黒猫亭(二)
(……契約?)
桔花はそんなもの、誰とも交わした覚えはない。そもそも黒姫の言う契約とは何なのかすら桔花は知らない。素直に疑問を口にすれば、黒姫はくるりくるりと番傘を回しながら答える。
「人間が我らあやかしを式に下すときに交わすよくある契約じゃ。まあ、人間に使っているのは初めて見たがな」
黒姫は事もなさげに言うが、契約とは恐ろしい契約である。しかしいきなりそんなことを言われても、なんだか腑に落ちない。桔花の身に何か恐ろしいことが起きているというのは理解しているのだが、まるで夢物語を聞かされているような感覚である。だからだろうか、桔花はいたって冷静だった。
「なるほど。では契約を一方的に破棄した場合はどうなるのですか?」
「破棄した方が死ぬ」
黒姫は桔花から離れ、また番傘をくるりと回す。よくやる仕草なので気に入っているのかもしれない。
「何百年前だったか、わらわの知り合いに物好きなやつがいてな、惚れ込んだ人間の式に望んで下ったんだと。しかし主の方がそやつを持て余したらしくてな、一方的に契約を破棄しようとして死んだらしい。そやつは不甲斐ない主に失望したと言って、今ではこの話もただの酒の肴よ」
そう言って黒姫は高笑いをする。どこか楽しそうに他人の不幸を語る黒姫に、桔花は何か恐ろしいものを感じた。
「では、契約を解く
ふいに、今まで押し黙っていたシヅキが口を開いた。
「そう言うておる」
「他に何かできることは?」
「そうじゃな…… 契約のときに使ったであろう真名を呼ばないようにするとか。名とはその存在の根幹と深く結びつき、魂を縛るものでもある。枕娘なら、瞳の色から取って茜とでも呼んでおこうか」
「だからその呼び方やめてくれませんか?」
「なんじゃ、さっきからうるさいな。わらわに枕をぶつけてきたのだから、お前なぞ枕娘で十分じゃ」
「わかりました。他に何と呼んでも構いませんから、枕娘だけはやめてください」
黒姫は意味が分かっていて桔花を枕娘呼ばわりするのだろうか。だとしたら質が悪い。
しつこく食い下がる桔花を鬱陶しく感じたのか、黒姫は「枕娘」と呼ぶことをやめてくれた。それからすぐに本題に入る。
黒姫の話によれば、滞った霊気の巡りを促すためには、外部から無理やり霊気の流れを作ってやればいいらしい。つまり何をするかというと、黒姫の霊力を桔花の体内に流すとのことだ。
黒姫は桔花の背中に手を当てる。すると、桔花の中に何かが入ってくるような感覚がした。桔花の体の中で蠢くそれは、おそらく黒姫の霊力だ。
突如、桔花は全身の力が抜けた。
(気持ち悪い…… 体が熱い……)
胸の内からこみ上げてくるものを吐き出せば、どろりとした血がどばっと出てきた。床に敷いた毛氈が赤黒く染まる。それを見た黒姫が、「ああ、もったいない」とつぶやいた。
(こんな時でも私より毛氈を気にするなんて、人の心がないのか?)
視線を上げると、まるで道端の雑草を眺めるかのように、何の感慨もなく桔花を見つめる黒姫がいた。それを見て桔花は「そもそも人ですらなかったな」と思い直す。
一方シヅキは従属契約の話を聞いた時から、表に出さずに激しく動揺していた。血を吐く桔花を目にして、脳裏に焼き付いた赤くおぞましい記憶が甦る。
気づけばシヅキは、黒姫に向けて神通力を放っていた。神通力の流れが変わったことで術が乱れ、女の姿から男の姿へ戻っていた。凝縮した神通力は一本の矢の形を成して、黒姫めがけて飛んでいく。黒姫はすんでのところで攻撃を躱したが、シヅキから溢れ出る神通力は一本、また一本と矢になって飛んでいく。
「まったく。脆弱な人の子にわらわの妖力を流せばこうなるのはわかっておっただろうに。死なない程度に調整しておるゆえ、安心せい」
次々飛んでくる矢をひらりひらりと躱しながら、黒姫は言う。それを聞いてシヅキは我に返ったのか、黒姫への攻撃が止まった。シヅキの放った矢は丁度良い具合に桔花を避けて床に刺さっている。その光景を見て、シヅキは桔花に駆け寄った。抱き起こした桔花はかろうじて意識はあったが、呼吸も荒く目の焦点が合っていなかった。何度呼びかけても反応がない。
桔花の霊力を元に戻すため黒姫がとった方法は、かなりの荒療治だったようだ。桔花の体の中では、黒姫の妖力と桔花の霊力がせめぎ合い、暴れている。
シヅキはなおも必死に桔花の名を呼び続けたが、桔花の意識は闇の中に沈んでいった。
***
目を開けると、美しい銀髪と桔梗色の瞳を持つ、たいそう整った女の
(いつものシヅキ様じゃなくてよかったな)
起きてすぐそこに色男の顔があるというのはなかなか心臓に悪い。
そんなことを考えていると、ふとシヅキの白魚の如き手が桔花の手を握っていることに気づいた。
それにシヅキの顔がなんだか近い。
あまつさえ、桔花はシヅキに膝枕までさせていた。
「申し訳ありません! 重いですよね? すぐ退きます!」
慌てて身を起こすと、シヅキの額に桔花の額がごつんとぶつかった。桔花が額を押さえて見悶えていると、シヅキに声をかけられた。
「体調はどうだ?」
そう聞くシヅキも額をしきりに擦っている。顔には出ていないが、相当痛かったのだろう。
「申し訳ありません」
「気にするな」
(あ、どうしよう。ちょっと怒ってるかも)
シヅキは僅かにだが、普段より語気が荒くなっていた。こればかりは桔花が悪いだろう。
「体調は?」
シヅキはもう一度聞く。
「おかげさまですこぶる良いです。むしろここに来る前より体が軽くなりました」
桔花はあたりを見回した。どうやら黒姫の部屋のようであるが、シヅキと桔花以外には誰もいない。
「黒姫様は?」
「黒姫は日が暮れたので店を開けるからとそっちに出ている」
(そんなに時間がたったのか)
桔花たちがこの店に来たとき、まだ日は高く上がっていた。季節ごとの日の長さを差し引いても、桔花はかなり長い時間シヅキの膝の上で呑気に眠っていたことになる。
「シヅキ様、先程は――」
桔花が言いかけたその時、突然轟音とともに建物全体が大きく揺れ、女妖たちの甲高い悲鳴が聞こえた。その中にいくらか野太い声が混じっていたことには、あえて触れないでおこう。
「なんですか今の?」
「下の方からだ」
桔花とシヅキが下の階へ様子を見に行くと、そこには三本の尾を持つ大きな黒猫と、黒い靄に覆われた一匹のあやかしの姿があった。
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