第16話  襲撃

エリカの母親が運転する車内には、重苦しい空気が漂っていた。エリカも、エリカの母親もエルヴィーラも、3人とも、車が病院の駐車場を出てしばらくの間、口を開かなかった。

『今夜、ジュリアがまた襲ってくる・・・、しかも、伊織を操り人形として使って・・・』

それを止める術など何一つない自分に、エリカは唇を噛み締めていた。

すると車窓に一粒、また一粒と水滴が垂れ始めた。天気予報は外れたらしく、車窓の外の、道路沿いの道では、傘を持たない仕事帰りの群衆が鞄などを頭の上に抱え、店の軒先に集って雨宿りをしていた。

「・・・貴女が、その姿に生まれ変わって、私と伊織の前に現れたのも、そういえば雨の日だったわね。エルヴィーラったら、学校に乗り込んでくるんだもん。あれからずっと、私と伊織は二人共、学校ではイタイのを通り越して、完全にヤバい子扱いよ」

強まる雨足の音に、エリカは、車内の空気を少しでも和ませようと、そんな軽口を、エルヴィーラに口にしてみる。

「イタイ?ヤバい?それは、どういう意味の言葉か分からない」

そんな怪訝な顔をされたので、エルヴィーラに通じていない事を察して言い換える。

「変な子扱いになってしまったって事。あの時は、本当に学校内大騒ぎだったんだからね。雨の中を、人形そのままの恰好で歩いてくるんだから、皆幽霊だ!お化けだ!って騒ぎだして・・・」

そこまで口にしたところで、エリカはまた口を閉ざす。日が暮れ行く中、降り出した雨で更に重くなりそうな車内の雰囲気を紛らわす為にした話であったが、また、伊織の事を思い出してしまったから。

人間の姿になったエルヴィーラが、初めて現れたあの日。まだ、幼馴染で親友として何気なく接してくれていた、普段通りの伊織の姿を。今思えば、エリカが、エルヴィーラと雨上がりの花見に出かけ、伊織だけ先に帰ってしまったあの時から、伊織の中でエルヴィーラへの嫉妬、エリカへの哀しみと怒り、それらが一緒くたに混ざり合ったものは燃え盛り始めていたのだ。それにも気付けず、エルヴィーラの奇跡に浮かれていたようにしか思えないあの日の自分は、あまりに愚鈍としか言いようがなかった。

「あの時、突然現れた私を、人形のエルヴィーラだとすぐに二人は信じてくれたわね」

エルヴィーラがポツリと呟いた。後部座席で自分の隣に座っていたエルヴィーラに、目を遣って、エリカは答える。

「あの時は、エルヴィーラの左足の傷まで見せられたからね。人間の姿になっても、人形の時の傷は消えないんだね・・・」

エルヴィーラは、スカートの下に包まれている左足にそっと触れた。そのスカートの布の下の生足には今も、細く、何かで引っ掻かれた線のような傷痕が残っている筈だ。

「・・・この事実は、言うつもりはなかった。願いを叶えて、また、物言わぬ人形に戻るまで、エリカには秘密のままにするつもりだった。でも、このような事態になってしまったからには・・・エリカと伊織、二人の為を思って、言うわ」

「言うって何を?」

「・・・この左足の傷をつけたのは・・・、伊織なの。あの子は一度だけ、人形の私を本気で壊してしまおうとした事があったの。エリカの目を盗んで」

「ええっ!?」

「う、嘘、伊織ちゃんが、エルヴィーラを⁉」

エルヴィーラの突然の告白に、エリカも、運転していたエリカの母親までも驚きの声を上げる。一瞬、車体が大きく揺れた。「お母さん、前、前見て!」とエリカは言ったが、エリカの母親も相当に衝撃を受けているらしい事は、バックミラーに映るその表情からも明らかだった。

「伊織は、エリカと幼馴染になってから、ずっと、心の何処かで私の存在を疎ましく思っていた。人形ばかりに熱中して、とりわけ、その人形達の中でも、私の事ばかりを見ているから、エリカは自分の事を見てくれないんだって。そんなある日、エリカが伊織と二人、いつものようにお人形遊びをしていた時に、エリカが私を置いて、少し離れた事があったの。その時に、伊織は・・・私を見て、抑え込んできた物が爆発してしまったのでしょうね・・・。部屋にあったカッターナイフで、私を切り刻もうとしたのよ」

