような状況だろう。しかし今の桔花はこのような状況にあってもなお落ち着いていた。
(天災を鎮めるときは〈胡蝶の舞〉をよくやっていたな)
舞に合わせる謡を歌おうと息を吸ったその時だった。突然、誰かに襟をつかまれ、桔花の体は強い力で後ろに引っ張られた。それとほぼ同時に、黒姫の前足が桔花の目の前に振り下ろされた。まるで野良猫が戯れで虫を潰すような。そんな動きだった。
それを見て、さあっと血の気が引いていった。もし、あのままあそこに座っていたら、桔花は間違いなくあの大きな手で潰されていただろう。すんでのところで助けてくれた何者かに感謝せねばなるまい。
桔花が振り向くと、そこには白く美しい毛並みを持つ大きな狐がいた。
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