【前編】アキ・ホーエンハイムを救いたい

 心が静かになると、忘れたいことを思い出す。

 自分には居場所なんて無かったのだということを。

 錯覚してしまった。自分は優れた人間で、誰かに居場所を作ってあげられるぐらい存在だと。


 だって、お前がその気にさせてくれるから。


 お前がボクの部屋に入り込んでくると、なんだかボク自身がその分広くなったような気がして。

 ――とても、満たされた数日でした。


 お前はもう、次の居場所に向かって歩き出せていますか?


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 Gate7

 アキ・ホーエンハイムを救いたい                                                                 

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 先生が案内してくれたのは、エルナショナル大橋だった。

 先導してくれるのが当時の大英雄であることに感慨深さを感じながらも、ボクは違和感から来る不安を抑えられない。


「夜のサンダルシアはシティと違って明かりが少ない。足元には気を付けろ」


 先生は止まったエスカレーターを降りながら優しく声をかけてくれる。


「あの……橋に何かあるんですか?」

「ああ、アキにはまだ話していなかったな。私の研究室は橋の下にあるんだよ」

「橋の下……地下ですか?」

「そうだ。私は地面の下が好きでな。墓のように――鬱屈として薄暗い空間を好む」


 その言葉にボクは一瞬の寒気を覚える。

 橋を渡った先に、戦時下の集団墓地があることを思い出したからだ。

 橋の前まで来ると、先生はフェリー乗り場へと降りる通路を使って橋の下へと入っていく。

 そこには確かに、地下へと降りるためのエレベーターが設置されていた。

 船着場からは橋を支える柱に重なって隠れているし、意識しなければ発見することは困難だろう。


 ボクたち二人を乗せたエレベーターはゆっくりと地上を離れていく。

 時間にして三十秒程だろうか。

 かなり深い場所で箱は停止し、扉の先から青白い光が入り込んできた。


 出た先はホールになっていて、目の前の壁はガラス張りになって内部の実験室が見えるようになっている。

 中央の実験室を手前のホールと側面の連部屋で囲った建築様式はリバヴィウス式と呼ばれ、裕福な錬金術師が一つの理想形として好んで立てるものである。

 先生はカードキーをエレベーター横にあった壁掛け式のカード入れに滑り込ませると、そこから新品と思われるカードを取り出して手渡してくれた。


「アキのカードキーだ。出席した際にはそこのカードリーダーに通してからカードホルダーに入れて表札代わりにしている。今回はまだ登録が済んでいないからやる必要は無いが、次回のために憶えておいてくれ」

「は、はい!」


 馴染みのないルールに新たな世界を感じ、思わず緊張で声が上擦ってしまう。

 先生はそのまま連部屋を奥へと進み、突き当りにあった部屋のドアを開けた。

 彼に続いて中を覗き込むと、そこは先生の書斎だった。


「此処は私の住処にもなっていてな。多少のもてなしぐらいはできる。夕飯はもう済ませたか?」

「へ? いえ、まだです……」

「そうか。そこに掛けて少し待っていろ」


 ボクをソファへと座らせて、先生は部屋の外へと出ていった。

 書斎の手前にあった部屋は調剤室になっているらしく、冷蔵庫を開ける音と食器の動く音が聞こえてくる。

 先生の書斎は螺旋階段が設置されて階層状の吹き抜けが設置された一個の塔になっており、壁面には大量の本が棚に収まって綺麗に収められた個人所有の図書塔である。

 暫くすると、先生は良い匂いのする皿を右手に持って戻って来た。

 左手には琥珀色の液体が入った小さな瓶を細く綺麗な指で挟んでいる。

 その女性のような手の爪が薄い紅色のネイルで塗られていることに気付き、ボクの心拍数が上がった。


「おひょっ……先生、ネイル塗られてるんですか……!」

「ん? ああ、昔から手は綺麗にするようにと躾けられてな。軽くではあるが、化粧も毎朝行っている」


 そう答える先生の顔は間近で見ても息を飲む程に超美しく、肌のきめ細かさときたらそこらの人類とはもう画素数が違う。

 JPEGとPNGぐらい違うということはハッキリ言って否めないだろう。


 そして、いつの間にかかけていた眼鏡が更にボクの心臓へと掴みかかってくる。


「ヒンッ……!」


 眼鏡の奥に覗く切れ長の目は作り物かと思う程長い睫毛が漆黒の瞳を飾り、白い肌によく映えている。


「どうした。私の顔に何か付いているか?」

「いえ! 強いて言うならいい顔面が付いてますけど……何でもないですゥ!」

「そうか……」


 先生は静かに目の前の席へ腰を下ろすと、テーブルに料理と瓶を並べてくれる。


「ダイニングテーブルがあればよかったのだが――生憎形式ばった食事を摂る習慣がなくてな」


 皿の中で湯気を立てているのはペンネとサイコロ状に切った鶏肉をトマトとチーズのソースで絡めてバジルを振ったもので、爽やかな香りと旨そうな脂の匂いが混じり合って食欲をそそる。

