水遣り
朝日が昇ってすぐ、桔花は庭にある井戸へと向かった。この神社で使われているのは手押し式の揚水井戸で、花楽座の館にあった釣瓶式井戸よりも使いやすい。
緑色の
シヅキの神社に来て二日目。境内には参拝客のあやかしが来るからとテンコから
柄杓で水を汲み、近くの牡丹にばしゃっと水をかけると、葉にかかった滴が朝日を受けてきらめいた。
「うん、こんなもんかな」
一通り水遣りが終わると、桔花は一つ伸びをした。軽くなった桶を持って今度は
テンコからは庭の水やりをすればあとは好きに過ごして構わないと言われているのだが、居候の身でさすがにそれは申し訳ないと頼み込んだ結果、食事作りも任されたのである。テンコたちは人間のように毎日食事を取るわけではないので、基本的には桔花の分だけ作ればよいとのことだ。
ぐうぅと間抜けな音が鳴る。桔花の腹の虫の音だ。
早く何か作ろうと
まずは火を起こそうとかまどに薪をくべたのだが、ここで問題が起きた。
火打石がないのである。
(テンコ様に聞きに行くか)
桔花はテンコを捜しに
(帰ってくるまで待つか?)
――否、桔花の腹はそれまで待てそうもない。今この時も桔花の腹の虫は、聞くに堪えない大合唱を披露してくれている。
(……仕方ない)
桔花はため息を一つ吐くと、ある場所へ向かった。そこはシヅキの部屋の前だった。
(いやそもそもあの
そんな疑問がふと頭をよぎったが、桔花は考えないことにした。
とりあえず心を落ち着かせようと深呼吸する。まだ足りない気がして、もう一度深く息を吸って吐く。それでもまだ足りない気がして、さらに二、三度吸って吐いてを繰り返した。
そしてようやく襖に手をかける。
「失礼します」と襖を開けると、脇息にもたれかかって本を読むシヅキがいた。
シヅキは桔花に気づくと、すぐに本を読む手を止め、顔を上げる。桔梗色の瞳は桔花を映してはいるが、見る価値なしとでも言いたげな冷たい色をしており、桔花は自分が
「あ、あの……火打石がどこにあるか知りませんか……?」
桔花は声が震えて途切れそうになりながらも、なんとか言葉を紡いだ。昨日テンコにああ言われたとはいえ、あの凍てつくような冷たいまなざしで見つめられると怖いのだ。
シヅキが本を置いて立ち上がり、こちらに近づいてきた。
「私も一緒に探そう」
(あんたも知らないのかよ)
桔花はつい心の声が漏れそうになったが、ちゃんと心の中だけに留めておいた。
シヅキと共に炊事場をあちこち探しても、やはり火打石は見つからなかった。
そうこうしているうちに桔花の腹の虫の大合唱が再び始まる。
(さっきまではおとなしくしてたのに……)
その間抜けな音は、シヅキの耳にも届いたようである。シヅキがこちらを向いたが、桔花はあたかも自分の音ではないとでも言うように、平然として火打石探しを再開する。こういうときは無駄に恥ずかしがると、余計恥ずかしくなるのだ。それにいくらシヅキでも、気を使って気づかないふりくらいはしてくれよう。
シヅキはかまどの方に歩いていった。かまどの中には、桔花があらかじめ入れておいた薪がある。
シヅキは指先を薪に近づけた。すると指先からぼうっと青い炎が出てきて、いとも簡単に薪に火がついた。
「火ならあるぞ」
「それをもっと早く言って!」
桔花はつい心の声が漏れてしまった。だが桔花はそんなことに構う間もなく、今までの努力はなんだったのかと心の声を垂れ流しながら憤慨する。
そんな桔花の様子を見て、シヅキはふっと
(あ……)
この
テンコの言葉がよみがえる。
「シヅキさまは桔花さまが来て大変喜んでおられます」
そうテンコは言っていた。
初めてシヅキの心の内が垣間見えた気がした。
その後、なぜかシヅキと朝餉を食べることになり、桔花は二人分の食事を作る羽目になった。
居間で向かい合って食事をしている間、桔花はまたシヅキからの質問攻めに遭った。「人の国ではどんな生活をしていた?」とか、「好きなものは何か?」など、どれも桔花に関する質問で、この方は本当にただ不器用なだけなのだなと思った。
不器用なりに桔花に歩み寄ろうと努力してくれている。
その事実が、桔花にはなんだか
終わった食器を下げに
「庭の花の水やりありがとうございました」
テンコの四つの尾が、してやったりとでも言うようにゆらゆらと揺れている。
(こりゃ一杯食わされたな)
桔花はやれやれと頭を掻いた。不思議と悪い気がしないのは、シヅキとの会話で少し胸が弾んでいたからかもしれない。
部屋に戻った桔花は、何とはなしに縁側に出てみた。
季節は冬だというのに、この庭は春のように温かい。陽だまりの中、桔花はしばらくぼうっと庭の景色を眺めていた。
ふと足元に目を落とすと、
(こんな毎日が続くのも悪くはないな)
桔花はもう以前の生活には戻れないだろう。前の生活が恋しくないと言えば噓になる。
それでもシヅキとテンコと愉快な分身達となら、小さな幸せを積み重ねるように、穏やかで楽しい日々を過ごせそうだと思った。
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