エルヴィーラはスカートの上で手を握りしめる。エリカは、衝撃の告白に、返す言葉もない。伊織がそこまで、暗い衝動を爆発させていた過去があったとは・・・。

『そんなに昔から、伊織は・・・エルヴィーラの事を憎んで・・・』

エリカの気持ちを読み取ったかのように、エルヴィーラは言葉を続けた。

「でも、誤解はしないで、エリカ。あの時の伊織は、決して憎しみに飲み込まれていた訳じゃない。動けない人形の私は、あの子の心に呼びかける事しか出来なかった。伊織は、エリカと違って人形の声を聞く事は出来ないのは知っていたけど・・・。でも、そうしたら、伊織は止まってくれた。私の左足に傷を一本、入れたところで。泣きながら、私を抱きしめてこう言っていたの。『ごめんね、エルヴィーラ。エリカを、エルヴィーラに取られるじゃないかって思って、酷い事をして。私を赦して』って、何度も、何度もそう言ってた」

その悲痛な叫びを、当時の伊織の声を思い出しながら、脳内で再現する・・・、耐え難い胸の痛みが走り、座席に身を預けて、その痛みに耐える。しかし、これ以上の悲痛を、何年も伊織に味わわせて・・・、挙句には伊織を、そのような行為に走らせるまで追い詰めたのは、他でもない自分なのだ。

「エリカ、これは私からの、お願い・・・。どうか、この事実を知っても、伊織の事を嫌ったり、憎んだりしては駄目。伊織はあれからずっと、エリカの大切にしている物を傷つけたって、苦しんでいた。『エリカにもし知られたら、どうしよう』って、私の傷を見て、悔やんでいた・・・。どうか伊織を赦して、受け止めて。私は、エリカと伊織にはずっと一緒にいてほしいんだから・・・」

エルヴィーラの声をぼんやりと聞きながら、雨に濡れた窓の向こうに霞んで見える、赤い屋根の『ドイツ屋敷』と呼ばれる自宅を、エリカは見つめていた。

「伊織を赦す・・・?赦してもらわないといけないのは、私の方だよ、エルヴィーラ。だって、私のせいで伊織は苦しんだ末に、エルヴィーラにカッターを振り上げてしまったんでしょう?元を辿れば、私が、周りを不幸にしていた・・・。伊織を苦しめて、そしてエルヴィーラにも傷を負わせて・・・」

門が開いて、車が家の庭に入っていく。春の草木が、雨露に濡れて、車のライトを照り返しているのを見つめ、エリカは、そう呟いた。

家の中に、3人、無言で入っていった。庭に面したリビングは、窓が破壊されたままで、応急処置のブルーシートを張っているだけの、脆弱な状態だ。ジュリアが・・・そしてジュリアの操り人形と化した伊織が入ってくるならば、ここからだろう。

エリカの母親は、ダイニングルームの食卓にエリカとエルヴィーラを駆けさせ、緊迫した面持ちのまま、一旦部屋の外に出て行くと、またすぐに戻ってきた。その手にはゴルフクラブが握られていた。

「お母さん、何それ・・・?」

エリカが尋ねると、彼女は不格好な姿勢でそれをブンと一振りして、

「護身用よ。お父さんの部屋にあったゴルフクラブ。会社の付き合いで買ったけど、『ゴルフなんかより、人形の世界にはまり込んでる時間がずっと楽しい』って言って、ろくに使ってなかったやつよ。こんなのでもないよりはマシでしょう?家に怪しいのが入ってきたら、これで追い払ってあげるからね」

と言った。エリカの父は、今日の事故で骨折してしばらくは入院せねばならず、今の朱宮家には女手しかない。一応、リビングの窓硝子が破壊された後から、「何者かが、怨恨で朱宮家を狙っているかもしれないから」と父が警察に頼み込んでくれて、パトロールは強化すると言われて、警官二人が送られ、家の近所をパトカーで警らはしてくれていた。しかし、相手は半ば、人智を超えた幽霊にも近いような存在で、人を操る霊力まで用いる人形だ。警官二人のパトロール程度でどうにか出来るとは思えなかった。

