【前編】アキのパーフェクトれんきん教室
時刻は19時。
トリスメギストス寮の一角、元来無人である筈の201号室は鍋から漂う香辛料のスパイシーな香気と炊きあがったバターライスのまろやかな匂いで満たされていた。
大鍋で煮込まれた自家製カレーの具合を見る俺の横では、アキが茹でた小エビとササミチキンのグリーンサラダに粉チーズとオーロラソースを塗してボウルいっぱいに盛り付けている。
背後ではハロウィがせっせと食器を並べており、宴の準備は整いつつあった。
俺はカレーを仕込む片手間で冷やしたサーモンの切り身と食べ頃のアボカドのスライスを交互に盛り付け、マヨネーズと醬油を合えて作ったドレッシングをかけてオードブルを完成させる。
「おわッ……なんですかその超オシャレな食べ物は! かわいい靴下みたいなカラーリングしてやがりますね……!」
「どんな例えだよ。――カルパッチョにしてみたんだ。サーモンを食うならこのやり方が一番好きでさ」
「生で食べるのは初めてです。サーモンってカワイイですよね……」
「カワイイ……? ま、まあそうか」
「茹でたエビとかも超カワイイですよね……ボク、エビ柄のパーカー持ってるんですよ」
アキは赤みがかった海産物が好きなのかもしれない。
機会があればサーモン柄の服でもプレゼントしてやろうと思った。
「さてと……これで全部ですか?」
「後一品だけ残ってるぜ。今日のメインディッシュだ」
コンロの下に備え付けられたオーブンを開けると、内側から肉由来の香ばしさが鼻腔をくすぐる。
中に入っていたのは、握りこぶしサイズの豚バラを巻いて成形した団子だ。
「ほう……この形状、中に何か入ってますね?」
「鋭いな。まあ中身は食べてみてのお楽しみってことで」
最後の一品を目の前にアキはもう気が気でないといった様子で、ふわふわのウルフカットを犬の尻尾になぞらえて振りださんばかりである。
俺はバターライスを盛った皿に角切りのビーフがゴロゴロと入った特製カレーをかけ、アキとハロウィの分を目の前に並べてやった。
「おおおッ……カレーなんて食べるのは半年と七日ぶりですね……! 一人暮らしだと超ハードル高いんですよ……!」
「おにい……! 久し振りのおにいのカレーだぁ! 島を離れて以来もう恋しくて恋しくて……!」
こうも喜んでもらえるとこちらとしても作り甲斐がある。
自分のカレーも手早くよそって席に着くと、三人は揃って冷えた水の入ったグラスを手に持った。
「それではボクとお前たちの同盟結成に期待と祝福を込めて――乾杯!」
アキの音頭に合わせて俺たちはグラスを合わせる。
装備も揃った今、これからはいよいよ同盟としての行動開始だ。
今夜は英気を養うために豪華な宴会を開いていたのであった。
「えへ……! じゃあ最初はサーモンからいただきましょうかね」
アキは手前にあったサーモンとアボカドを一切れずつ皿に乗せると、それらを重ねて口いっぱいに頬張った。
「ん……ん……! んふふふ……!」
どうやらお気に召したようだ。
「生魚ってこんなに美味しいんですね! 触感は慣れませんが、冷たさと脂の美味しさがドレッシングと噛み合っていい感じです! アボカドの仄かな甘みとまったりした口当たりも美しいですよこれは!」
その横ではハロウィがカレーの牛肉を付け合わせの手作りポテトチップに載せて味わい、目を細めている。
「ンやっぱりおにいの料理は世界一だね! このちょっと甘めのルー美味しい!」
「ココナッツミルクを隠し味に使ってるんだ。香辛料と相性がいいからな。バターライスにも細かく砕いたナッツを少し混ぜて風味を合わせてある」
「でっかいお肉がいいね……! おにいすち……!」
「ふふ、俺もだぞ妹よ……!」
俺はというと、アキが作ってくれたエビとチキンのサラダをいただいている。
冷やしてから洗ったレタスが瑞々しく、小さなエビとよくほぐされたチキンの肉々しさが豪華な食べ応えを与えてくれる。
手製のドレッシングも酸味と程よい甘さが具材によく合って非常に美味だった。
「うん、アキが作ったのも美味いぜ。謙遜してたくせに結構上手なんじゃねーか」
