隠世の神社(三)

 居間にはすでにシヅキとテンコがいた。テンコの方はその佇まいから一番初めに会った神使だとわかる。ふざけた方の神使はまだ湯殿で飛び跳ねているのだろうか。


 シヅキは相変わらず神秘的で美しい。だが、その視線はやはり冷たく、シヅキの周りだけ吹雪いているような気さえした。


 そんな中で桔花を案内してくれた神使は勇敢にもりんご飴を齧り続けていたのだが、行儀が悪いとテンコに叱られていた。湯殿から居間に続く廊下の拭き掃除を命じられ、すごすごと居間から退場していく。今までぴんと立っていた耳と尻尾がくたりと垂れ下がっているのが、なんとも可愛らしい。


 思わずくすりと笑ってしまう桔花だったが、ここであることに気づいた。


 シヅキの前には食膳が置いてあるのだが、その向かい側にさらにもう一膳食膳がある。


(まさかここで食べろと?)


 助けを求めるようにテンコを見ると、テンコは表情を変えぬまま座るよう促した。


 桔花は渋々と、しかしなるべくそれを表に出さないように用意された食膳の前に座る。シヅキの視線が痛いが、平静を装って「いただきます」と箸を取る。


「名は何という?」


「桔花でございます」


「年は?」


「今年で十七になります」


「人の国では何をしていた?」


「……花楽師をしておりました」


「花楽師とは何だ?」


「……大衆芸能の一つである花楽をする者のことです。もとは精霊の落ち子に神楽をやらせたのが始まりだとか」


「ああ、精霊の落ち子か。それなら私も知っている」


「……左様でございますか」


 シヅキは根掘り葉掘り桔花のことを聞いてくる。桔花は一つ一つ答えるたびに口から心臓が飛び出そうだった。今までこんなにも緊張したことがあっただろうか。いや、初めて花楽の舞台に立った時も、夜遊びをするために誰にも気づかれぬよう花楽座の館を抜け出した時もここまで緊張しなかった。


 なぜこんなに緊張しているのかと問われれば、ただシヅキが畏ろしいからと答えるしかなかろう。


 シヅキもテンコと同じく常に無表情なのだが、テンコと違うのはその視線が常に冷たいことだ。まるで虫けらでも見るように、目の前の存在には見る価値すらないとでも言いたげな目をする。


 一刻も早くこの場を去りたいのに、口を動かしているせいで全く食事が進まなかった。


「シヅキさま、もうその辺で」


(テンコ様……!)


 ようやく救いの手が伸びてきたかに思われたが、次のテンコの一言でその期待は打ち砕かれる。


「桔花さまも聞きたいことがたくさんおありでしょう」


 なんと今度は桔花の方から話を振らなければならない流れになってしまった。


「……神使様のお名前はシヅキ様がつけたのですか?」


 しばし逡巡した後、頭の隅からなんとか絞り出した話題を振る。恐怖と緊張で押しつぶされそうになりながらもかろうじて愛想笑いを浮かべたが、右の頬がひくひくと痙攣しているのが自分でも分かった。


「私ではない」


 どうやら天狐のテンコなどという安直な名前はシヅキがつけたわけではないらしい。


「神使様は四人とも同じ名前のようですが、不都合はないのですか?」


「私の神使は一人しかいないが」


「え?」


 いきなり怪談など始めないでほしいと桔花は思った。今の桔花はシヅキと言う存在を前にして、なんとか気を確かに持っているという状態なのだ。これ以上怖いものが増えたら桔花はその場で泡を吹いて倒れる自信がある。


「で、では、湯殿で世話をしてくれた神使様やここまで案内してくれた神使様は一体……」


「あれはテンコの分身だ」


「……左様でございますか」


 桔花は「いや分身って何よ!」と叫びたい衝動にかられたが、一刻も早く会話を終わらせるため物分かりのいいふりをした。


 しかしシヅキは空気を読まずに話を続ける。


「私では話し相手にならぬからかああやって分身で茶番をしている。本体はちゃんと仕事をしているから問題ない」


(あれが全部同一人物……?)