ましてや、ゴルフクラブ程度で、ジュリアの霊障から護身の武器になるとは到底思えない。

エリカの母親はその後、台所で、コンロに点火する音や、何かを上の棚から出す音を立てていたが、そうした物音も全て、エリカの耳を素通りしていく。

「ジュリアと一緒に・・・操られた伊織が来たら・・・、私、向き合わないと・・・。エルヴィーラの傷の事も、全部知ってしまったのも話して、その上で、そんなに哀しい思いをしてでも、私の傍にいてくれてた事に、謝らなきゃ・・・」

ブツブツと、自身に言い聞かせるように、食卓の下で冷たくなる両手の指を絡ませながら、エリカはそう言う。しかし、また、今日の伊織の家での出来事が頭を過ぎる。

『エ・・・リ・・・カ・・・』

悲哀に満ちたあの声が、耳元で再生され、胴に、あの時、しがみついてきた伊織の腕の質感が蘇る。ジュリアに取り憑かれ、操られる『人形』に成り果てた伊織の姿が・・・。それら全てが、エリカの勇気を挫いて、体を震わせる。

「はい、これ」

と、俯いていたエリカの鼻腔をくすぐる、甘い香りが立ち上る。いつの間にか置かれていた、マグカップの中を満たすのは、エリカの母親の特製のココアだった。

「コーヒー飲めない頃は、いつもこれ、寒い時期には飲んでたでしょ。エリカも・・・、それに伊織ちゃんも。今日は少し肌寒いし、エリカに少しでも元気になってほしくて入れてみた。はい、こっちは、エルヴィーラの分ね」

エルヴィーラの前にも、ココアのマグカップが置かれる。図らずも、エルヴィーラの座っていた椅子は、伊織とこの家でお人形遊びをしていた頃、エルヴィーラとジュリア、二つの人形を座らせていたのと同じ椅子だった。

「懐かしい、この味・・・。昔の伊織もよく飲んでたな・・・。お人形遊びして、そのまま、伊織はジュリア、私はエルヴィーラを連れてきて、ここのテーブルに座ってさ。エルヴィーラは、今座ってる椅子にいつも、座らせてたんだよ」

「ええ、よく覚えてるわ。あの時は、ジュリアも、伊織も一緒だったのよね・・・。それで、私達、人形二人の前にも、ココアをちゃんと置いてくれてた。美味しい?って聞いたりしながらね」

口に運びながら、エリカは体の隅々まで、冷えた心までも温まっていくようだった。

その隣で、人間の姿をしたエルヴィーラもココアを口に運んでいた。人形の姿の頃ちと異なり、今は人間と同じようにココアを飲んでいるその姿に、やはり不思議な存在だと思わされる。元人形なのに、口に入れた物は一体何処に消えているのだろう。

母親と、エルヴィーラと3人で食卓を囲んで、温かいココアを口に運ぶ。その、ダイニングルームを満たす、甘い香りに、極度の緊張と、恐怖も少しだけ解れていく。

「また、こうして、このココアを、伊織とも一緒に飲めるかな・・・」

「飲めるよ・・・必ずね。」

その母親の言葉に、エリカは、こくりと頷いた。

エリカの隣で、マグカップを両手で挟み込むようにして、エルヴィーラもまた、何か呟いた。それは、エリカにはこう聞き取れた。

「そう・・・エリカは必ず、前の生活に戻れる・・・、私さえ、・・・れば」

その全てを聞き取る事は出来なかったが、そうして、何かを呟いていた時のエルヴィーラの横顔は、何処か悲壮感に包まれていた。それが、酷く気になったエリカは、何を言ったのか、問い質そうとした。


