【前編】これはNTRですか?

 全て、憶えている。

 お前と出会った時のことも、

 お前と手を繋いだ時のことも、

 お前と夢を語り合った時のことも、


 全部、全部、全部。


 思い出せと言われたら着ていた服の色だって答えられる。

 数えろと言われたら落ちていた砂粒の数まで間違えることはない。


 だから、ボクはお前を忘れない。


 でも


 お前は


 ボクのこと、早く忘れて下さいね。


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 Gate5

 これはNTRですか?

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 ウィルバー・ウェイトリーとその妹はサンダルシアを満たす闇の中へと消えた。

 この高さだ。たとえ並みの錬金術師であっても助からない。

 ましてや彼らは錬金術師ですらなかった。


「自死――か。出来損ないらしくつまらない最期だったな」


 先生は気に召さなかった本を閉じるように窓から視線を外す。


「アーミテイジ先生、彼の死体はこちらで回収しますよ。貴重なサンプルになりますから」

「ああ、是非そうしてくれ。せめてその死を無駄にしないことがあの子たちにしてやれる唯一の手向けだからね」


 アーミテイジはそう言うと、死霊秘法書ネクロノミコンを先生に手渡した。


「これは少年に預けておくよ。これからの実験に必要だろう?」

「感謝します。それと、少年はやめて下さい。……生徒が見ていますから」

「それは済まなかったね。そら、さっさと行った。私はそんなに暇じゃないんだよ」


 先生はアーミテイジに軽く会釈し、研究室から退出する。

 ボクとユーゴーはその後を黙ってついていった。

 ボクも黙っているが、彼は明らかに動揺で言葉を失っている。


「どうしたんです? 顔が青いですよ」

「……なんだと?」

「ウィルバー・ウェイトリーが死んで怖気付きましたか? 学園の規定に死罪は存在しませんものね」

「貴様……我ら聖徒会を謀った不届き者の分際で大きな口を叩くなよ」


「やめろ。研究室の仲間同士で見苦しいぞ」


 先生の叱責にユーゴーは歯を噛んで黙り込む。


「……イカレた魔女め」


 そんな戯言が耳に触れた。


「アキ、これから用事はあるか?」

「いえ、特にありませんが」

「なら、この後少し付き合ってくれ。幾つか渡しておきたい物がある」

「分かりました」


 エレベーターはボクたちが乗ってきた階層を通り過ぎて下降し、図書館の裏と思われる場所へ出口を開けた。


「職員専用の出勤通路だ。後で鍵を渡そう。今後は度々利用することになるからな」


 外はいつの間にか轟々と雨が降っており、足元は水浸しになっている。

 先生は宙に向かって指を鳴らすと、まるで透明の傘でも開いたように雨粒を頭上に留めて雨中へと歩み出た。


「入るといい。大きさは充分ある」


 そのまま大通りへと続く道を行くと、ボクたちは先程ウィルバーとハロウィが落ちたと思われる場所に着く。

 そこには彼等の死体はおろか、血の一滴さえ残ってはいなかった。


「これは……フッ、発つ鳥後を濁さずというやつか」


 先生はその痕跡を興味深げに観察する。


「ユーゴー、彼らを捜索してくれ。

「かしこまりました。必ずや御期待に応えてみせます」


 現場をユーゴーに任せて歩いていく先生の後をついて行くと、不意に彼は此方を振り返った。


「彼のことを気に病む必要は無い。アキ、君は正しい判断をしたよ」

「ボクはあんな愚か者とは違いますから」


 そんなことよりもボクが気になっていたのは、先生がアーミテイジから預かった死霊秘法書ネクロノミコンだ。


「先生、先程お話されていた実験というのはボクも参加させていただけるものなんですか?」

「フッ、アキも中々酔狂だな。死霊秘法書ネクロノミコンがどういう物か、知らないわけではないだろう」