 思わず横を見ると、そっぽを向いてそ知らぬふりをするテンコがいた。心なしか、尻尾が前より下がっている気がする。


「以前は狐の姿で私の近くに控えている分身と、その辺で仕事をさぼっている分身がいたのだが、いつの間にか消えていた」


「左様でございますか!」


 桔花はシヅキに対する恐怖などすっかり忘れ、食い入るようにシヅキの話を聞いていた。


 しかしすぐに正気に戻り、白飯を口の中に掻き込む。


(いけない。ちゃんと警戒しなくては)


 シヅキもようやく桔花に興味が失せたのか、黙って食事を再開する。テンコも必要以上のことは話さないので、そのまま沈黙の時間が続く。時折食器のぶつかる音がするが、それ以外は皆押し黙ったまま居間は静寂に包まれていた。


 その静寂を突き破ったのはふざけた神使二人組、もといテンコの分身達である。


 間延びした話し方で二人して談笑をしながら居間に入ってくる。分身二人のうち一人は、なぜか手ぬぐいを持っていた。


 手ぬぐいを持っていない方の分身が桔花につかつかと近づいてくる。桔花が怪訝に思っていると、分身はわざとらしく「あー!」と叫びながら桔花の食膳の脇に膝をついた。


「お醤油がこぼれてるー。早く吹かないと畳に染みちゃう」


「え?何もこぼれてな……」


「テンコ三、手ぬぐい」


「テンコ三は手ぬぐいじゃありません」


 ふたたびその場が静寂に包まれた。


 シヅキは冷ややかに分身達を一瞥するとすぐに食事を再開した。


 桔花は分身達だけでなくテンコの名誉のためにも、今からでも笑った方がいいかと考えていた。しかし気を遣わせたとわかれば、より惨めな思いをするだろう。


 桔花が逡巡していると分身二人は、「シヅキさまのばかあー。桔花さまもばかあー」と言い捨て、泣き真似をしながら部屋を飛び出していった。二人と共にテンコも顔を覆いながら部屋を飛び出していく。


(やっぱり嘘でも笑った方がよかったかなあ……)


 桔花が申し訳なく思っていると、すぐにテンコは戻ってきた。何事もなかったかのようにすんとすましているが、どことなく顔が赤く見えるのは気のせいではないだろう。



 食事が終わると、テンコは桔花を客間まで案内してくれた。最初に桔花が寝ていた部屋である。当分は桔花の部屋として自由に使ってよいとのことだ。温かい風呂と食事に部屋まで用意してもらえるなんて、至れり尽くせりである。


 ここまでされてシヅキに対して感謝の念を抱かぬほど桔花は人間として腐っていないが、それでもまだ信用することはできない。なかなか複雑な思いである。


 桔花は行儀が悪いと知りつつも、畳の上に寝そべった。布団はすでに片付けられているので仕方ない。ごろんと寝返りを打つと、僅かに開いた障子戸の隙間から庭の様子が見えた。どうやら庭に面した部屋らしい。


 障子戸を開けるとふわりと風が吹き抜け、甘い香りが桔花の鼻孔をくすぐった。


 庭の中心には大きな池があり、それを囲むように桜に梅、桃の花、牡丹、金木犀に山茶花さざんかといった花が植えられている。一度に咲くはずのない季節の花々が一様に咲き誇るさまは、まるで夢幻の境にでも迷い込んだようで、まさに壮観であった。


 桔花が縁側に出て庭の花々に見入っていると、「美しいでしょう」と横からテンコの声がした。


 テンコも庭の花々をぼうっと見つめている。


「ここはシヅキさまの結界内。この庭の景色はシヅキさまの内面の表れです」


 どういう意味かと桔花が問うと、テンコは庭の一角を指さした。テンコの指さした先には、紫色の花がぽつねんと咲いていた。堅香子かたかごである。


「少し前まではあそこの堅香子しかありませんでした。だから庭のお花を増やそうとわたくしも頑張ったのです。分身を使ってシヅキさまの孤独を少しでも癒せるように」


 桔花は間延びした話し方をする分身のことを思い出した。湯殿で面白かったかとやたら食い下がってきたのも居間での妙な茶番も、すべてはシヅキのためにやったことだったのだ。


「金木犀と山茶花と梅はわたくしがこの千年で頑張って増やしたんです。途中花が散って枯れてしまうこともありましたが。しかしこの一日で一気に花が増えました。桔花さまのおかげです」


「いや、私は何も……」


 桔花が言うとテンコは静かにかぶりを振った。


「私がこの千年で成し得なかったことを桔花さまは一日でなさいました。シヅキさまはわかりにくい方ですが、桔花さまがおいでになってとても喜んでおられます。この庭がその証拠です。食事の時なんてわたくしおかしくって……」


 言いながら袖で口元を隠し、肩を震わせるテンコ。桔花にはよくわからないが、先程のお通夜の如き食事会はテンコにとってなかなか面白いものだったらしい。


「ですからあまりシヅキさまを嫌わないでやってくださいませ」


 いつものすまし顔に戻ってテンコは言った。


「桔花さま、今度はぜひ桔花さまから話しかけてあげてください。きっととてもお喜びになられますから」


 暖かく心地よい風が桔花の頬を撫でる。


 美しい花々を背景に立つテンコは、貼り付けた無表情の下でかすかに笑っているように見えた。

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