その時であった。突如、エルヴィーラの表情に緊張が走る。彼女は椅子を蹴立てて、立ち上がった。

「エリカ!気配が近づいてきたわ!」

その一言を聞いた瞬間、エリカも、エリカの母親も、遂に「始まった」らしい事を悟る事が出来た。エリカも、目を閉じて、意識を研ぎ澄まして、人形の気配・・・ジュリアの気配を探り出す事に集中する。人形の間でジュリアの人形を抱き上げた時、そして、伊織の家で人間の姿になった彼女に遭遇した時の、あの邪悪な空気を・・・。

「・・・近い!もう・・・そんな近くに・・・!」

そして、エルヴィーラの言った通り、ジュリアの気配が迫ってきているのを悟った。その、ジュリアの気配の中に混じり込むように、また別の気配が存在しているのを知り、エリカは

「ジュリアだけじゃない・・・伊織も・・・あの子も一緒に来てる。きっとまた、操り人形にされて」

そして、家の中が急に、真っ暗になった。

「きゃあっ⁉」

エリカは椅子から軽く腰が浮く勢いで、驚く。

エリカの母親は「停電⁉ちょっと、ブレーカーを見てくる・・・。防災用の懐中電灯は確かあそこに・・・」と言って、護身用のゴルフクラブを手にして、部屋を出て行った。

しかし、やがてエリカの母親は、懐中電灯で周囲を照らしながら戻ってきて、エリカに首を振った。

「駄目・・・ブレーカーを戻したのに、全く灯りが付かない・・・。これは、普通の停電じゃない・・・!」

食卓の上に懐中電灯をもう二つ並べる。それをエリカは手に取り、少しでも暗闇を払い除けたくて、それを点灯させた。3人でダイニングの中のあちこちを照らしたが、まだ怪しい影などはなかった。

「家に入る前から、これだけの霊障を起こせるなんて・・・。エリカ。それにエリカのお母さんも、私から絶対に離れないで。もう、二人が・・・ジュリアと、伊織がここに来るのは、時間の問題よ」

エルヴィーラはそう言うと、点灯したままの懐中電灯を持ち、「リビングの方を見に行きましょう。あの二人が侵入してくるなら、あそこの筈だから」と言った。

「い、一番危ないところなのに?」

エリカの問いに、エルヴィーラは頷く。

「この家の何処に逃げ隠れしても、すぐに二人に見つけ出されてしまうだけ。それなら、あの場所で正面切って迎えうちましょう。大丈夫、あの二人は私を真っ先に狙ってくるし、私をおいて、エリカやエリカのお母さんを襲ってくる事はない筈。もしも、エリカやエリカのお母さんに害を加えるような事をしてきたら、私が二人を守るから」

エルヴィーラは自分の身を、二人を守る盾にするつもりなのだと、その言葉を聞いてエリカは悟った。

「そんなの駄目よ・・・!あの二人は・・・特にジュリアは何をしてくるか分からないんだよ?エルヴィーラを憎んでるから・・・。エルヴィーラの身に何かあったらどうするの・・・⁉」

エリカは、そう言って、エルヴィーラを引き留めようとする。しかし、エルヴィーラは、家の中を満たしている宵闇の中でも輝きを失わない金髪をなびかせて、首を横に振った。

「危険な事は勿論、分かってる。ジュリアに、エリカやエリカのお母さんが襲われるのを黙って見ている事なんて私には出来ないわ。お願い、私は、そうしたいからそうするの。エリカも、私の事を愛してくれているのなら、私に、エリカの事を守らせて」

エルヴィーラは穏やかに、しかし、譲らない口調でエリカにそう言った。

そうして、リビングに辿り着く。窓硝子はまだ砕け散ったままで、応急処置のブルーシートが張られている。その隙間からは、雨音が漏れ聞こえ、水気を含んだ春のまだ肌寒い夜風が吹き込んできている。その夜風の中に、ジュリアの邪気が次第に濃さを増していくのをエリカも感じ取っていた。先程のココアで少し温まっていた体も、また骨の髄まで冷気が沁み込んでいくように、冷えていく。