「えへ、そうですか? まあボクは何をやらせても天才ですからね!」
鼻高々な仕草もご機嫌な態度で行うものだからすごく可愛らしい。
その嬉し気な顔も、おそらくは目の前にある豚バラボールの存在がもたらしているに違いない。
「うへへ……! お前の正体、ボクが暴いてやりますよ……!」
アキがフォークで固定したボールにナイフを突き立てると、薄く切られたバラ肉はふんわりと切れる。
その内側から飛び出したのは、とろりと垂れ出す黄金の卵黄であった。
「黄身ッ……! しかも半熟……!」
アキはなるべく黄身を溢さないよう苦心して切れ端を口に運ぶと、勢いのままに口へ放り込む。
「……ひっ! これは……この卵、只の半熟卵じゃありませんね……!」
御明察。それはじっくりと漬け込まれた半熟煮卵だ。
それだけではない。バラ肉と卵の間にはマヨネーズをベースにしたソースが塗られており、卵との相性はさることながら照り焼きにされた肉の脂とも十全に噛み合ってコクのある味わいを生み出す。
「もう何が何だかよく分かりませんが超美味い! やはり最高ですよお前の料理は!」
「ふっ……お褒めに
満を持した歓迎会は、この上ない大成功なのであった。
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Gate3.5
アキのパーフェクトれんきん教室
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大いに盛り上がった歓迎会より一夜明け。
俺はスプリンクラーでよく濡らされた芝生の上に立っていた。
広いスペースは四方を高い緑のネットで囲まれており、内側に入ると何だか不思議と緊張する。
此処は初日に橋の先で見た庭園の傍にあるコートだ。
今の時間帯は目の前に立つアキと頭上でちょうちょを追いかけているハロウィ以外には誰も居らず、半ば貸し切り状態だった。
それもその筈。今は朝の6時である。
俺が目を覚ましたのもつい三十分程前のことで、鼻の奥から込み上げてくるじんわりとした眠気を嚙み殺す。
「付け焼刃ですが今日はお前にこのボクが錬金術のレクチャーをしてやりますよ。この世界に首を突っ込む以上、最低限の知識ぐらい備えていないとお話になりませんからね」
今日のアキはへその出たノースリーブの黒いタートルネックインナーにハーフパンツというスポーティな恰好で、露出度の高さに反していつにも増して少年らしさ全開だった。
俺も彼女に合わせてラッシュガード風の運動着に身を包み、今は体操で身体をほぐしている。
「勉強ならそれこそ図書館とかでやるモンじゃないのかよ? 運動は得意だから別にいいけどさ」
「お前ねえ、此処を何処だと思ってるんです。天下のミスカトニック大学ですよ? その栄光ある図書館で初等教育級の勉強なんてしてたら超目立つということはハッキリ言って否めません。高級レストランで駄菓子食うんですかお前は」
「あー……そういうことか。つくづくここに来る前の考えが甘かったって実感させられるな……」
「本当ですよ。ボクに出会えて幸運ですよね、お前。教員でこそないとはいえ、ホーエンハイム家の才女に錬金術を手取り足取り教えてもらえるなんて滅多に無いことなんですから!」
アキは満足気に踏ん反りがえっている。
彼女が上機嫌なのは良いことなので、ここは大人しく教えを乞うことにした。
「で、先ずは何を教えてくれるんだ?」
「そうですね……お前、錬金術の基本概念は理解してますか?」
「基本概念? なんだそりゃ」
「要はどういう原理で錬金術が発動しているのかってことですよ。錬金術は幻想ではなく現象ですから、当然その発生にもきちんとした原理があるんです。水に熱を加えるとそのエネルギーで分子間振動が大きくなって、液体から気体へ変わるって具合に」
「それは盲点だった……錬丹術みたいに気合でどうこうするものだと思ってたぜ」
「錬丹術にもちゃんとした原理があるんですけどね。アーミテイジはどんな教え方してたんですか」
アキの質問に俺は蒙昧な記憶を探り当ててみる。
「……山籠りとか、座禅とか、組手とか」
