隠世の神社(一)

 目を覚ませば、ほのかに香の漂う明るい部屋の中にいた。


 すぐ横には牢で会った男ががいた。読みかけの本を膝に乗せ、床に坐したまま眠っている。


 牢の中で見た男は、見つめられれば身が凍ってしまうほどの畏ろしさを感じた。しかし今はどうだろう。こくりこくりと船を漕ぎながら無防備に眠る姿は畏ろしさを微塵も感じないどころかむしろ愛らしいほどで、思わず笑みがこぼれてしまう。


 どんな人間も眠っているときは幼子のようだと言うが、なかなか的を射ていると桔花は思った。いや、正確には人間ではないのだが。


 桔花が頬をつんつんしたい衝動に駆られていると、突然後ろから声を掛けられ、桔花は思わず飛びのいた。


 振り向けば、二つの湯飲みを乗せた盆を持った幼い少女が立っている。


 年の頃は十ばかりであろうか。白い髪を肩のあたりで切りそろえている。白髪といえば老人を連想するが、今目の前にいる少女の髪は老人のそれではなく、つやつやと輝いていて、まさに絹糸のようであった。


 これだけなら何も珍しいことはない。花楽座には精霊の落ち子などごまんといたし、白髪の楽師は桔花の知る限り五人いる。何十年も前に現役を退いた座長を含めると六人になるが。


 しかし驚くべきは獣の耳と尻尾が生えていたことだ。しかもしっぽに至っては四つもある。


 しばらく逡巡した後、我に返った桔花は床を突き破るほどの勢いで、こうべを垂れた。ごつんと大きな音が部屋に響く。額がひりひりと痛んだが、そんなことを気に留めている余裕などなかった。


 古来より、白い獣は神の使いとされる。今は人に近い姿を取っているが、白くて四尾の獣と言ったら、その存在が何であるのかは明確だった。


 修業を積んで神通力を会得し、千年という長い年月を生きた狐を天狐という。狐の妖は力が強いほど尾の数が多いと言われているが、妖狐の最上位といわれ、神使を務めることもある天狐の尾の数は四つだ。可愛らしい見た目をしているからと侮ってはいけない。今、目の前にいるこの少女は、神に準ずる存在と言っても過言ではないのだ。


 そんな高尚な存在がここにいるということから、おのずと男の正体も見えてくる。


 あの牢屋で桔花を助けてくれたのは神様だったのだ。


 人ではないとわかっていたが、はもっとあやかしや物の怪といったもののたぐいに近いような感じがした。だとすれば、神として祀り上げられた力のあるあやかしか、荒魂あらみたまを鎮めようと祀られた禍神まがつかみや怨霊の類か。


(どちらにせよ、なんてもんにすがってしまたんだ私は……)


 今更ながら後悔する。


 桔花は額を床に擦りつけながら、神使の様子を窺っていた。


「お薬でございます。苦くはないのでご安心を」


 その言葉に顔を上げれば、神使の少女が盆に乗っていた二つの湯吞みのうち一つを差し出していた。

 

 いぶかしみながらも礼を言い、湯呑みを受け取る。湯呑みを揺らして中身を確認してから舌先をつけてみたが、よく飲む風邪薬と同じ味がした。なお、湯呑みを揺らしても中身がわかるわけではないのでこの行為は何の意味も持たない。


 思い切って薬を飲み干せば、今度はもう一つの湯呑みを渡された。こちらの中身は水だった。口直しのために用意してくれたのだろう。


「ありがたく存じます。神使様」


「いえ、これくらい当然のことでございます。それからわたくしのことはとでもお呼びくださいませ。シヅキさまもそう呼ばれております」


(シヅキという名なのか。あの神様は)


 桔花は初めて自分を助けてくれた男の名を知った。それにしても天狐のテンコとは安直な名付けだなあと思う。シヅキが付けた名前だろうか。


 桔花はかしこまってテンコ様と言い直した後、自分の名を名乗った。本来ならば桔花の方から名乗るべきだったのに、礼を欠いていた。


 するとテンコはかすかに口の端を上げた。微笑を浮かべたという風に取れなくもないが、目が全く笑っていないのでただ口角を上げただけという方が正しい。


(いや、でも愛想笑いの可能性もなくはない……のか?)


 桔花が非常にくだらないことで悶々としているうちに、テンコは盆を持って部屋を出ていこうとしていく。しかし一番肝心なことを聞いていないことに気づいた桔花は、慌ててテンコを呼び止めた。怪訝そうにテンコが戻ってくる。


「ここはシヅキ様のお屋敷であると存じますが、一体何処いずこなのでしょうか?」

あやかしの住まう〈黒尾〉の地にあるシヅキさまのお社でございます」


 途端、血の気がさあっと引いていくのを感じた。同時に、言いようのない寂寥感せきりょうかんに襲われた。


(やっぱりもう花楽座には戻れないよな……)


 不条理に牢に放り込まれ、着の身着のままこの神社までやってきた。人の国に未練がないと言えば嘘になる。花楽座の同僚や座長に別れも告げていない。さぞ心配していることだろう。


 花楽座で過ごした日々が、桔花の脳裏に蘇る。楽しいことだけではなかったが、それでも桔花にとっては捨て去りがたいものだった。


(なんでこんな時に思い出しちゃうかなあ)


 目頭が熱くなった。テンコは湯呑みを下げに部屋を去った後だったが、桔花は上を向いて溢れ出るものを必死に押しとどめる。こみ上げてくる感情を押し戻すようにごくりと唾を飲み込むと、だいぶ心が落ち着いた。


(うん、大丈夫)


 あの時シヅキの手を取ると決めたのは紛れもなく桔花自身だ。めそめそしたところで何になろう。


 すっと襖が開いた。テンコが戻ってきたのである。


 桔花は慌てて目を拭ったが、桔花の長い睫毛はまだ少し湿っている。


 部屋を出ていく時とは違い、ばたばたと足音を立てて部屋に入ってきたテンコは、なぜか二人に増えていた。


「湯浴みの支度が整いましたのでご案内いたします」


 二人のテンコが声をそろえて言った。

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