エリカと違い、特に人形の声や気配を感じ取る能力はない、エリカの母親でさえも、その邪気は薄っすらと感じ取れていたらしい。

「何か・・・すごく嫌な寒気がするわね・・・」

そう言って、護身用のゴルフクラブを構えたまま、表情を硬くしていた。その顔色も蒼白だった。

その二人を背にして、エルヴィーラは窓の方に向かって、語りかけるように言った。

「この気配はジュリアね・・・?もう、すぐ近くまで来ているんでしょう?こそこそと姿を隠していないで、私を狙いに来たのなら、姿を現したらいかが?そして、エリカの大切な人の、伊織を今すぐに解放しなさい。貴女が私を憎んでるのは知ってる。だけど、それは私達二人の問題で、伊織は関係ない」

もう、あのブルーシートを一枚隔てた、雨に濡れる庭にまでジュリアは来ているのだろうか?操り人形と化した、伊織も連れて・・・。エリカは、体をガタガタと震わせて、固唾を呑んで、エルヴィーラと、窓の方を交互に見ていた。

エルヴィーラが言葉を発して、しばらくすると、

『フフフ・・・』

という、洞窟の奥から反響しながら聞こえてくるような、不気味な、少女の甲高い笑い声が、リビングに響き渡った。間違いなく、この声は、今日の昼間に、伊織の家で聞いたのと同じ声・・・ジュリアの声だった。

エリカは腕をぐいと横に引っ張られた。横を見れば、エリカの母親が、青ざめた表情で、それでも右手にゴルフクラブを握りしめたまま、「エリカ・・・絶対に、お母さんから離れないで」と口にした。彼女にも、ジュリアの声は聞こえていたのだろう。

そして、次の瞬間、エルヴィーラが闇の中で叫んだ。

「エリカ!ジュリアが来るわ!」

そして、エルヴィーラは大きく腕を広げて、エリカとエリカの母親の二人を、その腕の中に抱え込むようにした。

エリカは「二人共、目を閉じていて!」という、エルヴィーラの声を聞いた。

その直後から・・・、部屋の中に恐ろしい轟音が鳴り響いた。エリカは目を硬く瞑り、両手で耳を覆った。それでも容赦なく、その轟音は、鼓膜を貫かんばかりにエリカを襲い続けた。その音の正体は、どうやら、リビングに残されていた家具たちが、宙を舞い、吹き飛ばされ、壁や棚に激突している、その嵐の音であるらしかった。リビングの角に鎮座していたテレビのコードが、引きちぎられる音なども聞こえた。

すぐ近くでこれだけの嵐が吹き荒れているのに、一つも物が飛んでこないのが、エリカには不思議に感じられた。今はただ、エルヴィーラと、母親と3人で身を寄せ合って、この大嵐を凌ぐしかなかった。


ようやく轟音が静まり、エルヴィーラが、二人を抱え込む腕を緩めて、振り返る。エリカも、エリカの母親もそれにつられて、リビングの方に目を遣った。

穏やかなひと時を過ごす場だった筈のそこは・・・、その面影もない程に破壊され尽くしていた。ソファも、テーブルもひっくり返り、何度も壁にぶつかった為か、壁も穴だらけになっていて、その穴の一つには、引きちぎられたコードをぶら下げたままのテレビがめり込んでいるという始末だ。

リビングの窓を覆っていたブルーシートも、無惨にズタズタに引き裂かれ、雨が家の中へと降り込み、雨露が床を濡らしていた。

これだけの嵐が部屋の中で吹き荒れたのに、自分は無傷である事を、不思議にエリカは感じる程だった。エリカの母親も、破壊され尽くしたリビングの有様に、茫然とした様子であった。

立って、部屋の中の様子を見渡していたエルヴィーラは、急に、ふらっと姿勢を崩して床に膝を突いた。その表情は、いつになく苦し気な物だった。

「エルヴィーラ⁉しっかりして!」

エリカは、消耗した様子のエルヴィーラに駆け寄った。このように苦しそうな彼女は見た事がなかった。

「エリカ達が無事で良かった・・・。私は、ジュリアのように、霊力で人を攻撃は出来ないけど、その代わりに霊力を使って、人を守る事は出来る。ジュリアの攻撃から、結界を張って、エリカ達を守っていたわ・・・。でも、ジュリアの霊障がこれ程の力だとは・・・。思った以上に、消耗したわ」