「禁忌なんて真理に近付くことを恐れたイカロス症候群患者の妄言に過ぎませんよ。平穏に生きたいだけなら家ででも吹いています」

「ああ、そうだな。錬金術師とはそういうものだ。果てることより、何も果たせぬまま生きながらえることを恐れるのが我々だ」


 横に並んで歩く先生は歯を剥いて笑みを浮かべている。

 こんな顔をする先生なんて想像したことも無かった。


「アキが望むなら今回の実験に参加することを許可しよう。正式な拝命を待つ必要は無い」

「ありがとうございます」


 それ以上は無駄口を叩かずに先を進む。

 ボクはもう一歩たりとも立ち止まるわけにはいかなかった。


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 Gate:Emethゲートエメス

 -IMMORT ALCHEMISTイモウト・アルケミスト-

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 月の無い夜だった。


 空は分厚い雲に覆われ、痛む体を鋭い雨がばつばつと叩いてくる。

 これならば犬もはしゃぐまい。逃げるのにだってうってつけだろう。


 それでも、俺は今日より嫌な夜を過ごしたことは無かった。


 図書館の最上階から飛び降りた時は死ぬことだって覚悟していたと思う。

 正直の所、思考はとうに麻痺してしまってそれどころではなかったのだが。

 気が付いた時には大量の水が俺たちを包み、致命傷から救ってくれたのだ。


 俺たちは、アキに命を救われた。


 あいつがどういうつもりだったのかは知らないし、この失敗を逆恨みしたりもしない。

 全ては俺が師匠の期待に応えられなかったことで招いた報いだ。


 宛ての無い道を進み、俺たちはいつの間にかトリスメギストス寮へと辿り着いていた。

 こんな場所、早く立ち去らなくてはならない。そんなこと分かっている筈なのに、震える体が暖かい場所を求めている。

 俺は寮の側面へ回り込むと、壁をよじ登って勢い任せに窓ガラスを割った。

 この場所の防音が並外れたものであることを感謝しなくては。


 実体化したままのハロウィを背負い、窓から身体を無理矢理に滑り込ませて中に入らなくてはならない。

 折角の静かな部屋に雨音が入ってしまうのは少し残念だった。


 俺はハロウィを床に寝かせると、自分の部屋に置いてあった背嚢から替えの着替えを出して着替える。

 頭は一向に働かず、妙に楽観的でさえあった。

 漸く一心地着いた俺はハロウィの隣に腰を下ろし、深く息を吐く。


「あー……全部、失っちまったなぁ」


 最初に出てきた感想はそれだ。


「……くっ」


 自分で口にして笑ってしまう。

 元々失って困るものなんて持っていなかったくせに。

 自分一人で妹を救う気で、周りのなにもかもを軽視して行動してきた。その最後でどうしようもない程に頼ってしまった。


「師匠は俺のそんな所に失望したのかもなぁ」


 そう呟いた俺の手を、暖かいものが包んだ。


「起きたのか、ハロウィ」

「……よかった。生きてたね、おにい」


 妹は溶けてしまいそうな顔で笑っている。


「ハロウィのお陰だよ。俺のことを守ってくれてありがとな」

「ふふン、あたしはいつだっておにいの味方なのさ。ふへ……」


 ほっぺを指先でつついてやるとハロウィは気持ちよさそうに目を細める。

 まるで旅立つ前に戻ったようだった。


 世界には俺たち二人しか居なくて、いつか自由になろうと誓い合ったあの日に。

 俺は意を決するため、大きく息を吸い込む。


「なぁハロウィ、此処から出ていこう。新しい方法を探しに行くんだ」

「あたしたちが……自由になるための?」

「ああ。死霊秘法書ネクロノミコン以外にもきっとある筈だ。あんなのは師匠が勝手に言い出したことなんだしな。

 そうだ、俺たちは師匠に騙されたんだよ。だったらまた俺たち二人だけで最初からやり直そう」