 そこに先生は瓶の蓋を開け、中に入っていた琥珀色の液体を垂らした。


「……それ、なんですか?」

「フレンチドレッシングだ。オリーブオイルとビネガーで自作したのを常備している。よかったら使うといい」


 ――先生の自作……ね。使わせてもらおうじゃありませんか。


「お、おいちぃ〜」

「そうか、それは重畳だ。戦場生活が長かったせいでこういう普通の人間らしいことがどうも苦手でな」

「戦争が終わったのはボクが生まれるよりも前だったって聞いてますけど、そんなに時間が経っても戦争の時の習慣って残るものなんですか?」

「当然だよ。私は一日だって当時のことを忘れたことはない。いや、忘れまいとしているといった方が正しいか。

 此処は錬金術の研究に加えて戦時下の資料を収集する機関にもなっていてな。この図書塔にあるのも全て戦争関連の資料だ」


 よく見ると、確かに棚には有名な錬金書の類は一切無く、見た事も無い調査書や手帳に見えるもので埋め尽くされている。

 その事実に気持ちの高ぶったボクは、遠慮を排して想いをぶつけるのを止められなかった。


「先生、ボクも錬金大戦のことが研究したくてこの研究室に来たんです!」

「おや、そうだったのか。ホーエンハイムといえば……アキのお父上も錬金大戦で多くの命を救った名医だったな」

「はい。ボクもパパみたいに人の命を救う立派な錬金医になりたかったんですけど……それはもう諦めちゃいました」

「……理由を聞いても?」

「ボク、死を想起するものを見るのが怖いんです。小さい頃に一度生死の境を彷徨ったことがあって、その時の記憶がずっと頭に焼き付いていて……。先生は、超記憶症候群ハイパーサイメシアってご存知ですか?」


 気分が塞いでいつの間にか下げてしまっていた頭を上げると、

 そこには瞳を真っ赤に染めた先生が目を裂けんばかりに見開いていた。


「――え?」


 そして、先生の綺麗な手がボクの首を掴む。


「いけないなァ。オマエはとってもいけないコだよ」


 口元には笑みが浮かび、焦点の定まらない目は完全に狂気で満ちていた。


「死を忘れるな。散っていった尊い命を忘れるな。彼等の栄光を忘れるな。叡智を忘れるな。作戦を忘れるな。判断を忘れるな。覚悟を忘れるな。武勇を忘れるな。悲運を忘れるな。恐怖を忘れるな。憤怒を忘れるな。歓喜を忘れるな。葛藤を忘れるな。逡巡を忘れるな。後悔を忘れるな。言葉を忘れるな。所属を忘れるな。階級を忘れるな。軍功を忘れるな。罪状を忘れるな。好物を忘れるな。形状を忘れるな。傷跡を忘れるな。臓物を忘れるな。死臭を忘れるな。死因を忘れるな。――彼等を構成する全てを、その全てが失われた死を、決して忘れるな!」