エリカが無傷で済んだのは、エルヴィーラの霊力で、ジュリアの霊障を遠ざけてくれていたからだったのだ。そうでなければ今頃、とっくにエリカも、飛び交う家具の下敷きにされていた事だったろう。

エルヴィーラは、何とか立ち上がり、窓の方へ睨むように、鋭い視線を向けた。その危うい足取りから、エリカは、彼女がかなりの消耗をしている事が見てとれた。

「・・・この程度では、やはりエルヴィーラに傷は負わせられないようね・・・、認めたくはないけど、流石だわ」

その声に、エリカの肩が跳ね上がった。今度は、先程のように頭の中に響いてくるような物ではなく、直接、この耳で聞こえた。エルヴィーラが、身構えるのが分かった。エリカは、恐る恐る、顔を上げて、ブルーシートが引き裂かれた窓の方へ、目を向けた。

二つの人影がリビングの中に立ち尽くしていて、叫び声を上げそうになるのを、かろうじて飲み込む。

黒衣の美少女、ジュリアがそこには立っていた。横に、虚ろな表情の伊織を連れて。その伊織の手にしている物を見て、エリカはまた、息を呑む。伊織の手には、暗闇に鈍く銀色に光る、包丁が握られていた。

伊織の目は、家で彼女に襲われた時と同様に、光はなく、人形のように生気のない瞳をしていた。

「伊織!何・・・してるの?なんで、包丁なんて持ってるの?そんなの捨てて、こっちに、私のところに戻ってきてよ、伊織!!」

エリカは、変わり果てた姿の伊織に、堪らずに叫んだ。しかし、伊織は、魂を抜き取られ、本当に人形にされてしまったかのように、エリカの叫びを聞いても微動だにしない。ジュリアは、エリカに、冷たい眼差しを送って、こう言った。

「無駄よ、今更、エリカがそんな事言ったところで。エリカが蔑ろにしてきた可哀想な伊織は、今、私の操り人形なんだから。伊織は今、私の命令にしか従わないわ」

ジュリアの冷たい、どこまでも暗く深い深海を思わせる瞳に睨まれて、伊織の家での体験の恐怖が蘇る。しかし、身が竦みそうな自分を奮い立たせて、エリカはジュリアに叫ぶ。

「私のお父さんを事故に遭わせたのも、ジュリアでしょう!伊織を使ったわね⁉」

ジュリアは、冷ややかに笑い、答える。

「ご名答よ。エリカの父親に、恨みはないけれど、エルヴィーラに苦しんで、動揺してもらう為に、ちょっと怪我をして頂いたわ。あの時は、伊織は、私の良い操り人形として働いてくれたわよ」

やはり、エリカの父親が事故の直前に、伊織によく似た少女が突然現れたと言っていたのは事実だったのだ。朱宮家に危害を加える為の道具として、ジュリアは伊織を操っていた。

エルヴィーラも、いつもの落ち着いた口調からは想像もつかない、怒りを滲ませた口調でジュリアに言った。

「これ以上、伊織を巻き込まないで!ジュリアが憎んでいるのは私でしょう?伊織は関係ない。その子をすぐに解放して!これ以上、エリカを苦しませないで!」

「お断りするわ。だって、こうして伊織を操り人形にして、エリカが苦しめば苦しむ程、エルヴィーラも苦しむから、やっているのだもの。エリカもどう?伊織を人形にされた気分は?貴女が、エルヴィーラに熱を上げて、私に見向きもしなくなった間、どれだけの痛みと哀しみを抱いていたか、少しを伝わったかしら?そして、同じように、貴女に見てほしいと願いながら、見てもらえなかった、伊織の哀しみも」

ジュリアのその言葉に、エリカは言葉を返せない。自分が、幼馴染で一番の親友の筈の伊織の気持ちに気付けずに、人形のエルヴィーラに熱中してきた為に、伊織を苦しめたのは事実だから。