「ンひ、あたしはおにいと一緒なら何処までだってついて行くよ」


 優しい言葉を返してくれる妹の頭を撫でていると、彼女はまた口を開いた。


「ねえおにい、昔のこと憶えてる?」

「また地下室で話した夢のことか? ちゃんと憶えてるって」

「……ううん、それ以外にも沢山のこと。師匠が家に来てからのこととか、それより前の地下室のこととか、……あと、お母さんのこととか」

「……ああ。ちゃんと憶えてる。いや、思い出したのかな。あの人のことはあんまり考えないようにしてたからさ」

「あたしだってそう。もう思い出したくてもあんまり頭に浮かんでこないや。お母さんの顔よりも暗闇の方が目に馴染んでるから」


 少し、昔の話でもするか。

 この雨が止むまで、ほんの少しの間だけ。


 思い出せる中で一番古い景色は、暗い地下室の中だった。

 俺がハロウィの存在に気付いたのは、母さんの言葉を理解できるようになってきた頃だと思う。

 朝から晩まで薄暗い部屋に居た俺は世界が明るいものだなんて知らなかったし、この場所だけが世界の全てだと思っていた。

 言葉を理解し始めた頃に薄闇の中でハロウィの声を聞いた時は、俺と母さんの他にも何かが居ることに驚いたのを憶えている。


 俺たちの世界が少し広がったのは俺が言葉を話せるようになったころだった。

 初めて地下室から出してもらえた俺は月の光を浴びて浮かび上がる色んな形を見た。

 母さんの顔を知ったのも、きっとその時が初めてだ。

 初めて目にした世界で行ったのが一体何だったのか、俺は今でも理解していない。

 俺の前には燃え盛る炎があって、母さんは身体を大きく動かしながら叫んでいた。

 今になって思えば、泣いていたようにも思う。


 俺たちが外へ出られるのはその何かを行う日だけだった。

 何も無い日は地下室の中で、俺はハロウィと話をする。

 月の夜に見た光景をできるだけ頭のすみずみまで刷り込ませ、それだけを話の種に擦り切れるまで語り合った。

 次第に俺には暗闇の中でもはっきりとハロウィの姿が見えるようになっていった。

 俺と同じで深紅の目をした真っ白な女の子。

 真っ赤な目は母さんから譲り受けたものだ。


 そんな毎日は本当に長い間続いたけれど、俺には不満なんて無かった。

 その時俺が感じていたものだけが俺にとっての全てで、羨むべき物なんて何一つ存在しなかったから。


 だけど、何にだって終わりはやってくる。

 俺にとって人生で初めて経験した終わりは、母さんと最後に話した夜だった。

 母さんの声はもう憶えていない。

 何を言っていたのか、その内容だけが今も強く強く胸の中に刻まれている。


 扉を開けて、この世界の外に出ること。そして、全てを自由にすること。


 そして、その時初めて知ったのだ。俺たちが自由ではなかったのだということを。

 自由という言葉の意味は知らなかった。だが、それを持たないことがどれだけ辛く悲しいことなのかだけはその時に理解した。

 母さんが泣いていたからだ。今までに見たどんな月明かりの下よりも、苦しそうに泣いていた。


 そして、母さんは地下室の外へ出ていったきり二度と帰ってこなかった。


 俺たちは生まれて初めて、母さんの命令以外で地下室の外に出た。

 そこは俺の知っている世界ではなくて、妙に真っ白かった。それが朝であることを知ったのはずっと後だ。

 俺たちは恐ろしくなって、すぐに地下室へと逃げ戻った。


 それから数日のことだ。母さんがもう帰ってこないことに気付いたのは。

 ああ、そうだ。どうして忘れていたんだろう。俺たちはそうやって約束したんだ。


 俺たちは自分自身の足で――もっともっと広い世界へ出ていこう。

 この世界の外へ出るために。

 そして自由になるために。


 そうすれば、


 そうすればきっと、


 母さんが戻ってきてくれると信じていたから。

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