「どこぞの仙人みたいな生活してたんですねお前。アーミテイジはお前に何をさせるつもりだったんでしょう……その辺りも問い詰めないといけませんね」
それも無事に辿り着ければの話ですが、と彼女は付け足すと、おもむろに両手を上げて胸の前で三角形に似た印を組む。
頂角は上へ。両の人差し指は三角形の内側で互いに重ねられて底辺に平行な層を作る。
「これは風の印です。錬金術の基本は『四大元素』と、その『循環』にあります。まあ、言葉で説明するより実際に目で見た方が分かりやすいですよ。
彼女が聞き覚えのあるフレーズを詠唱すると、その身体を半透明な球体が包み込んだ。
「風の元素が持つ性質は世界からの隔絶とその内部を満たす法則の支配です。今ボクを包んでいる球体は意志の力で外側とは隔絶されていて、外部から流れ込んでくる意志の力――つまりは錬金術を遮断できます。自己境界線やバウンダリーなんて呼ばれたりもしますね。
ですが錬金術に対する防御力はあくまで副次的な効果に過ぎません。その本質は境界の内部に個有の空間を保持できる点にあります」
「個有の空間……文字通りフラスコみたいに周囲の環境に影響されず実験ができるってことか」
俺の応えにアキは満足気な笑みを向けて耳のピアスをちゃらりと触った。
「察しがいいですねお前。じゃあ質問です。歴史上で最も超大規模な錬金術がどんなものか知っていますか?」
「最も大規模な……黄金の錬成とかじゃねえのか?」
「それも確かに錬金術の果てにあるものと数えて差支えはありませんが……記録に残っている限りで最も大規模な錬金術は『
「世界を作った……? それって空も大地も人間もか?」
「そうですよ。お前、前に話したヘルメス・トリスメギストスのことを憶えてますか?」
「あれだろ。エメラルド・タブレットを作ったっていう」
「それです。トリスメギストスこそがこの世界を作った始まりの
「超気になる」
「殊勝ですね。
トリスメギストスはこの世界に流れる基本法則を、ダイモンは錬金術の後継者となる意志を持った人間と亜人を、……そしてイアブリードは大いなる意志の塊であるカミを作ったんです。そこに
アキの話はどれも初めて耳にするものばかりで心惹かれたが、特に興味をくすぐったのは以前も少し耳にしたカミという言葉だった。
「カミっていうのも錬金術が作ったものなのか……? だとしたらどうして錬金術はカミの信仰を禁忌として否定してるんだよ」
「簡単なことです。世界の崩壊を防ぐためですよ」
「カミを信仰すると世界が滅びるってことか……? 大いなる意思の塊って言うけど、カミって一体何なんだよ」
「カミというのは概念のことです。人々が長年に亘って積み重ねてきた共通認識が巨大な意志として一つとなったもの……もう少し分かりやすく言えば、カミというのは世界の法則によって実現していない可能性のことなんです。例えばお前、人間は手から炎を出したりできませんよね?」
「……まあ普通はそうだな」
「それはこの世界の法則が人間の持ちうる機能で炎を出せるようにできていないからです。ですが――見ていてくださいね」
アキは風の印を崩して重ね合わせていた人差し指を頂角に向いた中指へぴったりとくっつけて単純な三角形にすると――
「これが火の印です。
三角形の内側から轟々と燃え盛るバスケットボール程の火の玉を噴き出した。
「火は人間の文明にとってなくてはならないものです。古代、人間は雷による火災から火種を得て生活に利用していたといいます。
火というのは便利な反面手に入れるには苦労が伴うものです。故に願ったことでしょう。『自分たちの身体から自在に火がだせればどんなに便利だろう』と。
彼等の幻想が積み重なり、カミとなった。そして錬金術でその可能性を引き出せるようになったのです」
彼女の手の上で大人しく燃える火球はアキが大きく振った手の動きに合わせて宙を舞い、赤い尾を引いて小さな流星を演じる。
その中心で踊る少女は紅蓮に照らされて目に神秘的な光を宿し――幻想の如く美しかった。
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