 いつしかその狂気は怒号へと変わり、ボクの首を異常な握力で締め上げていた。


「――死を忘れるなメメント・モリ


 先生の方に背負われていた二つの棺桶が展開し、十枚の盾に似た金属塊で構成された翼と化す。

 ボクがそれを知らないわけがない。

 先生の、アゾット剣だった。


「先生ッ……苦しい……!」

「安心しろ。オマエの死はが決して忘れない」


 その言葉がスイッチとなり、ボクの全身が恐怖で支配される。


「い、嫌だっ……死にたくない!」


 瞬間、ボクの身体から伸びた水の刃が八方を切り裂き、絞められていた首を解き放った。

 先生の破壊された手からは指が落ち、大量の血が噴き出し始める。


「ほう……これがオレの血か。見るのは終戦以来だ。どれ、味も確かめておくか」


 先生は腕を伝う血をべろりと舐め、嬉しそうに笑う。

 その手は既に傷口が塞がり、再生が始まっているようだった。


「医療系錬金術……!? 指を生やせるなんて並のレベルじゃない……!」

「これはカミの持つ力だよ。オマエには理解できないだろうがな」


 会話が成立する。先生は、正気で狂っていた。

 何より、指を落とされているというのに痛がる素振り一つ見せないのが心底恐ろしい。

 生存本能がボクに印を結ばせると、それよりも早く先生の哲学の卵フラスコが周囲を満たし――


 そして、ボクの両腕を巨大な手が鷲掴みにする。


「――ヒッ!?」


 気が付いた時には、ボクたちは荒れ果てた戦場に立っていた。


「ようこそ――オレの世界へ」

「なッ……なんですかこれ……!」

錬風術レンプウジュツの奥義――永遠なる知恵の円形劇場ラボラトリオだ。

 極限まで具体化された錬成圏はやがて昇華され、内部を独自の物理法則で満たした固有の異空間となる」


 見覚えの無い光景自体混乱を生むには充分だったが、更に異様だったのは青空に浮かぶ雲がことだ。

 手を伸ばせば届いてしまいそうな距離。おまけに吹きすさぶ風が身を冷やす程冷たいのも悪い予感に拍車をかける。


「逃げてもいいぞ。出口はちゃんと用意してある。こんな光景、死を拒むオマエには恐怖でしかないだろう?」


 ボクは咄嗟に印を組むと水の印を地面へと炸裂させた。


錬水レンスイ――流転の杯アルカフ!」


 地面から噴出する瀑布を目隠しに、ボクはもう一つの印を結んで発動する。


錬銀レンギン――平和郷へ至る超箱舟アルカディア!」


 足元からボクを乗せて浮かび上がったのは、アゾット銀でできたサーフボード型のアゾット剣だった。

 平和郷へ至る超箱舟アルカディアは船底から大量の水を湧き出させると、それを波へと変えてボクの身体を運んでくれる。

 背後を振り返ると、先生は空をボクの後を追って来ていた。


 今居る場所は先生の錬成圏内――掌の上に居るのと同義だ。

 一刻も早くこの空間から抜け出さなければボクの命は無い。

 だが、ボクの平和郷へ至る超箱舟アルカディアは敵地からの逃走に於いて無類の力を発揮する。

 先程までボクが居た景色は平和郷へ至る超箱舟アルカディアの巻き起こした洪水によって原型を留めておらず、たとえ先生であっても追ってくるのは容易ではない。

 平和郷へ至る超箱舟アルカディアは例えこの世の終わりが来ようとも生き残るための能力なのだ。


 倒れて重なった柱の間を通り抜けた先、遂にボクはこの世界の最果てへと辿り着く。


「やった……!」


 そこは断崖になっていて、どうやら此処から地上へと降りられるらしい。

 少し慎重になってボクは四つん這いで崖の下を覗き込む。


「……え?」


 そこに広がっていたのは真っ暗闇だった。

 空の青は途中で途切れており、そこから下は地面はおろか砂粒一つ無い完全な無が広がっている。


「どうだ。出口はあっただろう? 命ある世界からの出口がな」


 背後から先生の声がボクの背筋を撫でた。

 恐怖で振り返れないボクに対し、先生は優しい言葉をかける。


「早く立ち上がらないと死ぬぞ。この世界はあと数分で完全に崩壊するからな」


 刹那、視界の先で何の前触れもなく崖が崩れていくのをボクは見る。


「この世界はな、巨大な墓穴にかかった最後の蓋なんだよ。オレという人間に残された最後の居場所――此処が崩れ去った時、オレという存在はこの世界から容易く消滅する。その苦しみが、オマエに僅かでも理解できるか?」


 ボクは声一つ返すことができない。頭の中に、存在しない筈の声がこだましてくる。


『死ね……! 死ね……! お前のせいで俺は……!』

「ヒッ……ひいいっ……! やめて……許してお兄ちゃん……!」


 もう呼吸ができない。ボクが首にかけたヘッドホンにそっと手を伸ばしたその時、足元の地面が粉々に砕け散った。


「――あ……」


 身体が浮いた。

 支えるものを失った瞬間もう今まで感じていた自分という存在は希薄になって、既に失われてしまったようにさえ感じる。

 どうして、こうなってしまったんだろう。

 ボクはただ、自分が居てもいい場所が欲しかっただけなのに。

 その結果がコレか――。


 ――こんなことなら、いつまでもあの小さな部屋でお前と過ごしているべきでした。


 最期に思い出すのがあんなやつだなんて、我ながら惨めで笑えてくる。

 たった数日過ごしただけ。それも、自分から差し伸べた手を一方的に振り払って捨てたもの。


「フフッ、ボクって最低ですね……」


 目を閉じた身体が、何かに叩き付けられるのを感じた。

 …………

 ……


「おい、いつまで寝てんだよアキ」

「……へ?」


 聞き馴染みのある声がボクの目を覚まさせる。

 そこには


 ――ボクの身体を支えて宙に舞う、お前の姿がありました。

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