二章 花楽師の娘、黒猫を手懐けること
黒姫というあやかし
日が昇ると同時に起床するのは桔花の見習い時代からの習慣である。
朝、小鳥のさえずりと共に目を覚ますと、桔花は大きく伸びをした。ごろりと横に寝返りを打つと、琥珀色の瞳と目が合った。見知らぬ女が横たわっている。
「おはよう。可愛らしい寝顔で――」
女が言い終わる前に、桔花の悲鳴が建物内に響き渡った。
桔花の悲鳴を聞いたシヅキとテンコと四人の分身が部屋に駆けつけた頃には、桔花の寝所にもぐりこんだ狼藉者は枕で成敗された後だった。
半狂乱でなおも狼藉者を枕で殴りつける桔花を見て、さすがにまずいとテンコが止めに入る。
「いけません桔花さま」
「この人が!私の布団に!ずっと寝顔を見てて!」
「落ち着いてください。もう大丈夫ですから。ああ、そんなに叩いたら枕の中身が出てしまいます」
「いやあ!変態!」
テンコが止めに入っても一向に落ち着く気配がないので、シヅキは桔花が枕を振りかざすところを狙い、ひょいっと枕を奪う。
シヅキは床にうずくまっている狼藉者を見てため息をついた。
「勝手に人の布団に潜りこむのはやめてくれとあれほど言っていただろう。
○○○
狼藉者の名は黒姫といった。その正体は猫のあやかしで、数多の眷属を従え、この黒尾の地を取り仕切っているそうだ。
着の身着のままこの地へ来た桔花は色々と入用のものがあるが、
そば殻枕での打撃は相当痛かっただろうに、黒姫はすでにぴんぴんしていた。体のつくりからして人間と違うのだろう。
「わらわを枕で殴りつけるとは、なんという狼藉者じゃ」
「いや、狼藉者はあなたですよね?」
清々しい朝の目覚めを邪魔され、先程まで枕を振るっていた桔花は、まだその時の憤りが残っていた。つい刺々しい物言いになってしまう。
「だがシヅキはいつもあんなことしないだろう?」
「いつもあんなことしてるんですか?」
黒姫は口を尖らせながら、すがるようにシヅキを見る。
「あれが普通の反応だ。何度も言っているが、いい加減やめてほしい」
冷ややかに黒姫を突き放すシヅキを見て、桔花は「ほらやっぱり!」とさらに黒姫を煽る。
それに苛立ちを覚えたのか、黒姫は憤慨した。
「おい、うるさいぞ!せっかくわらわがそなたの着物をあつらえてやろうというに!気が変わった!もうそなたを食ろうてやるわ!」
黒姫が牙をむき出せば、肉食獣のような鋭くおどろおどろしい歯が並んでいるのが見える。それを見てもなお、桔花は毅然とした態度を貫いた。怒りの中に僅かな恐怖が芽生え、調子に乗り過ぎたと毛ほどの反省はしたものの、黒姫に飛び掛かられたら渾身の力を込めた拳をお見舞いするつもりでいた。
しばしの間、睨み合うだけの膠着状態が続いたが、それを破るかのように黒姫の頭にぽすんと盆が乗せられた。
「もうその辺で」
盆には湯呑みが六つ乗っている。ふと見上げれば、テンコが分身三体を引き連れて立っていた。
分身は桔花達に茶を配っていく。こんな時でも分身は茶番を忘れない。一人は気だるそうに茶を飲みながら桔花に茶を渡し、残りの二人は、
「黒姫さま怒りすぎですよー」
「ご自慢の美貌が台無しですよー」
などと言いながらシヅキと黒姫にそれぞれ茶を渡す。
「うむ。やはりテンコは茶を入れるのがうまいなあ。わらわは美しくて茶を入れるのがうまい者も好きじゃ」
「お褒めの言葉、痛み入ります」
黒姫はテンコにがばりと抱き着き、頬を擦りつける。分身が目の前にいるのにわざわざ本物のテンコに行くところが、なんとも言い難い。
テンコのおかげですっかり機嫌を直した黒姫は、目が眩むほど煌びやかで見事な反物を桔花の目の前に並べた。
「この中からいくらでも好きなものを選ぶがよい」
そう言って黒姫は
(ずいぶん太っ腹なお猫様だこと)
目の前に並べられた反物はどれも上等で一介の花楽師である桔花では到底手に入れることのできない代物だとわかる。
布を選び終わると、今度は採寸が始まった。
「背丈は五尺四寸……いや五尺四寸四分ってところか」
「よくわかりましたね」
普通なら
「胴回りは二尺一寸」
「いやなんでそこまでわかるんですか!私ですら正確にはわからないのに!」
時に桔花の周りをぐるりと回り、時にあちこちを触ったり抱き着いたりしては、寸法を紙に書きつけていく。
採寸が終わると、一週間後に店まで取りに来いと言って黒姫は帰っていった。満面の笑みを浮かべ、来たときより
もうお嫁に行けないと打ちひしがれる桔花の背中を、テンコが優しくさすってくれる。
(やっぱりあの程度の枕攻撃じゃ生ぬるかったかもしれない)
今度会ったらそば殻枕で殴ってやろうと桔花はひそかに誓うのだった。
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