朧車
暖かな日差しの中、花の香りを纏いながら桔花は舞の練習をしていた。
シヅキの神社に来て一週間。もう花楽師として舞台に立つことはないだろうが、舞の練習をさぼっていては体がなまってしまう。そのため桔花は毎日庭掃除のついでに舞を練習することにした。
手には一本の箒、それを剣に見立てて力強く舞う。
桔花の目の前には、鬼の面をつけて剣を構える、そこにはいないはずの花楽師の姿があった。目の前の花楽師に向かって箒を振り下ろせば、目の前の花楽師は剣で箒を受け止める。
そうして桔花たちは剣を交えて舞っていた。桔花がいるのは花楽の舞台で、目に映るのは紅の君役の花楽師のみだった。だから桔花は、真に自分がいるのは庭で、近くには池があることを忘れていた。
気づいた時にはもう遅い。一歩踏み出した足元には地面がなく、体勢を崩した桔花は大きな水しぶきを上げて池の中に落ちてしまう。
水の中でしばしもがいた後、桔花は水面に顔を出した。池は桔花の胸のあたりまで浸かるほどの深さである。さして深くはなかったので助かったが、少しばかり水を飲んでしまった。
(次からは気をつけないと……)
池の縁まで歩いていくと、誰かの手が差し伸べられた。ふと見上げると、いつものように冷ややかな目をしたシヅキの顔がある。
「み、見てたんですか」
シヅキに引き上げてもらいながら桔花は言った。なんとなくきまりが悪かったので、目を合わせぬように視線を逸らす。
「見事な舞だと眺めていたら、君が自ら池に飛び込んでいくのが見えた」
「そうですか……」
やはり見られていたと知って恥ずかしくなり、桔花は顔を覆いたくなった。穴があったら入りたい。
***
風呂に入って新しい衣に着替えた桔花は、湯冷ましに縁側で風にあたっていた。まだ濡れた髪を拭いていると、シヅキがやって来て桔花の隣に腰を下ろした。
「す、すみません。シヅキ様より先にお風呂をいただいてしまって」
「気にしなくていい」
「そうですか……」
シヅキは口数が多い方ではなく、桔花は桔花でシヅキを前にすると緊張してしまうので、なんとなくぎこちないやり取りになってしまう。
「さっきの舞が花楽とやらか?」
「はい」
「箒を振り回して水に飛び込むのも芸の一環か?」
(馬鹿にしてる?)
思わずシヅキを見たが、相変わらず冷ややかな目をしており、表情を読むことができない。
「あれは剣舞をしていたんです。箒は剣の代わりで、水に飛び込んだのはただの前方不注意です……」
「そうか」
「はい」
二人の間に沈黙が流れる。気まずさに耐えかねてか、再び口を開いたのはシヅキの方だった。
「そういえば私が牢に行った時、突然指笛を吹いたのは何だったのだ?」
(忘れてなかったか)
桔花は心の中で舌打ちをした。今までこの話題に触れられなかったのでてっきり忘れているものかと思っていたが、そうではなかったらしい。
しかしここで素直に話すわけにもいくまい。シヅキの着物を奪って逃げようとしていたなどと誰が言えよう。
桔花は何か丁度良い言い訳はないかと逡巡する。
――指笛の練習をしていた?
いや、誰が牢に入れられてそんな阿呆な真似をするというのか。
――ならば仲間を呼ぼうとしたというのは?
さすがにそれは嘘だとわかるだろう。
考えても考えても何も思いつかず、やけくそになった桔花はあの時のことを洗いざらい正直に話すことにした。
シヅキを気絶させ、縛って身ぐるみ奪ってとんずらしようとしていたこと。霊力を込めて笛を吹けば相手を気絶させるくらいはできるのだが、おかしな目隠しのせいで霊力を封じられてできなかったこと。
「ということは君は今も霊力が封じられたままなのか?」
「そうみたいです」
「体に異常は?」
「今のところは何も」
なんだかシヅキの反応が思ったものと違う。
「なぜ今まで何も言わなかった?」
「……聞かれなかったからです」
シヅキはいきなり立ち上がると、桔花の腕を取った。
「黒姫のところへ行くぞ」
「今からですか?」
「どちらにしろ今日着物を取りに行く予定だった。それに明るい時間の方が
シヅキは今すぐにでも出かけるほどの勢いだ。桔花は突然腕を引っ張られて混乱しながらもついていく。
しかし半ば強引に桔花の腕を引いて歩くシヅキの前に、どこからともなく現れたテンコがシヅキの行く手を阻んだ。
「少し落ち着かれませ。桔花さまにもご支度がありますゆえ」
テンコの口調は丁寧ではあるが、有無を言わさぬ物言いだった。
テンコのおかげで、シヅキも落ち着きを取り戻したようである。髪をくしゃりと掻き、「すまない、気が
「では桔花さま、お部屋で支度をいたしましょう」
テンコは桔花を部屋まで連れていくと火鉢を焚き、まだわずかに湿っている髪を乾かした。髪が乾くと今度は丁寧に髪を梳く。
「テンコ様、これくらい自分でできますので」
「黒姫さまは美しい者を好みますので、めかしこんでいった方がお願いも聞き入れてくださりやすいかと」
そう言いながらテンコは桔花の髪を結い上げる。自分より小さい子に髪を結ってもらうなんて変な気分だ。いや、実際にはテンコの方が気の遠くなるほど長い年月を生きているのだが。
それから軽く
髪には薄紅の珠簪が刺さっており、連なった赤い房飾りが揺れている。元から吊り上がった眦が紅を差したことにより強調されて、さらにきつい印象になっていた。
(なんか平伏す民を踏みつけるどこかのお嬢様みたいだな)
支度が整うと、桔花達は玄関へ向かった。外ではシヅキが
「これは?」
「
朧車とは、前に顔の付いた牛車の妖怪である。なんでも、車争いに負けた貴族の怨念が取り憑いているとかいないとか。
だが桔花の目の前にある車はそんなおどろおどろしいものではなく、ただの
「あれは四百年前のことでございます。足が欲しいと黒姫さまがおっしゃったところ、ちょうど一台の朧車が通りかかったのです」
テンコは唐突に昔語りを始める。
「黒姫さまは僥倖だとばかりに朧車に襲いかかりました。そして朧車は殺されました。すると、朧車はただの網代車に戻ってしまったのです」
その網代車がこちらです、とテンコはシヅキの乗った網代車を指さす。
「動かぬのならいらぬ、と黒姫さまから譲られました。動かす際には結構な神通力を要しますし場所も取るので正直無用の長物でしたが、一応取っておいてようございました」
テンコの話を聞いて、桔花は車に乗る気が失せてしまった。そんないわくつきのもの、乗りたいと言うのはよほどの数寄者しかいないだろう。だが、今更乗りたくないなどとは言えない。
「それでは、いってらっしゃいませ」
テンコは車の外から恭しく頭を下げる。
走り出した網代車は、揺れも少なく、乗り心地が良いか悪いかと聞かれれば、桔花は良いと答えるだろう。ただ、なんとなく寒気がするのは気のせいだろうか。
(これが死んだ妖怪の乗り心地か……)
そう考えると、なんだか車の中が独特な腐臭で満たされているような気がしてくる。
ほとんど揺れていないはずなのに、桔花は黒姫の店までの道すがら、胃の腑の中にあるものが逆流してくるのを必死で耐えていた。
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