「くっ・・・!エルヴィーラの言う通りよ!伊織ちゃんを、解放しなさい!さもないと、こうよ!」

その時、エリカの母親が無謀にも、ゴルフクラブを振り上げて、ジュリアに向かっていった。エルヴィーラが「駄目!」と叫ぶも間に合わなかった。

「はあ・・・貴女にも恨みはないんだけど、邪魔するなら、ちょっと大人しくしていてもらうわね」

ジュリアはそう言うと、エリカの母親に向かって、掌を向けた。次の瞬間

「え・・・?ち、力が・・・」

と、エリカの母親は、途中で、ガクッと膝を落として、床に倒れ込んだ。ゴルフクラブは床に落ちて、ガラガラと音を立てる。その様子を見て、エリカは、自分が昼間、ジュリアに襲われた時と同じ霊障を使ったのだと瞬時に分かった。

「ジュリア・・・よくも貴女、エリカのお母さんまで・・・!」

怒りを滲ませて、エルヴィーラが叫ぶ。

「大丈夫よ。ちょっと眠ってもらっただけだから。恨みがない人の命を、闇雲に奪ったりはしないわ・・・。ただし、貴女は別よ、エルヴィーラ」

ジュリアはそう言って、指先を動かす。すると、その指先と糸で繋がれているかのように、彫像のように動かなかった伊織が急に動き出す。‐包丁の切っ先を、ピタリとエルヴィーラに向けて。

ジュリアは、ひっくり返ったソファの片隅に腰かけ、笑い声をあげる。

「ねえ、エルヴィーラ、覚えてるかしら?これと同じ状況が、昔あった事」

伊織が、エルヴィーラに包丁を向ける様を見て、エリカは、ジュリアの言わんとする事をすぐに悟った。今日、病院からの帰りの車の中で、エルヴィーラが語った、左足の傷の真実・・・、かつて、伊織が、カッターナイフをエルヴィーラに振り下ろして、破壊しようとした事。その日と同じ構図を、今、伊織を操り人形にして、ジュリアは再現してみせたのだ。

「ジュリア・・・!貴女は・・・!何処までも、エリカを愚弄するような真似を・・・!」

「まぁ、忘れる筈がないわよね。自分が切り刻まれかけたんだから。今日、私は、私の為だけでなく、伊織の復讐も叶えてあげる為に来たのよ。私は、エルヴィーラにエリカを奪われて、伊織もまた、同じくエルヴィーラにエリカを奪われて、苦しんでいた。これは、私達二人の、貴女への復讐よ」

ジュリアは、痛快で堪らないと言った様子で語り続けた。そして、エリカにも視線を送る。

「こんな手荒な手段を用いてごめんなさいね、エリカ。でも、こうでもしないと・・・エルヴィーラに消えてもらわないと、貴女は私も、伊織の事も見ようとしない・・・。貴女の愛をエルヴィーラから取り返す為の、これはやむを得ない事なのよ」

何が、やむを得ない事だ・・・とエリカは怒りに震える。

『私達二人の復讐、ですって・・・?ジュリアは、伊織の苦しみに付け込んで、利用してるだけじゃない!』

「さあ、お喋りもそろそろお開きよ・・・。行きなさい、可哀想な伊織・・・。あの日、出来なかった事をここで成し遂げるのよ。そうすれば、もう邪魔なエルヴィーラはこの世からいなくなる・・・」

ジュリアは、また指先を動かす。連動するように、伊織は包丁をエルヴィーラに向けたまま、にじり寄る。そして、徐々にその歩幅を早めていく。

「エ・・・リ・・・カ・・・を・・・か・・・え・・・せ」

ふらふらと歩いていく伊織は、そう呟いた。伊織の思念が表に僅かに出たのか、ジュリアが言わせたのかは分からなかった。エルヴィーラは立ち尽くしたまま、逃げようとしない。あのまま、伊織の凶刃を受けるつもりなのか・・・。

向かう伊織の横顔は、雨露ではない、水の雫に微かに濡れていた。

その涙を見た時、エリカは動き出していた。

『逃げない・・・!伊織に、今日こそはちゃんと、向き合うって決めたんだから・・・!』


そして、リビングに、刃物が何かを貫く鈍い音が響いた。

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