儀式の後

 祓の儀を無事終えた桔花は、真っ先に自室に戻った。

 障子戸を開けると、甘い匂いを伴った風が、部屋の中を吹き抜ける。


 衣の襟を緩め、白い胸元をさらけ出せば、心地よい風が汗ばんだ肌を撫でた。少々はしたないが、誰も見ていないのでいいだろう。


 桔花は畳の上にごろんと寝そべる。両手を投げ出して大の字になると、なんだか畳と一体化したような気分になった。


 大仕事を終えた桔花の体は、もう起き上がれないほどに疲弊しきっていた。それと同時に、言い表しようのない達成感と高揚感で満たされていた。


 目を閉じれば、壇上から見た景色が瞼の裏に甦る。


 辺り一面を埋め尽くす春の花。満開の桃の花に、きらきらと降り注ぐ雪。そして布由比古の舞の最中、ちらりと見えた観衆の表情。


 あれほど満ち足りた気持ちで舞ったのは初めてだった。


 ふと、以前同輩に聞いたことを思い出す。


 ――布由比古として舞台の上から見た景色はどんな感じ?


 桔花がどんなに努力しても得ることのできなかった布由比古役。それをたった数年の努力で射止め、今なお脚光を浴び続けている彼女への純粋な憧れと、嫉妬が混じった言葉だった。

 

 けれど、彼女はにかっと笑ってこう答えたのだ。「いい眺めだった」と。


「たしかに、いい眺めだったよ」


 桔花は誰に言うともなく呟いた。


  


 霧ノ国で花楽師をしていたときは、常に劣等感が付きまとっていた。結年祭で精霊の落ち子ではない同輩に代わって布由比古役を務めるときも、所詮自分は代わりに過ぎないのだという、どこか仄暗ほのぐらい気持ちがあった。


 けれど、今日は違った。誰かに望まれて立つ舞台というのは、なかなかどうして楽しいものだ。


 ――不意に、顔がこそばゆくなった。うっすらと瞼を開けながら顔に手をやると、薄紅色の花びらがある。


(風で入って来たのか)


 障子戸の方に目を向けると、この世のものとは思えないほどの美貌を持つ青年の姿があった。その節くれだった手には、大ぶりな花をつけた桃の枝が一房握られている。


「シヅキ様……」


 シヅキはこちらを一瞥した後、すぐに視線を戻した。


「すまない。起こしてしまったか」

「いえ、ただ横になっていただけですので」


 桔花が体を起こすと、薄紅色の花びらがはらりはらりと落ちる。そして何気なく視線を落とし、ぎょっとした。襟元が大きく開き、白い胸元をさらけ出したままになっている。

 桔花は慌てて襟を整え、ちらりとシヅキの方を見遣った。


(油断してた……)


 あんなだらしない姿をよりによってシヅキに見られるとは――。


 いや、しかし音もなく忍び寄ってくるシヅキも悪いだろう。シヅキがもう少し大げさに床を軋ませながら歩いてきてくれれば、桔花だってこんな醜態を晒す羽目にならなかったのだ。

 

 ふと、シヅキの側にある銚子ちょうしが目に入った桔花は、重い衣を引きずりながら縁側へ出ると、シヅキの隣にどかりと腰を下ろした。


「昼酒ですか? お酌なら私がしますよ」


 言うや否や、桔花は盃になみなみと酒をぐ。そうして淵のギリギリまで酒が入った盃を差し出し、にっこりと笑う。

 シヅキは一瞬眉をひそめただけで、存外おとなしく盃を受け取ってくれた。


 シヅキが酒を飲みほしたのを見届けるやいなや、桔花は間髪入れずにまた酒を注ぐ。


(そうだ、そのまま酔い潰れてさっきのことも忘れてしまえ)


 桔花はやけになっていた。シヅキの盃が空くたび、有無を言わさずどんどん酒をいでいく。


 銚子ちょうしの中身が半分くらいまでなくなったところで、シヅキに盃の口をさっと手で覆われた。


(もう終わりか)


 チッ、と心の中で舌打ちする。

 桔花としては、へべれけになるまで飲んでもらいたかったのだが、仕方ない。


 桔花が諦めて銚子ちょうしを下げようとすると、シヅキにずいっと盃を差し出された。


「やはり飲み足りないんですね!」


 にまぁっと口角が上がりそうになるのをなんとか堪え、シヅキの盃にまたなみなみと酒を注ぐ。


 しかし、どういうわけかシヅキはなかなか盃に口をつけない。怪訝に思っていると、シヅキはあろうことか桔花にその盃を差し出してきた。


「君も飲め」

「えっ……」


 桔花は盃を持ったまま固まってしまった。


(これってシヅキ様が使ってた盃じゃ……)


 桔花の心中を察してか、シヅキは盃を引っ込めた。そして、どこからか別の盃を取り出し、桔花に差し出す。


「あ、ありがとうございます」


 桔花が盃を受け取ると、今度はシヅキが酌をしてくれた。

 神が手ずから酌をしてくれるとは、なんとも恐れ多い。

 

「で、では…… 乾杯」


 そう言って、桔花は盃を控えめに掲げる。シヅキも桔花に倣って「乾杯」と言い、盃を掲げる。


「ありがたくいただきます」


 桔花はグイっと盃を飲み干した。盃が空くと、シヅキがまた酌をしてくれる。そうして何度か酒を酌み交わした。お互い目を合わせるでもなく、何かを言うでもなく、相手の盃が空になれば、ただ酒をぐ。そんな時間がしばらく続いた。


「もう一度、あの舞を見せてくれないか?」


 気が付くと、冷え冷えとした桔梗色の瞳が、こちらをじっと見ていた。


(またこのひとは平気でこういうことを!)


 疲れているこっちの身にもなってくれと内心毒づく。それでも、不思議と悪い気がしないのはなぜだろうか。


 桔花は衣を重くて暑苦しい数枚脱いだ。すると、下に着ていた桔梗色の衣があらわになり、先程までの倦怠感もだいぶましになる。


 そうして庭に降りると、片足を縁側に乗せ、シヅキに顔を近づけた。

 シヅキは相変わらず素っ気ない顔をしていたが、少し身じいだのが桔花にも分かった。


「では、今度はシヅキ様の瞳と同じ色の花を咲かせてみせましょうか」


 我ながらくさい台詞だなあとは思う。


 これは、ちょっとした意趣返しのつもりだった。それでも、柄にもなくこんな都の軟派な男みたいな台詞を吐いてしまったのは、きっと酒で気が大きくなっているせいだ。


 お互い、ほんのり顔が赤らんでいるのも、きっと酒のせいだろう。



 常春の庭に歌声が響く。風と共に桔梗色の衣がはためく。


 その日、黒尾の神社の一角で、見事な桔梗の花が人知れず祭神に捧げられた。

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かくりよ秘抄~花楽師の娘と冷然たる神~ 更木絹 @kinu_24

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